夏休み中の登校日、全開にされた窓から吹き込む風のおかげで少しだけ涼やかな廊下。そこを一人教室に向かって歩きながら、栄口は正面から歩いて来る少女に見覚えを感じ、だが名前すら覚束なくて目線だけを投げているとその相手の方が先に口を開いた。
 「焼けましたね」と寄越された言葉に、思わず「野球部ですから」と反射的に返してしまったばっかりに、栄口は内心浮かんだ「何で敬語?」という疑問を紡ぎ損ねた。よくよく考えれば、そういえば自分達が会話をするのは珍しいからだと気付いた。付き合い安い人柄だとは言われるが、フレンドリーに他人にすり寄っていくタイプでもない栄口は、遠慮がちに声を掛けてきた友井紋乃に対するリアクションを測り倦ねた。名前で呼び合う仲でもないし、そもそも名前すら正確に把握しているかも怪しい。彼女のことは、遠くフェンスを挟んでしか眺めたことはなかったのだ。

「友井さん?」
「はっ、はい!」

 身構えられて、ああしくじったと悟る。日焼けの話題だった気もするが、それはもう終わってしまったのだっけ、とも思う。でも名前を間違えていなかったことは良かった。
 続く言葉はなかなか浮かんで来ないのだけれど、あまり気まずくはないと栄口は感じた。あくまで栄口の個人的主観であって、もうひとりの当事者である紋乃がどう感じているかはわからない。
 栄口が紋乃に抱く認識は、野球部の応援でチアガールをやってくれた二人組の一人。間違ってはいなくて、感謝もすべきで実際している栄口との距離は、思いの外遠かった。
 続く言葉を考える。そういえば直接話したことなかったね。そういえばってなんだ。意外に感じるほど自分達は近しくない。フェンス越しに向かい合ったことは、試合後にあるけれど、目線が合ったことは一度もない。この場を借りて、野球部員として、礼を述べておくべきだろうか。仮にも自分は副部長だ。
 よし、と意を決して口を開こうと彼女に向き直った瞬間、彼女の日に焼けた細い腕がやけに目について、栄口は話し掛ける出鼻を挫かれてしまった。自分達や、野球部のマネージャーの篠岡程ではないにしろ、運動部でもない紋乃が此処まで黒くなるのかと気になってしまうレベルには、彼女の肌は夏を謳歌したという痕跡を残していた。
 遊び回ったのかとも思ったが、そこまでアクティブな印象は受けないし、年頃の女の子なのだから遊びに行くだけならしっかりと日焼け対策を取るだろう。自分の姉の出掛けの三十分の慌ただしさを鑑みて思う。近所のコンビニに行くのだって、すんなりと玄関に向かったりはしないのだから。

「…応援か、」
「はい?」
「野球部の応援でそんなに日焼けしたのかなあ、と思って」
「ああ!まあ、そうですねー。腕も脚も丸出しだったんで仕方ないです」
「日焼け止めは?」
「あはは、そんなの直ぐに汗で流れちゃいますよー」

 「何で敬語?」と本日二度目の疑問はまたぐぐっと飲み込んで、へえ、とだけ何とか返事をする。
 最初は、ほぼ初対面に近い女子の肌の色に反応するなんてよろしくなかっただろうかと一瞬不安にもなったが、当の紋乃は大して気にならなかったらしく、あっさりと栄口の予想を肯定してくれた。敬語である以上、まだ友達レベルの親しみは抱いていないとしても、知り合いと呼べる程度に会話も弾んだと思う。何をそんな真剣に相手との距離感を探っているのだと聞かれても、それは栄口にもよく分からなかった。ただ、なんとなく。彼女と正しい距離でありたいと思った。
 栄口も男子だし、思春期だし、凄く健全なので、近過ぎる分にはきっと一向に構わないのだ。相手には、そんな動機では失礼だと憤慨されるかもしれないが。だけど遠くにあるのは、もしかしたら寂しいかもしれないと一人戸惑っている。勿論、つい先程初めての会話を交わしただけの紋乃にそんな感情を抱いているかもしれない自分自身に。

「でも野球部の方がやっぱり焼けてますよね」
「うん、しかもユニフォームってチアの服と違って袖があるからさあ」
「わ、くっきり分かれてますね!」
「うっかり袖無しで外には出れないんだよ」

 ポロシャツの袖口を捲ってみせると、栄口の腕はユニフォームの袖辺りを境に色がはっきりと変わっている。それを見て、紋乃は可笑しそうに笑う。部員同士で見てもどこか間抜けで笑ってしまうのだから、彼女が笑っても何ら不自然ではないし、栄口も不快に感じたりはしない。第一、先にこの話題を振ったのは栄口の方なのだから。まあ先に日焼けを話題に話し掛けて来たのは紋乃の方だけれど、途切れた話題を拾い上げて膨らませたのはやはり栄口なのだから。
 予定にもなく、紋乃との会話に割と神経を使いながら、それでも切り上げることも出来ずに今でも次の言葉を探している。

「ごめんね、」

 数分前は、確か野球部の応援に対する礼を言わなくてはと思っていたのに、思わず口から零れ出ていたのは謝罪の言葉だった。紋乃は栄口の謝罪の意図が上手く飲み込めずにいるようで、不思議そうに彼の顔をじっと見つめてくる。たじろいでしまって、何か理由を説明しなくてはと焦る。

「いやあ、女の子ってあんまり日焼けとかしたくないんじゃないかなあって」

 咄嗟にしては真っ当な理由だと思う。その証拠に、紋乃は不思議そうな顔から一転、どこか得心いった表情へと変わっていたのだから。

「まあ、白いに越したことないですけど、言い出しっぺはこっちですから。それに、また来年もチアやろうねって話してるんですよ!」

 紋乃の言葉に安堵する反面、じゃあ来年まで彼女と接する機会はそれ程ないのかと少し残念に思っていたら、本日三度目の「何で敬語?」という疑問を口にするタイミングを栄口は完全に逸していた。


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引力ばんざい
Title by『にやり』





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