――運命の終わり。
 身体中に走る痛みはもう感じない。痛みは生存本能のアラームのようなものだから、もう生きることのできない身体に痛みを訴えても無意味だった。それ以上に、たった一人残酷すぎる運命を背負って、これからも、私が消えてしまっても、それでも立ち止まらずに進まなければならない、お揃いの――一度は投げ捨ててしまった――小指にはめたお揃いの宝物よりもずっと大切な兄を残していく痛みの方がずっと辛い。
 ――ああ、それでも。
 かつて神代璃緒と名乗っていたメラグは目を閉じた。
 ――これが私の、運命の終わり。
 人生の終わりとは、思わなかった。人の生など、捨てたのだ。悩み苦しんで、仲間との絆を想って、血を吐くよりも地獄で身を焼かれた方がいいと、それでも神代凌牙という名を捨て、バリアンのナッシュとして、敵として仲間たちの前に立つと兄は選んだ。その道を選ばせた原因が自分にあるのならと、メラグは迷わず彼の運命の寄り添った。
 今度こそ最後まで添い遂げたかったけれど、どうやら今回も無理のようだ。兄は優しいから、二度も目の前で妹の果てる姿を見るのは辛いだろう。それだけは本当に悪いと思う。
 だけど覚えておいて欲しい。どれだけ残酷な結末によって引き裂かれた魂だったとしても、兄妹として生まれ生きてきたその時間だけは、メラグにとって幸福でしかありえないものだったということを。
 一緒にいられて良かった。もっと一緒にいたかった。愛しさと後悔だけを胸に、メラグの命はそこで終わった。




「私、わかってたんです」

 手元に視線を落として、小鳥はオレンジジュースの入った透明のカップの中にある氷をストローで回している。お行儀の悪いこと、そう注意しても良かったけれど、このお小言は果たして友人としてか、一つとはいえ年上の人間としてか、それとも別の何かとしてか。兎に角どのように小鳥の耳に届くかわかりかねたので、璃緒は結局何も言わなかった。代わりに自分の買ったアイスティーを口に含む。溶けはじめた氷のせいで味が薄く感じられたけれど、勿論そのことに対する文句など誰に訴えることも出来なかった。
 休憩しましょうと飲み物を買って陣取ったショッピングモールのフードコートの四人掛けの席は、二人の少女と大量の紙袋に占拠されている。

