※命←瀬名←危

 平穏なんてものはそうそう自分達の日常には転がってこない。生命に密着した仕事をしているのだから、それはある意味当然とも言える。もしも世界からありとあらゆる病が消え去ったのなら、怪我を負うことがなくなったのなら。全ての人が穏やかに家族や大切な人と暮して行けて、全うすべき寿命を終えるまで生きていけるようになるのだろうか。
 そうしたら、私達医者は忽ち無職になってしまって食べていけない。寿命なんて全うする前にその辺でのたれ死んでしまうだろう。やっぱり世界はそれなりに上手く循環していくように誰かに設計されているのだろう。誰かが誰かを生かす為に医者とか医療が存在して、そしてそれらを活かす為に病気や怪我が存在しているのだとしたら何ともやるせない話である。
 ぼんやりとそんなことを考えてみる。目の前に置いたケーキに隙あらばと伸ばされる手を叩き落とすことも忘れずに。危先生は私に叩かれた手の甲を摩りながら「ケチ」だの子供じみた暴言を寄越してくるけど今は無視。勿論、ケーキだって渡さない。大体、そんなに甘いものが好きなら最初から自分で用意すれば良いだけの話だろう。人の物を横取りして自分の腹を満たそうなんて人として最低だと思う。

「西條先生のケーキ食べないでくださいね」
「アイツの分なら食っても怒らないだろ」
「だから駄目なんです」
「へいへい、」

 危先生と二人きりの小児外科の部屋はとても静か。普段騒がしくするのも大半は私の所為だけれど、だから逆にこうも静かな部屋は不思議な感じがする。
 正直目の前のケーキに対して今はあまり食欲を感じていない。危先生に食べて貰った方がケーキも美味しいと思われて消化されるのだから本望かも知れない。だけど一度餌付けの様に食べ物を献上してしまうとこの先も調子に乗って要求して来そうだから嫌だ。意地でも自分の腹に収めなければとフォークを手に取るが結局口まで運ぶことが出来ない。体調は、これといって悪くない。

「…食わないならくれ」
「どうぞ」
「熱でもあんのか」

 相変わらず失礼な男だ。じろりと睨んでみても危先生の関心は私の前に置かれたケーキに移っているんだから余計に腹立たしい。二人きりで話す機会は案外多いのに、今一つ彼のことが掴めない。
 早く西條先生が戻って来てくれれば良いのに。多忙な西條先生と一緒に雑談出来る時間は少ない。同じ様に多忙な筈の危先生は小児外科の医師では無いのにこうしてこの部屋に入り浸っているのに。それとも、この人は案外暇人なのだろうか。訝しげに視線を危先生に向けるけれど、ご機嫌にケーキを頬張っている彼は私からの視線には気付かない。甘いものが好きだからって一日にケーキを何個も食す男性なんて初めて出会った。手癖が悪いのか他人の物まで勝手に食べてしまう悪癖だけはさっさとどうにかしていただきたいものだ。

「…危先生は、暇なんですか」
「はあ?」
「西條先生は、今日は忙しいから、会えないかもしれませんよ」
「……」

 だって同じ科の部下である私でさえ、この時間なら落ち着いて話せるなんてタイミング、未だに掴めていないのだから。違う科の危先生にはもっと難しいことだろう。本当、西條先生のエネルギーは一体どこから捻出されているのだろうか。
 西條先生の役に立てるように、努力は日々怠らない。それ以上にあの人だって努力を怠らないから、なかなか目に見えてその差は埋まってはくれない。諦めは浮かばないけれど、西條先生に成長のない女だと呆れられたらどうしようという不安はある。西條先生は優しいから大丈夫、それは安堵なのか甘えなのか解らなくて、本当はいつだって前を向くだけで精一杯だ。西條先生といい雅先生にこの危先生、どうして自分の周囲には優秀な人間ばかり揃っているのだろう。これで自分を鑑みて俯くなと言う方が難しいのではないか。

「おい瀬名、俺は暇じゃねえからな」
「ああ、はい。そうですか」
「……お前さあ、少しは意識しない訳?」
「何をですか?」
「今、此処に、誰と、一緒にいるのかとか」
「危先生でしょ」

 分かってねえなあと頭を掻く危先生に何故か苛々する。私の理解力が足りないと言いたいのでしょうけど、提供する情報が偏っているのではありませんか。なんて厭味な敬語だって使ってやりたい気分だ。貴方と二人きりだから、一体何だと言うんですか。私を怒らせるのが本当に得意なこの人は、最近やたらと私に向って溜息を吐くから嫌なのだ。
 平穏な日常が欲しかった。仕事が忙しくたって構わない。だけどこうした人間関係に気持ちを掻き乱されるような煩わしさとは無縁の生活を送ってみたかった。それでも単純な私はあっさりと西條先生を好きになって、伝わらない気持ちに一人悶々と葛藤を繰り返す。危先生はそんな私の愚かしさにとっくに気付いている筈なのに。どうしてそっとしておいてくれないのだろう。叶わないなら、せめてひっそりと沈んでいたいのに。

「西條先生、遅いですね」
「…そうだな」
「忙しいですもんね」
「ま、アイツが来るまで寂しくないように俺が此処にいてやるよ」

 そんな優しさは要りません、そう思うけれど言葉にはしなかった。余計な波風を立てない方法ならそれなりに知っている。要らないと虚勢を内側で整えながら無言を通すことは結局彼の優しさを受け入れているのと同じことだ。それでも私は何も言わない。此処は私の居場所だけれど、私のものではない。だから彼が此処に留まろうと去ろうとそれは本人が自由に決めれば良い。真っ当な、それでいて苦しい言い訳に顔が情けなく歪んでしまったような気がする。だけど単純な私はもし今ここに西條先生が帰って来てくれたら直ぐにでも微笑んで駆け寄って行くんだろう。恋は、なんとも現金なものだから。ねえ危先生、明日は貴方の為に一つだけ多くケーキを持ってきますね。だからもう暫く此処に居てくれればいいと思う。それから、そんな情けない顔、私なんかに見せないでください。理由も分からず慰めるのは、どうも不器用で苦手です。



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ぼくらの終わりを知ってるか
Title by『彼女の為に泣いた』




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