「素敵な彼氏さんですね」

 本日何回目とも分からない店員のお世辞文句に、瀬名は嫌な顔一つせず、寧ろ清々しい程の笑顔で応じていた。返答は勿論、「彼は私の彼氏じゃありません」である。
 そもそも、大人の男女が二人連れ立ってショッピングをしていれば、殆どの人間がその二人を恋人と思う。時には、夫婦にだって間違われるものだ。ややこしいことをしているのは、もしかしたら此方の方なのかもしれない。自発的な行動ではないのだが、若干申し訳ない気持ちに襲われて危は前を歩く瀬名との距離を歩幅一歩分開いた。
 滅多に重なることのない休日が本当に珍しく重なっていることを知ったのは昨日。それじゃあ一緒に買い物に行きましょうといつもの倍は高いテンションに押し切られたのも昨日だ。
 断れないものだなあ、と危は人事のように思う。惚れた弱味とか、見込みがあって初めて意味を持つんだとばかり思っていたのに、独り善がりでもだいぶ自分は彼女に優しくできるらしい。医者という、他人の一番大事な部分に関わる仕事をしている割には、自分は他人に冷たい人間だ。危は自分のことをそう分析していて、誰にも同意を求めたりはしなかったけれど、もし一から懇々と説明してやればその大半が納得するだろう。
 危は瀬名を好ましく思う。医者としての姿勢、調子の良い所はまあポジティブと解釈して、女性らしさと、根の優しさとか、様々な面を知ってから。部分部分を受け止めて、そのひとつひとつに好ましいと頷いてやる。その感情を総合的に評することを、危は好まない。
 瀬名マリアを人間として好くことは、とても苦しいことだ。端的に言えば、そういうこと。恋愛は二の次とは思わない。自分の気持ちを抑圧した結果仕事に打ち込めるとは限らない。ただ、危は今までその仕事が人生の軸にあったから、別に平気だと思った。恋とか、愛とか、押し込めながら作り笑いを貼り付けることだって結構得意だった。
 危は、割と人でなしの部類に足を突っ込んでいる一面がある。だがその欠落を補って余りあるほど、医者としては優秀だった。プライドも技術も、何一つ彼の医者としての評判を傷付けなかった。

「おい、いい加減休ませろ」
「あら、もう疲れましたか?」
「他人の買い物に付き合うって普段の倍疲れるわ」

 基本的に危の言葉の毒は空気中に浮かぶ埃程度に気にしなくなってしまった瀬名は、危の休みたいという言葉だけを受け取ってそうですねえと思案する。昼食で店が混み合う前に席を取ってしまうのも良いだろう。そう考えて辺りを見渡して、少し不釣り合いな気がしたけれど、近いからと適当にファミレスに入る。不釣り合いに思ったのは、当然危の方を見て思ったことだ。何かと煩い人だけど、支払いを此方持ちにしてやれば黙らせられるだろう。

「危先生はファミレスとか入ったことあります?」
「あー、ねえかも」
「何か文句つけたら怒りますよ」

 にこにこと笑顔で威圧しながら危にメニューを渡してやる。来たことがないなら寧ろ色々試してみようかと余計な好奇心が疼いてくるのを、メニューで顔を隠して悟られないようにする。瀬名自身友人に誘われないとこういう所には来ないのだが、それでも危よりは慣れたものだ。ドリンクバーで全部の飲み物をミックスして出してやりたい。お金ばかりは無駄に有り余っているくせに食事とかファッションとか全然無頓着な人だから、ここでも出てきた物を黙って平らげるだけかもしれない。それはそれで結構だが、別段楽しくもないことだ。
 瀬名の予想通り、危は自分の財布の中身とメニューに並ぶ数字を照らし合わせながらさして感動を覚えるでもなく少ないページを捲る。美味い不味いの感想は、人間だから普通に抱く。だけど危にはそれだけだ。あまり、食事に興味がない。甘いものは多少好きだ。糖分は疲労した脳にはもってこいだった。
 真剣にメニューを吟味する振りをした大人が二人、向かい合って座っている。どちらもあまり、食欲はなかった。

「ねえ危先生、気付いてますか?」
「何を?」
「今日、六回、店員に私達はカップルないし夫婦に間違われましたよ」
「…妙なこと数えんなよ」

 メニューを立てている瀬名の顔は、危からは見えない。からかっている風でもなく、彼女は事実とデータを述べただけ。もう少しそのデータを膨らませるならば、六回恋人に間違われ瀬名は六回否定し危は六回複雑な気持ちになったのである。

「…で?」
「そうですねえ、お似合いに見えますかね、私達は」
「さあな、」
「じゃあ今日一日、恋人に間違われた回数が十回を越えたら、相手の間違いを肯定してみましょうか」
「…は?」
「素敵な彼氏さんですねと言われたら、自慢の彼氏ですと答えます」

 瀬名はどこまでも淡々と言葉を紡ぐ。顔は見えない。危は彼女を訝しむだけ。店員を呼ぶボタンはいつまで経っても押されない。二人の間には短い沈黙。
 あと四回間違われたら、瀬名は危にとって質の悪い冗談を実行に移すのだと言う。理由はよくわからない。気紛れと、あとは苛立ちかもしれない。独り身だから、職場の人間と連れ立って出掛ける他ないのだ。それを恋人ですかと連呼されればげんなりもするだろう。
 もし、自分と瀬名が本当に恋人同士だったとして、彼女が自分を自慢の彼氏なんて紹介したりする筈がないのだ。いちいち嫌味になる現実にがっかりする。だから危は午後の買い物に付き合うのが午前の倍は憂鬱だった。仮に十回間違われて、偽りでも彼氏の称号を得たとする。だがそれまでに後三回、瀬名にこの人彼氏じゃありませんと切られるのかと思うと腹立たしいやら物悲しいやらで危の頭はごちゃごちゃして纏まらない。
 瀬名は、漸くメニューを見て昼食を選んでいる。危は、午後の買い物で如何に回る店を少なくして店員の戯れ言に振り回されずに済むかを算段している。
 惚れた弱味とかそんなんで、瀬名の買い物に付き合うんじゃなかった。昼のファミレスで危は心底手術室を恋しく思ったのだった。



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ハートを愚弄してくれるなよ
Title by『ダボスへ』




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