「わかっていたとは、何をですか?」
「璃緒さんのこと」
「? 私のこと、」

 どういうことだろうかと、自身を指差して小鳥の言葉の意味を測りあぐねている璃緒に、小鳥は微笑んで頷いた。その微笑は、璃緒の中にある小鳥のイメージとは僅かにずれていて、こんな風に控えめに笑う子だったかしらと益々わからないことが増えていくのだが、どうにかその混乱を顔に出すことは堪えることができた。そして、小鳥にも色々なことがあったのだろうと、結局何も知ろうとはしないまま理屈で納得することにする。
 凌牙の傍で、自分にも小鳥とは離れた場所で色々なことがあったのだから。彼女にだって、彼女がいつも見守り続けた遊馬の傍で色々なことがあったのだろう。それは前にばかり進み続ける時間の中で生きている人間という生き物を語る上で決して間違った見識ではないけれど。それにしたって通り一辺倒の、誰にでも当て嵌まるような、正解だけど正確ではない、そんな考え方だった。
 アストラルがヌメロン・コードを使い、バリアン七皇やカイトの死を書き換えたことにより遊馬たちの日常には平穏が戻ってきた――ということになっている。勿論璃緒にとっても平穏は平穏であるものの、しかし同時に人間として生きていくことになったこの人間界での基盤を持たない彼女と凌牙以外の七皇の面倒を――衣食住確保は勿論だが外見年齢を考えればふらふらと歩かせておくわけにもいかず、ならば見合った場所にと学校に放り込むならば集団生活を行う上での一般常識も叩き込まなければならないし、その為にはまず彼等に戸籍等々必要なパーソナルデータを社会に組み込まなければならないなど――見るということは一種の戦いでもあり、それは忙しい時間を過ごすことになった。消滅の直前に知らされた、一度目の人間としての人生が不本意に悪しく歪められていたことを思えば今更に後悔することもあるだろう。折角蘇ったのだからこれからの人生を楽しんで生きなくては! そう前を向くのは簡単なことではなく――いつかはそうなるべきだとは思うけれど――、気持ちの整理は七皇各々でつけるしかない。璃緒の場合は、ただひたすらに兄である凌牙の傍に在ることを諦められなかった結果なので、彼さえ自分の行いに心の整理をつけて、罪悪感を持つにいたった人々へ向き合い出来れば以前のようにと仲直りしてくれたらそれだけで大半は報われる。細かいことなど気にしないで、最悪の場合デュエルでもすればいいのではないだろうか。最悪というより最短で最善な気もする。デュエルをすればみんな仲間だそうだから。兄を救ってくれた少年の台詞だったなとその姿を思い浮かべ、そんな彼の傍にいつもいる少女として、璃緒の回想は小鳥の元へと帰ってくる。
 二人きりで買い物にでかけるのは初めてだった。いつだったかナンバーズの遺跡を巡る途中で買い物をしたことはあったが、あれは厳密に言えば二人きりではなく待たせている人間がいるということを意識した上で自由の利く時間を共に埋めていただけ。男性陣からすれば充分に待たされたように感じただろうが、二人ともいつもよりずっと短い時間で買い物を終えていた。待たせるには抵抗のある、直接的に交流のないカイトもいたからかもしれない。その所為か会話の内容も自分たちの兄や幼馴染の――現在進行形で待たせていた人たちの――ものばかりだったし、服やアクセサリーを選びながら相手の好みを察するような、お互いの理解を深めるような交流ではなかったのだ。
 そんなことを思い出していると、璃緒は漠然と小鳥の言おうとしていることがわかってしまって、眉を下げる。

「璃緒さん、あんまりっていうか、私のこと、興味なかったですよね」

 察していても、実際小鳥が声に出してしまえば璃緒は「ああ、やっぱり」と胸中で彼女の言葉に追随するしかない。
 そして璃緒は、ざわざわと騒がしい雑音の中でぽつんと一人置き去りにされた気持ちになる。どうしていいかわからないのだ。これがさして親しくもない男性だったら、指摘通り興味がないのならその通りだと手厳しく言いきってやっただろう。親しくても、そういう女々しい物の言い方はやめるように叱りつけてやった。けれど小鳥は女の子で、深く考えるとどうにも関係性の距離を把握しにくい間柄ではあるものの、璃緒は彼女のことを可愛い(外見の話ではなく)思っているつもりでいたので、小鳥の突然の主張にどう返していいやら言葉が浮かばないし、取るべき行動も全身が硬直してしまっていて見当もつかない。

「私、璃緒さんと初めてお話しした日、素敵だなって思ったんです」

 懐かしいと目を細める小鳥に、そんなにも昔のことだったかと璃緒も記憶を手繰ろうとするけれど、そうすると彼女の言葉を聞き逃してしまいそうだったから、大人しく続く言葉に耳を傾ける。

「芸能人でもないのに、あんなに沢山の男の子に言い寄られて、でも平然としてて、それなのに次の瞬間にはその男の子たちを倒しちゃってて、手のひら返したみたいに璃緒さんのこと悪く言う人たちのことなんてちっとも気にしてなくて、本当に私と同じ女の人なのかなって」

