※捏造注意


 ――愛す呪いを貴方にあげる。
 そう最後の言葉を朗々と紡いで目を閉じた女性は、それ以降決してその瞼を上げることはなかった。それが死というものだと綾部が理解したのは、その彼女の亡骸が炎に包まれて黒い灰になるのを見届けてからのことであった。彼女とは綾部の母親その人であり、溢れ出る涙と嗚咽を必死に噛み殺そうとする父親の隣で綾部は静かに一滴の涙を流しただけで、それ以上心を痛めることも揺さぶられることもなく寧ろ穏やかとも呼べる心地で母親の死への旅立ちを見送った。
 それが今から何年前のことだったかは、綾部は正しく把握していない。だがまるでとても昔のことのように思えた。それこそ、自分がこれまで生きてきた年月よりももっと沢山の年月も向こう側の出来事のように思えた。
 綾部はよく周囲の感じている時間の速度と自分のそれがずれているように感じることが多々あるので、別段不思議なことでもなかったけれど。


 綾部は自分が地面に蛸壺を掘っている最中、時間が自分を置き去りにしてどんどんと先に進んでしまっているのだと思っている。朝から掘り始めても、昼から掘り始めても気付けば日が暮れかかっているなんてことは日常茶飯事で、最初の頃はよく自分だけが世界に取り残されているのではないかと突飛な妄想にとり憑かれたこともあった。因みに夜に蛸壺を掘りに出掛けようとすると同室の人間がうるさいので最近では自重している。
――ざく、ざく、ざく
 今日も今日とて綾部は穴を掘る。誰かを落とそうと意図している訳ではない。落ちてくれたら、それなりに楽しいけれど。穴を掘るという過程と、蛸壺が完成するという結果に抱く綾部の熱は若干の前者への傾きを持っていて、だから綾部は完成したそれに名前は贈れども長時間愛でることはせずに新たな蛸壺への作成へと精を出す。このまま蛸壺を掘り続けたら、いつか世界中の地面が穴だらけになるかもしれない。そんな風に考えたこともあるけれど、世界はやはり上手くバランスを取って回るように出来ているのだと知っている。特にこの学園には、用具委員会なるものが存在して、綾部が掘った蛸壺をせっせと埋めて行くのである。折角掘ったのにと思いながら、ああこれでまた新しい蛸壺を掘ることが出来るのだと綾部の胸は少しばかり弾む。しきりに怒鳴っている用具委員長の言葉は、生憎綾部の耳を右から左へと通過して行ってしまったらしい。
 蛸壺を掘る綾部がいて、その蛸壺に落ちる人間がいて、埋める人間がいて、また掘る綾部がいる。延々と続いていくであろう輪の中に存在して、綾部はこれがずっと続くのだと思っていた。だから、この輪の外にいる人間には別段興味もなかったし、蛸壺を掘り続けている自分を奇特な人間だと見つめる輩がいても、それを長時間継続するようなモノ好きもいないのだと決めつけていた。

「また蛸壺か」
「ええ、また蛸壺ですよ久々知先輩」
「飽きないのか」
「ええ、これっぽっちも飽きませんねえ」

 頭上から降って来る声に、綾部は顔も上げずに蛸壺を掘る手も止めない。だが言葉を無視することも出来なかったのは、返事をするまで久々知は話しかけてくるとこれまでの経験上知っているからだ。
 地上から、穴の直ぐ傍でしゃがみこんで綾部に声を掛ける久々知のことを、綾部はこんな人だとは思わなかったと言葉だけなら落胆したかのような一文で評す。もっと他人に無関心な人間だと思っていた。あまり関わりのない一つ上の学年に在籍する彼等は傍から見ればとても仲が良いけれど、それは既に個として確立された主義に基づいて自分を揺らがさずに立てるからなのだと綾部は思っている。上級生にもなって、己の主義も覚悟も持たずに他人の慣れ合うだなんて依存以外の何物でもない。特に、ひとりでいることの多い綾部にはそう映る。
 久々知が綾部に初めて声を掛けた時のことなんてもう覚えていないけれど、きっとまた一時のひやかしだと思っていた。だが彼は綾部が地面を掘る音を聞きつけては穴の中に向って声を掛ける。その為に、周囲にある別の蛸壺をきれいに回避しながら。それがまた、綾部には癪に触ったりするのだけれど久々知はその辺りは無視を決め込んでいるようだった。
――愛す呪いを貴方にあげる。
 不意に、母が死の間際に放った怨念めいた言葉が綾部の脳裏に蘇る。
 愛す、とは。
 母が託した願いなど綾部には到底理解出来ないけれど、もし息子が誰かをちゃんと愛せますようにと願ったのならばその願いは一向に叶う気配を見せていないということになる。綾部は人を愛するということがいまいちよく分からない。人の顔を覚えるのは苦手で、正面から向き合うほど付き合いの長い人間なんてほんの一握り。日々顔を突き合わせる時間が一番長いのは茶色い地面なのだから致し方ない。
 久しぶりに思いだした母の面影に、綾部はいつの間にか蛸壺を掘る手を止めていた。いつ死んだのかすら朧気な人を思い出すには、時と場所が悪かったらしい。

