随分と自分がお人好しに映っていることを知って、篠岡はひとり息を吐いた。形作った笑顔と、内側の感情がいつだって一致しているなどと、一体どうして思えるのだろう。少なくとも、高校生にもなって笑って事を流そうとする心理を全く分からないなどとは言わせない。つまりこれは、頼まれたというより利用されたという方が正しい。わざわざ皺が付いたり折れないようにと気を遣いながら、それでも右手にある自分の筆跡ではない文字で綴られた恋文を、篠岡は今すぐにでも突風が吹いてこの手から攫って行ってくれればいいのにと願っている。
 何故、阿部君に渡してと頼まれた手紙を最初に突き返してしまわなかったのか、もう何度も自問自答しては分かり切った回答を浮かべて、そのどれもが言い訳じみていることに苦笑する。相手が上級生だったからだとか、下手に断って勘ぐられたくなかったとか、相手の気持ちも分かるからだとか。野球しか見ていない阿部の手を煩わせるようなことはしたくないと言えばそれで良かったじゃないかとも思う。マネージャーだからお願いと言うのなら、マネージャーだから選手の邪魔は出来ないと断れば良かったのだ。それをしなかったのは、選手の邪魔と遮ってしまうにはあまりに悲しい位、相手が阿部に向けている感情が、自分が彼に向けているものと変わらないと分かっていたから。同情なんて出来る立場じゃない癖に、何をしているのだろう。
 篠岡が阿部のことを好きだと知らない上級生は、客観的に見ればとても可愛らしく恋する女の子という風だった。綺麗に結われた髪も、薄く施された化粧も、丁寧に揃えられて光るネイルも、手首にアクセントレベルに付けられたシュシュのどれもが、篠岡の恰好には無いものばかりで、まるで自分が劣っているかのような錯覚に陥ってしまう程だった。
 渡すだけでいいのだ。返事を貰ってきてくれとまでは頼まれていない。それなら、部活の連絡、クラスの授業プリントを渡す時みたいに呼び止めて、笑って手短に用件を伝えて彼の手にこの封筒を押し付けてしまえば良い。その後どうするかは阿部の問題で、篠岡の無意味な葛藤はこの件とは一切関わらない。たったこれだけのことをぐずぐずと躊躇いながら、篠岡は視界に存在してもいない阿部の気配を自分が今いるこの教室内に探っている。
 阿部が自分から篠岡に近づいて行くことなどそれこそ部活の連絡でなければ有り得ないことなので、結局篠岡は音を立てて椅子から立ち上がる。比較的大きい音だったのだが、休み時間という喧噪の中では誰も気に留めていない様だった。ぐるりと教室を見渡すと、阿部は自分の席に突っ伏して眠っていた。起こしたら悪いかなと躊躇しかけたけれど、結局それも言い訳だと思えて、篠岡は早く済ませてしまおうと意を決して阿部の席まで近付いて行った。起きていたら普段割と固まっている同じクラスの野球部の面子はみんな揃って寝ていた。そして安堵する。失礼ながら、水谷あたりが起きていたらきっと阿部が恋文を貰ったことを囃し立てて間違いなく彼の機嫌を損ねていたに違いないのだ。

「阿部君、阿部君」
「……ん」
「あの、今ちょっといいかな」
「何、部活?」
「ううん、違うの。ごめんね」

 発せられた声は、普段よりも少しトーンの低いものだった。騒がしい教室ではあるが、阿部の眠りは思ったよりも深かったらしい。それは阿部がそれだけ疲れているということなので、篠岡はひどく申し訳ない気持ちになる。やはり後にしておけばよかったと、だから早く終わらせてしまおうという感情が篠岡の中でぐちゃぐちゃにこんがらがってしまって、言葉を添えることが出来ずに手にしていた封筒を阿部の前にすっと差し出した。
 それまで、覚めきらない頭を抱えながら俯いていた阿部が、ここで初めて篠岡の方を見た。彼の机の前に立っている篠岡と、椅子に座っている阿部とでは当然阿部が篠岡を見上げる形になる。その為、彼女の背後に映った教室の蛍光灯の光が、寝起きの阿部の目には痛かった。自然と顰められた表情に勘違いをした篠岡は慌てて説明をしようと口を開く。

