※TからUの間くらい


 世間的には連休の最終日という流れとは全く無縁の生活を送っているカイトは、珍しくオービタル7を伴わず一人で歩いていた。平日も休日も問わず、ハートランドの塔にある研究室で異世界の影響が表れていないか人間界を監視しつつ此方からも異世界へ接触する方法がないかと様々な研究を行っているカイトの半引きこもり生活に苦言を呈したのはすっかり元気になった弟のハルトで、平穏であればあるだけ不健康な暮らしを送る兄を「散歩でも何でもとにかく外の空気を吸って来てよ!」と屋外へ放り出したのである。可愛い弟に追い出されては流石に怒って即室内に戻ることもできず、せめてオービタル7も一緒に放ってくれとは奴がいないと自分が移動もままならない人間のようではないかと自尊心が邪魔をして言い出せず、ハルトの言う通り偶にはゆっくり外の空気を吸って歩くのもいいだろうと特に行くあてのない散歩に繰り出したのが数十分前のこと。
 図書館から出てきた遊馬を見つけたカイトの表情はわかりやすく驚きの色に染まっていた。思わず何も言われていないのに「何だよ! 俺が図書館に来るのがそんなに変かよ!」と食ってかかる遊馬に、カイトは「何も言っていないだろう」と溜息を吐く。その如何にも上から見下ろしている態度に遊馬は言葉に詰まる。しかし「まあ、意外ではあるな」と付け足された言葉に、遊馬はまたしても憤慨するのであった。
 連休用にと出された数学の課題が終わらない。どれだけ数式を睨んでも一向に解き方を閃く気配すらない。削がれていく一方のやる気と集中力に、きっと自分の部屋だから集中できないのだと(何せ遊馬自身勉強というものが似合わない人間の部屋だと思っているので)図書館にやって来たものの、元から理解できないものが場所を変えたくらいで突然わかるはずもない。
 家を出る際、背中にかけられた姉の明里の言葉を思い出す。
 ――外でやるのはいいけど、ちゃんと終わらせてきなさいよ!
 これで課題を終わらせずに帰ったことがバレたら、今度はリビングで姉や祖母が見ている前で終わらせてから寝るようにと強制されてしまうかもしれない。

(小鳥の奴、ねーちゃんに課題あること言っちまうんだもんな……)

 勿論、明里に課題の存在がばれていなければ出来ないまま翌日を迎えてもいいということにはならないのだが。姉の監視が利いているという事実は、遊馬の焦りをひどく掻き立てるのだ。怒ると、彼女はとても怖い。
 図書館に足を踏み入れたときは如何にも勉強が捗りそうな気がしていたが、そんな錯覚は勉強用に設置されている机の上に課題を広げた瞬間に消えた。
 そもそも遊馬の落ち着きがない性根からして図書館の「館内ではお静かに!」という方針が合わないのだ。その正当性は理解しているけれど。だから遊馬は学校の図書室にだって調べ物があるときしか立ち寄らない。補習に追い立てられてひとりで勉強しなければならないときも教室か、自宅でするようにしている。そうしないと、友人たちに教えを乞うことも出来ない。
 初めてやってきた場所に興味津々のアストラルの質問に小声で応じ、その内あとでまとめて答えてやると無視を決め込むうちに皇の鍵に引っ込んでしまってからも遊馬の課題は遅々として進まなかった。Dパッドに表示された手つかずの数式が小馬鹿にするかのように遊馬の瞳に映り浮かんでいた。
 呆れられるのも怒鳴られるのも嫌だったが、このまま一人で悩んでいても一生終わらない。やはり家に帰ろうと図書館を出た。一瞬、アストラルを呼び出して聞きたがっていたことに答えてやってからにしようかとも思い皇の鍵に伸ばし掛けた手は、直後視界に入ったカイトの姿によって停止してしまう。

「勉強は苦手なんだよ」
「そのようだな。それから、そんな胸を張って言うことじゃないぞ」

 あまりにカイトが遊馬が図書館から出てきたことに驚いているようだったので、遊馬は全く終わっていない課題を見せつけて図書館なら勉強も捗るかと思ったのだと理由を説明してやる。それでも、カイトには環境によって勉強の気概が削がれる遊馬の言い分がいまひとつピンと来ないらしかった。全く周囲に流されない男である。
 今日顔を合わせてからの会話はどれも文句を垂れる遊馬を、ばっさりとカイトが切って捨てるという短いやりとりばかりであったが、遊馬にはカイトの言葉で否定されることへ構える気持ちはなかった。こんな風に肩の力を抜いてカイトと話せる時間がにわかには信じがたく、遊馬はじっとカイトの顔を見つめながら話すことを止められないでいる。まるで目の前にいるカイトが本物であるかを見定めようとしているかのようだった。そして徐々に納得する。カイトが攻撃的な意思を持ち、また顔を歪ませ怒りと悲壮な身を削る決意でデュエルすることを前提にしか出会えなかった時間は過ぎたのだと。

「ハルトは元気か?」

 突然の質問にも、カイトは「ああ」と頷いてくれた。

「よかった」

 遊馬は笑う。ハルトが元気なら、父であるフェイカーとも和解して家族と一緒に暮らしているのなら、カイトはきっと幸せなはずだ。こんな風に、遊馬と腰を落ち着けて他愛ない会話に付き合ってくれるくらい。まるでカイトの幸せの尺度は自分の外側にあると言わんばかりの遊馬は、自分が彼に与えた影響などまるで無頓着でハルトが遊馬に抱いている感謝の想いだって必要のないものだと――或いはあるはずのないものだと――思っている。
 入り口前に突っ立って話しているのも邪魔になるからと、脇に設置されたベンチに並んで座りながらカイトは遊馬のDパッドを片手に課題の内容をざっと目を通して確認し「これがわからないのか……」と絶句している。自分でも壊滅的な頭の悪さは方々に指摘されて自覚せざるを得ない現状なのだ。地味に傷付くから止めて欲しいと遊馬はがっくりと肩を落とした。

