雨のぱらつく日のことだった。初夏の熱気は水気を含むと猛烈な湿気がじめじめと肌に纏わりついて好きじゃない。午前中からくのいち教室の大半がその日の天候に顔を顰め文机に突っ伏していた。そんなだらけた姿勢を注意する山本シナ先生のぴんと伸ばされた背筋がやけに浮いて見えたのだがトモミはそのことを敢えて誰かに共感を求め言葉にすることはしなかった。単に暑くて面倒だった所為もある。少しでも涼を呼び込もうと開け放たれた窓から白鼠の雲を見る。夏の雲だと、何の気なしに感じ取った。冬の雨雲はもっと重々しい色をしている。鈍色とか灰色とかそういった辺りか。可愛い着物は好きだけれど、染色に秀でていない知識はさほど僅かな色の違いを言葉で以て表現することを良としない。季節はいつの間にか進んで行くのか、進んで来たのか。その違いもまた言葉で説明するには難しい。山本先生が教鞭を執っている術を覚えて説明する方がよっぽど簡単なように思えた。 随分集中していないことだと我ながら呆れてしまうのだが、どうしてかお叱りの声は一向に飛んでこなくて。それはばれていないからではなく教室全体が熱気の所為で萎れているからだと直ぐに理解した。これには山本先生も閉口してしまったようで、授業中にも関わらず全員井戸で顔を洗ってくるようにとお達しを受けた。 くのいち教室の全員で井戸を囲みながら、汗でべたついてしまった肌を洗い流す。幾分気分も持ち直した友人たちはこの先夏本番を迎え益々熱気が高まるのかと思うとそれだけで憂鬱だと顔を歪ませた。冬になればそれはそれで寒さが堪えるのだが、やはり気候は春や夏の穏やかさが一番よねと口々に皆が同調してしまったから、トモミは夏もそれなりに好きなのだけれどと言い出すことが出来なかった。今度は、面倒だったからではなく気後れしたからだ。 なんとか授業を乗り切って、昼休みを迎えてから友人たちは各々過ごしやすい場所を求めて散って行った。普段は仲の良い友人たちも引っ付き合う元気はないらしい。ユキやおシゲちゃんは図書室にでも行ってみると言っていたがトモミは昨日本を借りたばかりで用事もないし遠慮しておいた。降ったり止んだりを繰り返す雨の合間を目的地もなくぶらぶらと歩いていると自分がひどく無駄なことをしているように思えて、やはり二人と一緒に図書室に行っておいても良かったかもしれないという念が強くなる。もしかしたら、きり丸も当番でいたかもしれないし。そんな理由の倒置は直ぐに終わる。きり丸は今日当番でないことくらいとうの昔に記憶したのだから。きっと今日はは組の友人たちと遊んでいるかバイトに励むかのどちらかだろう。そんなことを考えながら随分と歩き回っていたらしく、いつの間にか学園の正門の所までやって来ていた。そしてそこには出門表の管理をしている小松田さんと、それに記入し出掛けようとしているきり丸がいた。間合いが良いのか悪いのか。丁度、顔を上げたきり丸とばっちりと目が合ってしまった。 「トモミちゃんだ」 「……アルバイト?」 「そ、午後授業ないからさ」 「こんな天気なのに」 「本降りじゃないし、この雲じゃあ今日はそんな降らないって土井先生も言ってたしね」 「呆れた。アルバイトの為に言った言葉じゃないでしょうに」 「そりゃあそうだけどさ。…トモミちゃんは?出掛けるの?」 「ううん、ただ散歩してただけ」 時折雨粒が落ちてきて肩や鼻先に触れる。じめじめとした熱気が徐々に高まっていく。小松田さんはきり丸のサインを確認すると、トモミが外出目的でないことを知りさっさと別の仕事に戻って行った。転ばないようにとは二人とも声を掛けなかったが、こんな僅かな雨量でも湿る土は湿っているのだから気を付けた方が良い。でも小松田のことだから転ぶんだろうなあと視線を彼の方に送りながら交わす会話は他愛ない。生活が懸かっている分多少の雨など気にも留めない。身の安全すら銭と天秤に乗せられないような男だから天候など端から問題ではない。 