知らない。私は何も知らない。記憶力には自信があるし、研修医故知識不足な部分も少なからずあるだろう。だけどこれは違う。いくら知識を蓄えても経験を積んでも分からないもの。他人の気持ちなんて、察すれど見抜けはしないのだ。

「さい…っじょせ、」
「ああ、苦しい?」

 いつもの、懐っこい笑顔で私に語り掛ける西條先生は、何が楽しいのかしたいのか。あまり使われていない会議室に私を押し込んで壁際に追いやった後、いきなり指を私の口に突っ込んだ。そのまま私の舌を撫でたり引っ張ったり。
 舌を引き出されて、うまく唾が飲み込めない。口の端を零れてしまったそれを、西條先生は自分の舌で舐めとって見せた。生暖かい彼の舌が、私の顎を舐めて上がってきてそのまま私の舌に絡められた。

「ひっ…」
「瀬名さんってさあ、」

 噛みつく割には無防備だね。
 西條先生の言葉は確かに私の耳に届いているのに、理解がそれに追い付かない。鼓膜には聞き慣れない唾液が混じり合う水音がやけに大きく響いている。病院の一室で響くには不似合いな音。羞恥心で跳ね上がる体温と心音は果たして西條先生にはどう届いているのか。今私の前にいるのは紛れもなく西條先生なのに、いつもの西條先生ではない。

「危は良い奴だけど、」
「……っ?」
「でもなあ、」

 怖い。西條先生が怖い。彼が何を逡巡しているのかは分からない。何で今危先生の名前が出てくるのかも分からない。只、漸く解放された口から大量の酸素を必死で取り込むことしか、私には出来ない。

「西條先生、戻らないと…」
「大丈夫、坂本先生と棗さんがいるし、危もちゃんと呼んでおいた」

 正直、ちっとも大丈夫ではない。私の本音が、一刻も早くこの場から逃げ去りたい一点だと、西條先生は分かっているのだろう。
 戻ることは許されず、表面上は普段のようににこやかな彼に壁に追い込まれたまま、私は一体どうすれば良いのだろう。

「危のこと好きなの?」
「…え?」
「好きだから噛みつくのかな、」
「意味が良く…わかりませ…っ!」

 私の回答等待たず、西條先生が私の首筋に噛み付いた。歯を立てられて、痛みで顔が歪む。微かに嫌な音がした。きっと血が出ている。私の首筋から口を離した西條先生は一度傷口を舐めて、うん血だね、と呟いた。
 怖い。再びせり上がってきた恐怖感に、元々弱い私の涙腺はあっさりと崩壊した。きっと西條先生は怒っているんだ。私が何かとんでもないミスをしてしまったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい。謝りますから、もうやめてください。
 泣きながら懇願すれば西條先生は一瞬虚を突かれたような表情を見せた後直ぐに破顔した。

「やだなあ、瀬名さん。俺は怒ってないよ?」
「じゃ、じゃあ何でこんな…」
「好きだからだよ」
「へ、」

 ごめんね、びっくりした?と問いかけてくる言葉に上手く頷けない。
 驚いてはいる。だけどそれ以上に信じられない。西條先生ははっきり言って異性を果たして異性と認識しているのかしらというくらい鈍い人だった。少なくとも、恋愛なんて一滴の興味関心を抱いていないのだと思っていた。
 何より、危先生に分かりやすいと察知されていた私の好意は、彼の鈍感さに流されて来たのだ。好きなんて、きっと質の悪い嘘に決まってる。だけど内心、西條先生はそんな人の心を弄ぶような嘘は吐かないと信じたい私がいる。否、信じたいというよりも、知ってしまっている。
 沈黙を続ける私に返答を求めることもせずに、西條先生は今噛み付いて出来た私の首元の傷を指で撫でている。ぞわぞわとした感覚と、噛みつかれた恐怖故また傷を抉られるのではという忌避感が働いてつい体が強張る。

「…危は良い奴だよね」
「……まあ、そうですね」
「瀬名さんは正直だなあ」

 けらけら笑う西條先生は、本当にいつも通り。怯えて固まる私だけが異質で馬鹿なことをしているみたいに思えるくらいだ。
 だけど、西條先生と私の位置だって変わっていない。相変わらず私の逃げ道は西條先生に塞がれたままで、顔だって凄く近い。
 漸く、妙な雰囲気だったとはいえこの人にキスをされたという現実が唇の感覚から真実味を帯びてきて羞恥心がこみ上げてくる。好意を寄せる相手からの一方的な愛撫がこうも不安を煽るばかりの行為であるとは思いもしなかった。

「西條先生…?」
「少し黙って」

 そして再び落とされた口づけは、先程より幾分優しくてやっぱり私の身体は自然と強張る。私を好きだと言った西條先生の言葉を喜ぶことも出来ないまま。
 脳裏にちらつく西條先生ではない誰かの影を追いながら、私は彼からの愛撫を受け入れるかのように目を閉じた。


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殺されたい、その熱情の重さによって
Title by『オーヴァードーズ』





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