もし今伊助が歩いている途中、誰かと一緒だったのなら気付かずにそのまま歩き過ぎていただろう。けれど伊助は一人で委員会の集合場所に向かっている途中であったし、辺りに人の気配が無く静まり返っていたからかもしれない。微かに肌に触れて、木々の葉すら揺らす力のない風に混ざった匂いに、伊助ははっとして立ち止まり周囲を見渡した。
――血の匂いだ。
 一瞬で判別出来る程血の匂いに敏感な訳でも、嗅ぎ馴れている訳でもない。ただやたらと騒動に巻き込まれやすく、学園一の補習回数を誇る一年は組の一員である伊助は、つい昨日まで補習という名の実戦の中に身を置いていた。戦場に行く機会はそれなりにあったし、血の匂いを判別出来る程度には、様々な人に出会って来た。
 きょろきょろと、何度周囲を見渡しても、誰もいない。そうと分かれば直ぐに止まっていた足を動かして委員会に向かうべきだと思う。だけど一瞬だけ届いた血の匂いが錯覚だとも否定できずに伊助はどうすることも出来ずにいる。早く行かないと、二年の池田三郎次に遅刻だ何だと口五月蠅く責められるかもしれない。四年のタカ丸さんはちゃんと事情を聴いてくれるかもしれないし、それ以前に怒ったりはしないだろう。委員長代理を務めている五年の久々知は根が真面目だし、遅刻してしまえば理由を聞いた上で注意もするだろう。だけど、誰かさんの様にネチネチ伊助を責めたりはしないだろう。年齢的には一番上ではないけれど、学年としては委員会最高学年の立場上か、久々知は基本的に下級生には穏やかだったし、面子の少ない委員会の中で伊助が心底頼れる先輩だった。
 久々知先輩だったら、ちゃんと周囲の気配を探れて、こうして立ち往生することもなくさっさと状況を打開できるのだろうかと、今の自分では到底不可能なことだと自覚しながら憧れ半分理想半分に考える。そうして、そういえば今日は久々知等五年生は実習があるだとかで委員会には参加出来ないのだったと思い出す。前回の委員会の終わりに次回の予定を確認している際にそう言っていた。延期してもいいのだけれど、顧問である土井はいるし、内容も在庫確認という簡単な仕事だったので残りのみんなだけで頼むと久々知は委員会を締め括った。正直、残りのみんなである伊助も三郎次も微妙な顔をしていたと思う。タカ丸はいってらっしゃいなんて呑気に見送っていたけれど。単純な作業であっても、何か起こる時は起こるのだ。特に一年は組という稀代のトラブル吸引学級に在籍している伊助にはそれは身に沁みて知っていること。もし後輩だけで仕事をしている際に何か起これば、実習から帰って来た久々知は驚いて、それから仕事を任せた自分の所為だと引責問題にまで発展させるかもしれない。委員会当日になる前から伊助はそれだけはさせまいと、頑張らなくてはと気を引き締めていた矢先にこの事態である。

「久々知先輩…」

 ぽつりと、助けを求めるように呟いた一言が落ちた。そして水面に波紋を投げたかのように空気が一瞬ざわついた。風が凪いで、しかしその一瞬でも十分で伊助はその中心を見つけた。というよりも、まるで見つけてほしいとでもいうように、気配が伊助に伝わって来たというのが正しい。
 伊助の進行方向にある並んで植えられた木のとある一本。その根元に駆け寄って上を見上げる。生憎、葉っぱの茂り具合と逆行故にはっきりとは視認できないが、誰かが絶対に上にいるのだという妙な確信が伊助にはある。勘だといえば確かに只の勘でしかないのが、だからと言って無視できるほど伊助には選べる手段がなかった。