「じゃあ、俺そろそろ帰るな」

 勢いよくベンチから立ち上がる。情けないところを見られてしまった気恥ずかしさで、無理にでも元気よく振る舞わなければという想いが遊馬の動きを大仰にさせていたがそんな羞恥心などカイトが理解するはずもない。

「待て、課題はどうするんだ」
「え、うーん、まあなるようになるかなって」
「基礎学力がゼロの貴様が何時間掛けても答えはゼロのままだ」
「言いすぎだろ!」

 基礎学力すら穴が開いてるのは認めるけれども、流石にゼロではないだろう。それにいざとなったら腹を括って明里に助けを求めることだってできる。感心できない他力本願な解決策だ。

(あ〜、俺ほんと格好悪ビングだぜーー!!)

 何でもかっとビングに被せればいいものではない。がっくりと落ち込む遊馬が先程まで座っていた場所を指差して、カイトは短く「座れ」と命令してくる。手にはまだ遊馬のDパッドを持ったまま。

「教えてやる」

 まさかの言葉に、遊馬は耳を疑った。



「文章題ならともかくただの計算式だろう。公式を覚えれば一発だ」
「どの公式かもわからねえし、そもそも公式なんて覚えてねえよ……」
「なら頭に叩き込むために倍の問題を用意してやろうか?」
「覚えます!」

 どうやら先程の教えてやるという言葉は聞き間違いではなかったらしい。課題を解く遊馬をあくまで手伝う程度の助言をしてくれるカイトに、しかしこれは学校のどの先生の授業よりも緊張感がある。
 遊馬の手元のDパッドを覗き込みながら、遊馬が躓いている個所を確認し説明してくれるカイトとの距離は必然的に近くなる。間違いを指摘する為にDパッド上に翳された手が遊馬の手に当たると心臓が頭に移動してしまっているのではと思うほど大きく鳴った。
 図書館の静寂に気詰りしていたときよりもずっと落ち着かなくて何度か視線を彷徨わせては怒られた。その叱責すら近過ぎて心臓に悪いと直視できなかった。おかしい、先程向かい合って立っていたときは不躾過ぎるほどカイトの顔を凝視しながら話すことが出来ていたのに。
 混乱しながらも、折角カイトが教えてくれているのだ。これでも理解できないなんてみっともない姿は見せたくなかったし呆れられたくもなかった。必死に教材の内容を理解しようと食い入るように読み、公式を当て嵌めてひとつひとつ計算問題を進めていく。途中些細な計算ミスをする度にカイトが「遊馬」と名前を呼ぶことで間違いを指摘してくる。初めはどこが間違っているかまで言って貰わなければ止まってしまっていた手が、徐々に慣れてきて自分でミスした場所に気付けるようになってきた。それが嬉しくて、遊馬はどんどん問題を解き進めていく。そして最後の一問の計算を終え、答えを書き込む。ほっと息を吐いてからカイトの顔を覗き込む。

「正解だ」

 その言葉に、遊馬は歓喜を爆発させて「やったー!」と立ち上がる。両手を挙げて「終わった〜」「やった〜」「ねーちゃんに怒られないで済む〜!」と喜ぶ遊馬に、カイトは怒るのは姉ではなく教師ではないだろうかと思ったが、実際随分と根気強く頑張ったのだろうと口元を緩ませる。まさか自分がハルト以外の人間の世話を焼く日が来るとは思わなかった。自分には解けて当たり前の問題に苦戦している遊馬の手元のまどろっこしさは不可思議で仕方なく、しかし苛立ちはしなかった。導こうとするカイトの言葉に、時折困惑したように視線を逸らせども必死に応えようとするさまを至近距離で見るのもなかなか気分の良いモノで。なるほど偶には外に出てみるものだと、今頃カイトの帰りを待っているであろう弟に感謝の念を送る。もしかしたら本当に届くかもしれない。それにしたって、いくら頑張ったとはいえやはり遊馬にしてはと限定的な表現になってしまうのは仕方ないのだけれど。釘は刺しておこうと言葉を選ぶ。

「――言っておくが、その問題はどれも殆どが基礎を理解しているか確認するものだ。これを俺の助けを借りて漸く解けたくらいでそんなに喜んでいたら後々苦労するぞ」

 要するに、日頃からもっと授業を真剣に聞いておけということだ。もっとも、カイトが学校に通って授業など受けようもなら学ぶことがまるでないと遊馬とは逆方向に教師の話になど耳を傾けないのだろうが。

「わかってるって!」

 カイトの苦言も、今の最高潮にご機嫌な遊馬には効果がない。しかし聞こえていないわけではないのだ。カイトの言ってることは正しい。でもどうやら、カイトの目に映っている自分の姿は正しく理解されていないようだったから、遊馬は何も言えなかったのだ。
 伝わるはずもないけれど、遊馬がにやけているのは決して課題が終わったことへの喜びだけが原因ではない。あのカイトが、遊馬の持つナンバーズを魂ごと狙い、その後ナンバーズの正当な持ち主であるアストラルばかりを視認していた彼が、遊馬を見つけて、遊馬の為に時間を割いてくれたこと。それがこんなにも嬉しい。この喜びはきっと、頭の良いカイトにも理解できまい。しかしその喜びに別の呼び名があることは、遊馬にもまだわからなかった。二人の課題は、まだまだ山積みのままである。



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いつだって肝心なことを知らないままで
Title by『わたしのしるかぎりでは』
20150204


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