「……?綾部、どうかしたか?」
「ねえ久々知先輩、そうやって私を見下ろすのは楽しいですか?」
「なかなか楽しいが、それが何か?」
「たとえば私が呪われているとしても貴方は私を見物しに来ますかね?」
「なんだ、綾部は呪いなんて信じているのか」
「愛情だって度が過ぎれば呪いにもなるでしょう」
「―――、」
「重たいよりは、軽い方が良いと思いませんか」
「縛らなければ、容易く消えてしまうのなら重たくとも呪いだとしても愛を囁くのも一つの手段だ」
「………」
「愛しても縛れないなら、埋めてしまうのも一興かもな」
「……私を?」
「そう、だから周囲には常々気を配っておいた方が良い」

 随分物騒なことを言ってくれる。不機嫌に歪む顔を隠さずに見上げた久々知の表情は太陽の向きが悪く影となり見えない。だけども厭らしく歪んだ笑みを浮かべていることだろう。奪うことを覚えた人間が見せる暗い部分。昼下がりに後輩相手に晒すようなものではないだろうにと呆れながら、合わさっているかも不確かな視線を背けて蛸壺堀りを再開するのは久々知の言葉に怯え屈したことになりそうで気に食わない。そんな綾部の細やかな意地を幼いと受け取ったのか、久々知はそれまで浮かべていた笑みを普段友人たちと一緒にいる時の物に切り替えて、小さく声を上げた笑った。それが、一時休戦の合図となる。

「はは、機嫌を損ねるつもりはなかったんだけどな」
「……別に、何とも思ってませんけど」
「――どうかな。ま、夕飯の時間までには切り上げろよ」
「わかってます」
「暗くなると、穴の中にいては上の様子がわかりづらくなるだろうし」
「やっぱり物騒ですね」

 愛情のつもりですか、それは。そう問うよりも先に、久々知が踵を返し場を離れた。気配が遠のくのを追って、綾部は鋤を握っていた手に力が籠もっていたことに気付く。それだけ相手の放つ空気が本気だったということか。
 ――愛す、呪い、ねえ…。
 重たくて、暗くて、陰湿な感情だ。向けられるもの全て、叩き落として身軽なままで地面を掘り続けられたらどれだけ気楽だろう。掻き出した土が、自分の上に降ってくるなんて想像したこともない。自分の穴を覗き込み悪意を持って干渉してくる人間などいなかったから。誰も彼もが無関心で、一瞬の気紛れで立ち寄り通り過ぎるばかりの流れ。途絶える日が来るならば、それはきっと久々知の所為。

「埋められる前に落として埋めればいいのかな」

 ぼそりと吐き出した対抗案は久々知の発した言葉と同じこと。罠を張ることはあっても殺傷を目的としたことはなかったのだが、そんな呑気を続けられる日もいつかは終わるだろう。
 もしも綾部が堀った蛸壺の中、初めて命を奪う相手が久々知ならば。もしそうなれば自分は記念に彼を一生涯忘れずに覚えているかもしれない。この世に産み落としてくれた母の顔すら遠いというのに、綾部はそんなことを想う。尤も、覚えていたとしてそこに伴う感情は決して愛情などではないということを、綾部は知っている。
 ――周囲には常々気を配っておいた方が良い。
 ざわりと背筋が粟立つ。厄介な言葉を貰ってしまった。鋤を地面に突き刺して、綾部は空を見上げる。誰もいないはずの周囲に、先程の暗い気配が残っているようで落ち着かない。これでは集中して蛸壺堀りに取り組めないではないか。不機嫌に鼻を鳴らし、綾部は作成途中の蛸壺から這い出る。呪われるより先に、根を絶ってしまえば良い。そんな久々知以上の物騒な考えが頭を掠めるけれど、生憎それを実行し完了するだけの実力が自分にあるとは思っていない。
 むしゃくしゃする気分を抑えられないまま、今日はもう駄目だろうと諦めて大人しく自室に帰ることにした。口喧しくも他人を放っておけない級友に装束の汚れを咎められれば、この沈鬱な気持ちも少しは日常に帰ってこられるだろうから。
 未だ真上に陣取る太陽を睨みつけて、蛸壺の中は随分と涼しかったと名残を惜しむ。せめてあの不運な先輩が落ちてくれたら良いのにと願いながら、綾部はその場を去る。きっと明日には、用具委員会に埋められてしまっているだろう。


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お前の愛は目に見えないから信じられない
Title by『彼女の為に泣いた』



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