篠岡が倒れた。そう聞いた途端、阿部は激しい音を立てて椅子から立ち上がり走って教室を出て行った。その場に残された、水谷や花井を始め、彼らの会話が耳に入ってきていた近場にいたクラスメイト等は、阿部の突然の行動に驚き、ただ彼が走り去った方向を見送るしかなかった。
 しかし、阿部と篠岡が付き合っていることを知っている野球部員の二名だけは直ぐに我に返り、阿部に悪いとは思いながら緩む頬を抑えることが出来なかった。そして花井は同情する。この阿部の行動は、水谷によって放課後の部活までには野球部全員に広まってしまうだろう。
――思ったよりずっとベタ惚れなんだな。
 花井が思っていることは、たぶん水谷とそう大差ないことだった。だから、花井は阿部が怒るとは知りながら水谷に釘を差すことはしなかった。阿部は、周囲に冷やかされるくらいで丁度いい。彼女が倒れないとわからないような好意は、見てるこっちがハラハラしてしまうのだから。関係ないだろうと言われればまあそうなのだが、キャプテンとしては、部活仲間同士の仲の良し悪しだって、視界に入り込む範囲内では気になってしまうのは仕方ないだろう。頼りにはなるが、悩みの種でもある副キャプテンの恋路を、花井は生温い目で今日も見守っている。


「――篠岡!…さんは、いますか…」

 乱暴に保健室のドアを開けると、直ぐに保健医と目が合い、その瞬間阿部の頭が一気に冷えた。とはいえ、取り繕うには若干手遅れだったようで、保健医は阿部に向かってにっこりと微笑んで見せると、無言でベッドのある方を指差して見せた。
 察しが良すぎるのも些か気まずいものがあるのだが、今は余計な会話を省けることがただ有り難い。同じように無言で、頭を下げて、つかつかと近付き閉じられた白いカーテンを捲る。
 一番手前のベッドで、篠岡は穏やかな寝息を立てながら眠っていた。

「寝不足からくる貧血だよ」

 寝れば治る。そう言い残して保健医は暫く職員室に行くから後は頼むと保健室を出て行った。気を利かせてくれたと言えばまあそうかもしれないが、それでいいのか。寛容というか、随分適当なような、そんな気がする。深く考えても仕方ないことだが、一生徒にそんな気を使わなくても良いだろうに。
 篠岡の枕元にパイプ椅子を、出来るだけ音を立てないように気をつけながら引き寄せて腰を下ろす。僅かに開いた窓から吹き込む風が心地良い。ふわりと揺れる篠岡の前髪をぼんやりと目で追いながら考え込む。
 放り出してきてしまった次の授業のこと。たぶん花井や水谷が誤魔化しておいてくれるだろう。ノートは花井から借りる。これで、恐らく笑いの種にされているであろう自分のらしくない行動に対する彼等の口の軽さには目を瞑る。軽いのは、主に水谷のみだが、そこは面倒臭いので二人一組として括る。
 昼食のこと。このまま篠岡の目が覚めないのなら、教室か此処で食べるかどうするか。でも昼休みなら彼女の友人も心配して保健室に来るかもしれない。そうすると、鉢合わせはなんとなく避けたい。遠慮されるのも、食いつかれるのも何かと鬱陶しい。篠岡は好きだが、彼女の周辺の存在まで全て受け入れたりは出来ない。自分の器量だとか付き合いの悪さに、とっくの自覚と諦めを選んでいるから、阿部は割と閉鎖的な人間だった。

「――…ん」
「篠岡?」
「阿部君…?」
「起こした?」

 短く詫びれば、篠岡はゆるりと開いた瞼をもう一度閉じて小さく顔を横に振る。そして再び目を開けて、斜め上に見える阿部の顔を確認すると不思議そうにぱちぱちと数度瞬いた。
 そんな彼女の様子が幼くて、可愛らしいと思う。自分が倒れたことを覚えているのかいないのか。躊躇なく上体を起こしてしまった篠岡に、まだ寝ていろとありきたりな心配文句を紡ぐ隙もなかった。

「貧血だとさ」
「あー、うん、」
「無理すんなよ」
「…ごめんね。部活までには良くなるよ?」
「そうじゃなくて!」

 とっさに荒げた言葉に、篠岡は驚くよりもよく分からないといった顔を阿部に向ける。体調の優れない寝起きの人間に向かって怒鳴るなんて自分でもどうかと思うが今はそれが幸いした。
 篠岡が寝不足になる理由なんて、部活以外にないと阿部は断言出来る。自分達の練習中に、マネージャーとして働いた後も、時期により篠岡は部の為に自分の時間を費やしている。大会も近い今、また対戦相手のデータ分析で徹夜を続けたに違いなかった。
――マネジだからだよ!
 その一言で、自分の努力、成果全てを表せる人間はそうはいないだろう。そこは、阿部は純粋に尊敬し感心し感謝する。ひとりの部員として、マネージャーである彼女への当然の敬意だった。
 だけど、今回のようにマネージャー業の無茶が原因で篠岡に何かあった時。阿部にはマネージャーの具合が悪いから部活に支障が出るとかそういった類の問題ではなくなってくるのだ。だって自分たちは付き合っているのだから。阿部だけが、違う。その唯一の、他の部員との差異を、阿部は嬉しく思うのだ。

「…阿部君?」
「篠岡が倒れるとさ――」
「……うん」
「俺がしんどい」
「………」
「だから、あんま無理、しないで」

 大袈裟なくらい真剣に、真っ直ぐに篠岡を見つめる。懇願と呼ぶには叶う気が全くしない要求。丁度良い妥協点なんて探して見つかるともわからない。こうして篠岡が倒れなければ、自分がどれだけ彼女に頼りっぱなしだったのか気付けなかった。その事実だけが阿部には腹立たしく痛い。
 それでも、篠岡が「ありがとう」とどこか嬉しそうにへにゃりと笑って見せたのは、今目の前にいて、二人きり、会話している相手が自分だからだと、阿部は自惚れていたい。
 マネージャーではなく、篠岡千代というひとりの女の子の身を案じてここまで馬鹿になれる自分を、阿部は少しだけむず痒く、どこか誇らしくも感じた。



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文鳥はきよらかに鳴く
Title by『ダボスへ』




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