こめかみに浮かんだ汗が頬を伝い落ちていく感触。もっときり丸と話していたいような、さっさとアルバイトに出掛けてしまって欲しいような朧気な感覚。暑さの所為で朦朧としているのかもしれない。それなら自分も早く涼を求めるが正しかろう。トモミは夏が好きだけれど、暑さを原因に体調を崩してはその感情も揺らいでしまうだろうから。 きり丸は一向に場を離れようとはしないし、ただトモミの前に立って彼女の顔をじっと見つめながら話す。その瞳には当然トモミの顔が映り込んでいる。時折汗を拭うきり丸の姿に妙な心地になる。湿度の高い場所で用もなく雑談を交わす意味を探りたくなる。相手を引き留めるだけの事柄が存在するだろうかと。好意なら、ひっそりとトモミの内側に潜んでいるけれど。冷静さという膜で覆っている感情は暑さを理由に這い出てきたりはしない。それでも決して形を潜めはしないので何かと大変なのだ。どんな奥底に在ったとしても、会いたい触れたい喋りたいという欲求を送り出すことは可能だから。 「トモミちゃんすっごい暑そうだねー」 「きり丸もね」 「でも俺夏って結構好きだよ」 「―――、」 「夏って陽が長いからバイト増やせるんだよねー!」 「……あっそ」 「トモミちゃんは?」 「何?」 「夏、好き?」 「―――普通」 「ふうん、はっきりしないなあ」 「アルバイト行かないで良いの?」 「…行くよ。じゃあね」 「気を付けてね」 手を振って別れる。お互い笑顔を浮かべながら。だけど、トモミの笑顔の裏には少しの棘。嘘を吐いた。本当は夏が好きだったけれど、普通なんてきり丸の言う通り好きか嫌いかの二択に随分とはっきりしない返答をしてしまったと思う。理由はきっとなんとなく。それすらもはっきりとしていない。 もしかしたら、自分が好きと言う前に挟まれたきり丸の夏を好きという理由に少しばかり落胆してしまったからかもしれない。彼らしいと言えばその通りの理由だったけれど。思い出だとかに縛られない動機はきり丸個人の中で完結してしまっているからどうにも面白くない。来年も再来年もその先も、きり丸の周囲にいる人間が移ろい変わったとしてもきり丸が生きている限り彼は夏を好きだと言いきれるのだろう。たとえそこにトモミがいなくとも。良くて友人にしか収まっていない自分がそのことに業腹だとは出過ぎた考えかもしれないが感じてしまったことは感じてしまった事実としてそこにある。トモミがきり丸を好きだと思うことと同じように。きり丸に想われたいと願うのと同じくらい自然なことだ。 また鼻先に雨粒が落ちた。指で個所を拭い、空を見上げる。相変わらずの淡い雨雲。アルバイトの妨げになることはないだろう。だけど帰り道できり丸の足もとを掬うくらいの頑張りは果たして欲しいものだ。泥だらけの装束で帰った彼を指差して笑ってやりたい。年がら年中アルバイトに追われているきり丸に、夏とはそういうものだと教えてやりたい。 ――夏は楽しいものよ。 心の中でそっと呟く。こんな厄介な暑さだっていつの間にか思い出になるくらいあっという間に過ぎていくもの。多少のはしゃぎ過ぎも暑さを理由にすれば仕方ないでね済まされる。去年までの記憶を探りながら、トモミはやっぱりきり丸に夏が好きだと言っておけば良かったと後悔する。そうしておけば、夏休み中一日くらいアルバイトを放って遊びに出かけようと誘う勇気くらい出せたかもしれない。 「…好きだバーカ」 声に出してみる。周囲には誰もいない。いたとしても構わない。それにしたって本人を前にして言えないのなら無意味なことだろうに。トモミ自身らしくもないことをしているとは思うのだ。だけどこれだってきっと夏の所為。暑さの所為。それならば仕方ないよねと自分を許してトモミはやはり夏が好きだと一人来た道を引き返し始めた。 ――――――――――― 20万打企画/黒水玉様リクエスト 雲が翳らせながら歩み来た道 Title by『ダボスへ』 |