太陽と土の匂いが鼻先を掠めたら注意なさい。視線を上から下までくまなく巡らせて、たとえ何もなかったとしても、気配すら感じなかったとしても急いでその場を離れなさい。でないとあっという間に攫われてしまうから。屈託のない笑顔を浮かべて、人慣れたした犬のようにありましない尻尾をちぎれんばかりに振っているかのような錯覚すら与えて来るのだから。そうすると、たとえ正当な理由があって待てを指示したとして言いようのない罪悪感に駆られるのはいつだって己の方なのだから。
 それにね?
 その犬ころのように懐っこい彼の人は、決してそんな可愛らしい生き物ではないの。温かな日の元ではとっても上手に皮を被っているけれど、日が沈んでしまえばあっさりとその皮を脱ぎ棄てて本来の姿に立ち返る。それは、とても獰猛な狼の様でいて、それとはもっと別の、獣の様な何か。光の差さない瞳に宿るのは狂気と虚しさと冷たさ。手にした刃を振り下ろすことを、決して躊躇わない為の、必要不可欠な無。こびりついた血の匂いを厭うのに、朝陽が上って下級生がもうそろそろ起き出すかもしれない時間帯になっても井戸の傍に立ち尽くしたまま、彼は。七松小平太という人は全身に浴びてしまった、殺してしまった人の血を洗い落とすこともせずにいる。早く皮を被らなければ、彼自身困るだろうに。

「七松先輩」

 珍しく、恵々子は自分から小平太に声を掛けた。勿論、周囲に他の忍たまの気配がないことは確認済みだ。
恵々子は本来禁止されている忍たまとの接触に対して一等消極的な人間だった。くのたま特有の、忍たまに対する意地の悪さは集団でいる時にしか働かず、親しい忍たまも持たない彼女は無害な存在として、忍たまには認識されているかすら怪しいくらいだったのに。
 そんな恵々子を、にぎやかな喧噪の中に引きずり込んだのが小平太だった。何故、とは何度も尋ねた。その度に、小平太が恵々子に返す言葉は気紛れだの気になったからだのと似たような意味合いの言葉を言い回しを変えて寄越すばかりだった。
 迷惑な話だと思った。恵々子の友人等も悉く彼女に同情した。彼女が初めて小平太に手を引かれた日、武道派でもない恵々子が実戦にでも出たのかと勘違いされる程ぼろぼろになってくのたま長屋に戻って来たのだから無理もない。くのたまの縄張りに戻りようやく安心したのか崩れ落ちた恵々子が遺言のように言い残した言葉が「体育委員って怖い」であった。そうして、彼女らの友人等は全てを悟り、諦めた。そんな対応を薄情だと罵れるはずもなく。ただ恵々子は流されるように小平太の招く手に困ったように眉を下げながら、出来るだけ穏やかな表情を崩さないように留意しながら応じ続けた。
 穏やかであろうとしたのは、誰かと関われば関わるだけ知ってしまうであろう相手の様々な面に目を伏せる為。それが良い面であろうと嫌な面であろうと、忍びを目指す人間が他人を知るということはどうあってもその人をねじ伏せる為に優位であろうとする為の行動の様に思えて気が引けた。考え過ぎだとも思った。ただ、連れ立つ時間が増えるにつれて知ってしまった七松小平太という人間の暗い部分は、忍びだからと括らなければ恵々子には直視できないほどどす黒くて沈鬱としていて、自分だったらきっと頭がいかれてしまうのではないかしらと恐れるくらい、禍々しかった。

「七松先輩」
「――ああ、えっちゃんか」
「はい、恵々子ですよ」
「今は…あんまり会いたくなかったなあ」
「ねえ七松先輩、早くその血を洗い落としてくださいな」
「血…。うん、今日はね、一年生くらいの子どもらを何人か殺したよ」
「………」
「こんなに血が付くとは思わなかった」
「黙って、」
「…えっちゃん?」
「これ以上は言わないで。ねえ、もう陽が昇りかけてます。早くいつもの七松先輩に戻ってください」

 何故こんな縋るような声を出しているのだろう。恵々子にだって分からなくて、じっと彼女を射るように見つめてくる小平太は普段暴君と呼ばれながら笑顔を咲かせている姿からは程遠い。
――獣みたい。
 人間なんて、理性と言語を取っ払ってしまえば獣と同じなのかもしれない。だけど捨てきれない理性の端っこが内側から人の皮を突いては責め立てるから、目の前の小平太だって辛いのだろう。他人の血を浴びたって、洗い落したって、懺悔なんてしようもないのに。どうして責めるの?そう念じても、どうしてやめないのと問えない恵々子だって、一歩進めば彼の様になるのだ。そうなったら、今自分が小平太を呼び戻したように、誰が自分を呼び戻してくれるだろうか。止まれないなら堕ちてしまえば良いなんて思い至ってしまったのならば、そこがぎりぎりの状態だろうから。

「えっちゃん、」
「はい、何でしょう」
「ありがとう」
「……どういたしまして」

 自分に出来ることは見送りと、お出迎えくらいなのだろう。恵々子は、それですら関わり過ぎたとは理解している。漸く井戸から水を汲んで、血を落とす小平太の姿を、少し焦点を当てずに形だけなぞればこれくらい曖昧であるべきだったのだともう何度目かとも分からない戒めが胸を締める。だけど知ってしまった闇を放置することもできない。甘さであって、無視をしたばかりに同じ闇に飲まれては元も子もないという打算。
 顔の血を拭い終えた小平太の瞳は段々とこの学園に於ける普段の彼のものに戻っている。きっと今日の授業が終わればまた太陽と土の匂いを纏いながら級友と、後輩等を振り回していることだろう。もしかしたら、恵々子すらも。それを想像すると今から身震いする。杞憂であったらいいのだけれど、嫌なことほど高確率で遭遇するものだから、恵々子はまた部屋に戻ってひと眠りすることにした。寝不足では、出せる力も出せないものだ。
 何も言わずに小平太に背を向けてくのたま長屋に戻ろうと歩き出す。背後から聞こえた「また委員会で!」という不吉な文句には、何も言い返さないでおいた。だってどうせ攫われてしまうのだから。


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かなしい宵っ張り
Title by『ダボスへ』




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