「この手紙ね、さっき阿部君に渡してって頼まれたんだ」
「……誰から?」
「さあ…二年生って言ってたよ」
「断れなかった?」
「……うん、ごめんね」

 やはり機嫌が悪いのだろう。面倒だという感情を隠すことなく、阿部は手紙の送り主を含めそれを中継した篠岡すら責めている。篠岡は、出来るだけ穏便にこの会話が終わるように曖昧に微笑んで謝罪するしか出来ない。萎縮することは阿部の苛立ちを増長させるだけだと、部活中の彼のパートナーとのやり取りから学ばせて貰った。もし阿部の機嫌が今よりも良い時に手紙を渡していたのなら、この行為は褒められるような善行ではないけれど、咎められるような悪行をした訳でも、またその手紙自体に込められた気持ちそのものに罪がある訳ではないことを阿部は一体どれくらい分かってくれたのだろう。
 せめて、好意を好意と理解してくれたら良いのに。篠岡は、この手紙の差出人の為にではなく願う。諦められない恋を、未だ阿部に抱き続けている自分の為に、願うのだ。身勝手で、厄介で、だけどそれ以上に大切な、自分を突き動かす確かな動力源でもある恋がある。きっと阿部本人にそれを伝える日は、マネージャーと選手でいる間には訪れないだろうけれど。
 阿部は、それを受け取る側が迷惑と感じれば好意を悪意と変換してしまう人間なのだ。自己中心的な考え方で、思いやりがないといえばその通り。だけど、好意を抱くこと、伝えることが相手の自由ならばそれを拒むことも、それに対してどんな感情を抱くかも当人の自由だ。寧ろ、考えて練り上げるものでは無く反射的に湧きあがる感情を制御することなど不可能に近い。

「阿部君、その手紙…返事はいらないみたいなんだけど…」
「ふーん」
「あの、せめて…読んであげてね」
「そしたら返事しなきゃいけないみたいにならねえか?」
「そうかな…」

 一度篠岡から手紙を受け取った阿部は、直ぐにそれを机の上に落とした。差出人不在の手紙を挟んで向き合いながら、篠岡の言葉は阿部の心をちっとも動かせないでいる。まさかこのままゴミ箱に捨てるなんてことはしないだろうが、無造作に鞄に突っ込まれてしまえば少なくとも数日は封を切られることもなく教科書や弁当箱、タオルに押し潰されてぐしゃぐしゃになってしまうだろう。そうして、相手の気持ちもぐしゃぐしゃに潰されてしまうのだ。気持ちすら、受け止めて貰えないままで。

「まあ、後で読んどく」

 ぞんざいに手紙を掴んで、引き出しの中を覗きもせずに押し込んだ。そしてこの話題はもう終わりだと言いたげに机に突っ伏してしまう。だから篠岡は、阿部の言葉に「それって嘘でしょう?」とは聞けなかったし、そのまま自分の席に戻る以外の選択肢が無かった。
 とぼとぼと、自分の席に座る。そして後悔する。やはりあの手紙は最初に自分が断っておくべきだったのだと。そうすれば、自分と同じ気持ちの塊が目の前で無残に潰されていくのを目の前で見ることもなかった。結局自分の為じゃないかと言われてもそんなことはもうどうでもよかった。阿部の行為を酷いと思う。それでも自分は阿部を好きだと思う。たったそれだけのことで、篠岡は今にも泣き出してしまいそうなくらい胸が痛かった。


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沁みると一層傷つくと知っていたのに
Title by『ダボスへ』




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