 そういえば、そんなこともあった。懐かしさで、璃緒は無意識のうちに口元を緩めていた。一年ぶりの登校は、やはり璃緒をそっとしておいてはくれなかった。璃緒の外見に釣られて、そんな彼女を従えることができればさぞ他の連中に対していい気分になれるだろうという愚かしい男性陣を、随分派手に打ちのめしてしまった。軽い気持ちで近寄って来ただけだろうに、気の毒にも思う。何かと悪目立ちしていた神代凌牙――この凌牙を、病院で眠っていた璃緒は知らない――の妹という看板をぶらさげていた。不本意でも、立ち上がってしまった評判のツケは本人に回ってくる。時にその身近な人間にも。だから徹底的にやらなければならなかったのだと、璃緒は未だに信じている。
 私の弱さが凌牙の弱さになる――そんなことは許されなかった。
 璃緒の世界は凌牙だけで、だからいつだって警戒していた。自分に近付いて来る男子も、女子も。
 より厄介なのは女子の方で、彼女らは璃緒に近付く口実が男子よりも露骨で簡単に用意できることだった。友だちとしてお近づきになりたいと差し伸べてくる手を叩き落とすには、疎まれることへの耐性か、相手の欠点を見出さなければならない。学校という子どもたちが押し込められる社会に求められる協調性で取捨選択を主張するにはこういった条件が必要になった。無論「私には凌牙がいればいいから」というのは誤答である。
 上っ面でもお友だちとして過ごす程度、璃緒だって出来ないわけではないのだ。中学生にもなれば異性の兄妹と四六時中一緒に行動することはできないことくらいわかっているのだから。璃緒は果敢にも平然のこととして凌牙といられないなら一人でいればいいじゃないと思ってしまうのだが。しかし女子の方を厄介と思うのは、彼女たちが友だちいう関係性が認知されたと悟るやいなやどこまでもくっついてきてお互いを管理しあうことを是としていると思い上がるのも腹立たしかったし、如何にも初めはそんなつもり微塵もなかったのだけれどとくどいほどに前置きした後で凌牙への陳腐な恋心を羅列した挙げ句に璃緒に仲介者としての役を頼もうとするところ。厚かましい、恥知らず、気持ち悪い。思いつく罵詈雑言の全てを我慢して、璃緒はきっぱりと彼女たちの願いを撥ねつけてきた。結果、一人になろうと構わない。璃緒には凌牙がいたから。
 お生憎さま! 私は凌牙へ降り注ぐどんな火の粉にも容赦はしないわ!
 そしてある日火の粉は彼女自身を襲い、長い眠りを強いてきた。目覚めたとき、彼女の傍にはやはり凌牙がいて、しかし驚いたことに凌牙の傍には璃緒の知らない人間がいた。どうやら自分よりずっと人当たりの悪い凌牙が受け入れた人たちなのだから悪い人ではないのだろうと、いつしか璃緒も共に行動することが増えた。出会いのきっかけも交流の理由も、璃緒ではなく凌牙にあった。でもそれがそんなに悪いことだったろうかと、璃緒は訝しく思う。
 璃緒自身、凌牙を重く捉えながら口先だけではいつまでも凌牙に何でも決めてもらう必要はないとか、私がいないと何もできないのは凌牙だとか得意げに言ってみたりもしたけれど。彼女に近付いて来る人間が、凌牙を度外視して神代璃緒という人間を見ているはずがないと決めつけて、大半がその通りだったのだ。
 だからそう、小鳥の言う通りかもしれない。璃緒が、小鳥に興味を持つ理由はなかった。

「サルガッソの戦いの時も、スパルタンシティの時も、ジンロンの遺跡の時も――ううん、本当は初めて話した日から気付いてたんです。璃緒さんは、私たちじゃなくて遊馬たちと、シャークと同じ側に立つ人なんだってこと」

 璃緒がメラグの記憶を取り戻す前、バリアンとの戦いの中彼女と小鳥はよく隣に立っていた。同じように、大切な幼馴染と兄を見守っていた。けれどもし、大切な人が本当に危ない場面に出くわしてしまったとき、璃緒と小鳥には決定的な差があった。小鳥はただ見守るしか出来なかった。無知なままではいられないとデッキを組んだりもしたけれど、世界の運命を背負うような戦いに身を投じられるほどの実力はまるでない。璃緒はきっと迷わず戦うだろう。駆け出して、兄を守るために、凛と敵を見据えて戦える。
 隣に居ても、事に面したとき璃緒はあっさりと小鳥を置いていく。それじゃあと伝言を残すような親しみもなく、彼女は行ってしまう。
 海底の遺跡から戻ってきて以降、また病院で眠り続ける璃緒のお見舞いに持って行った花はいつ枯れてしまったのだろう。忽然と消えてしまった璃緒に戸惑いながらもきっと病院の人間が無造作に捨ててしまったに違いない。心を込めて選んだつもりだったけれど、璃緒は見てもいないだろう。敵の放った毒に苦しむ璃緒を泣きながら見守り続けたあの恐怖も、璃緒との遠すぎる距離を受け入れた今となっては小鳥の中で凪いだ海のように、静かにただ記憶として映像が流れるだけとなった。