「大丈夫ですか?」
「怪我をしてるなら医務室に行った方がいいですよ」
「…曲者じゃないですよね?」

 幾つか言葉を放ってみても相手からの返事はない。しかしじっと見上げていると、太陽光と揺れる葉の影の中、全く動かない黒い影があって、やはり誰かいることは間違いないらしく、そうなると伊助はますます委員会に向かう足を先に進めることは出来なかった。何より、一切返事が無いのは相手が自分を鬱陶しがっている以前に返事が出来ないほど重症なのではというより酷い自体への想像が加速してしまう。影が動かないのも、もう身動きが取れないからだったとしたら。

「いっ…今そっちに行きますね!」
「――いや、大丈夫だ」
「え、」

 木登りは得意な方だと幹に手を着いた瞬間、上から言葉が降って来た。やっぱりいたとか、意識があって良かったというよりも、耳に響いた声に馴染みがあり過ぎて、伊助は次の行動をどうすればいいのかわからずに木に登ると勇んでいる可笑しな態勢で停止してしまった。

「……久々知先輩?」
「ん、久しぶり。伊助」
「お久しぶりです…。え…あれ、怪我?久々知先輩?」
「まさか気付かれるとは思わなかったんだけどなあ」

 もう気配を隠すことを諦めたのか、混乱しきりな伊助を宥めようとひらりと木の上から彼の隣へと飛び降りた。茫然としながらも先輩の言葉には返さなくてはと必死に言葉を探っていた伊助だが、木から下りてありありと見えるようになった久々知の姿に絶句し二の句が継げなくなる。実習帰りだから仕方ないとはいえ、目の前の久々知は装束も何もかもがぼろぼろで、所々には血の跡が滲んでいる。その大半が既に止血されているらしいけれど、傷を負ってから時間の浅いものも幾つかあるようで、その匂いを伊助が拾ってしまったのだろう。
 委員会があるのは分かっていたけれど、この怪我じゃ逆に心配させるだろうから、遠くから様子だけでも見ようかと思ったんだ。苦笑いしながら久々知が未だ状況整理が出来ていない伊助に説明する。言葉通り、気付かれるとは思っていなかったのだ。風向きもちゃんと考慮していたつもりだったけれど、ここは単純に伊助の感覚が勝ったというだけのこと。

「怪我…大丈夫ですか?」
「ああ。大怪我と呼ぶものは一つもないからね」
「そうですか…う、」
「ごめん、泣かせたくもなかったんだよ」

 普段懐いている先輩が、傷だらけになっていることが悲しくて、それでも無事に生きて目の前にいるという現実が嬉しくて、伊助の瞳からはぼろぼろと涙が流れる。それは、幼さには不釣り合いなとても静かな涙だった。久々知も、こんな恰好で伊助の前に出たら、泣いてしまうだろうから黙殺してしまおうとした。血生臭さ以前に、自分の気もまだ安全圏に入ったからと言って緩み切ってはいない状況だから。無邪気な後輩の前に姿を現すには、些か状況が悪すぎた。
――名前呼ばれただけで、あんなに崩れるなんてな。
 伊助に気付かれたこともそうだけれど、名前を呼ばれただけで乱れた自分の未熟さの方が予想外だった。未熟というよりも、それ程に目の前の後輩を心の内に忍ばせていたという方が正しいか。きっと、純粋に久々知を先輩と慕う伊助には、彼がどうして委員会の場では無くこの途中の道に陣取っていたのかなんて想像にも及ばないことだろう。通り道といって、此処を通って行くのが伊助だけなんてことは、きっと気付かない。

「おかえりなさい、久々知先輩」
「ただいま」

 何も気付いていなくとも構わない。今はまだ、自分と相手の間にある現実と覚悟と嘘勢の壁が厚すぎて、好意と厚意を擦れ違えてしまうには伊助は何も理解してはいないのだ。
 それでもこうして自分を迎えてくれる優しさがただ愛しいから、久々知はまるで伊助の元に帰って来たのだという錯覚すら悪くはないと受け入れる。委員会のことなんて、今は二人とも綺麗さっぱり忘れていた。


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誰のためにも死にたくない
Title by『ダボスへ』




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