「あのね、璃緒さん」
「…………なあに?」
「私は、璃緒さんにとっての何にもなれないけど、それでも――」
「――――」

 そんなことないわと、口を挟むのは台本を読み上げるよりも簡単で、あからさまな演技として響くだろう。
 だから璃緒は黙って目を閉じた。雑踏の中、どんな音が割り込んできても小鳥の言葉を聞き逃すまいとして。それくらいの誠意は見せてあげたい。だって小鳥は、璃緒にとって――。

「私、璃緒さんが大好きなんです」

 小鳥が浮かべる微笑みは、いつの間にか今にも泣き出しそうな顔に変わっていた。
 大好き。その言葉を何度も反芻しながら、璃緒はまじまじと正面に座っている小鳥の顔を見つめる。
 好かれるようなことをしただろうか。全く心当たりがなかった。今まで異性から告白されたことはあるけれど、同性からは戯れの友愛の印にだってこんな素直な気持ちを差し出されたことはなかったように思う。璃緒の世界は、転生するよりも以前からひどく狭く、兄という存在によって完結していたから。

「だから、こんな風に璃緒さんとまた話ができて、一緒に歩くことができて、生きていてくれて、本当に嬉しいんです」

 だから今度こそ、本当に驚きで璃緒は固まってしまった。今日、自分たちがしてきたこと。きっとすれ違う何も知らない人たちからはどうということはない、ありふれた、少女二人が仲睦まじくショッピングを楽しんでいるだけに映る光景。友だちみたいに、家族みたいに、大切な人同士みたいに。アドレスひとつで呼び出して、都合を合わせて、時間を決めて、顔を合わせて微笑むとか他愛ないその何もかも。
 嬉しいのだと、小鳥は言う。その頬を、とうとう溢れてしまった涙が一筋零れ落ちた瞬間。璃緒は初めて真っ向から彼女と向き合った。
 釈明も懺悔もなく、ただ敵として去っていった璃緒たちのために小鳥は泣いた。泣いてくれた。きっと彼女も、一度だって自分をメラグとは呼ばなかっただろう。捨てていくと決めた神代璃緒だった一切を、戦わない小鳥から奪い去る術はメラグにはなかった。だからもしも、対峙せねばならなかったとしたら観月小鳥という非力な少女は厄介な存在となっていただろう。そして気付いた。こんな、どうということのない日常を過ごす相手として向かい合って座っていられること、小鳥がそんな存在でいてくれて本当によかったと。

「――小鳥さん、ねえ、小鳥」

 溢れ続ける小鳥の涙を拭ってやるには、挟んだテーブルが邪魔で届かなかった。
 貴女の気持ちは届いているわと伝えるのに、しかし触れてやる必要もないと璃緒は思う。言葉足らずは溝を生むだろう。けれど伝えようと意図せずとも、伝わってしまう気持ちというものは確かにある。
 例えば今、璃緒の頬を伝い落ちる涙のように。

「私、貴女を好きになりたい」

 話をしましょう。色んなところへ出かけましょう。手を繋いだっていいし、いつか約束したデュエルだって教えてあげる。一緒に生きていきたい。
 兄も幼馴染も関係ない、ただ貴女が大切な人なのだと誇りたい。いつかでいい。焦らずに、積み重ねていける、きっと。
 だってここはまだ、神代璃緒の、運命の終わりではないのだから。
 これが、かつてメラグだった少女が新しく踏み出した、最初の一歩だった。


―――――――――――

明日も生きてくれますか
Title by『るるる』



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