ヨハンはよく歌を唄った。
 十代と二人で並んで歩いているときなど、十代の興味が視界の端を掠めた別の物に移っている隙に訪れた僅かな沈黙の間などに、無意識なのか、その時々の晴れた空や頬を撫でる風の爽やかさのせいか。とても小さな声ではあったけれど、ヨハンは唄った。
 メロディーだけを口ずさむときもあれば、十代には聞き取れない異国語の歌詞を紡ぐこともあった。全て同じ曲であったとは言えなかったが、全体としてどのような曲であるかを知ることも出来ない。だからもしかしたら、同じ曲の違う節々を途切れ途切れに歌っていたのかもしれない。十代が意識して耳を傾けようとすると、ヨハンは目敏く彼の注意が自分に向いていることに気付いて喋り出してしまうものだから、十代の試みは一度も成功していない。
 しかし十代がぼんやりと、ただヨハンが歌っているなと気付いているものの心は今日勝てなかったデュエルのことだったり、これからの夕飯のことだったりと別のことを考えているとき、ヨハンは唄いながら興が乗ったのか手を握って来ることもあった。まるで親密な恋人のように指を絡めてくるりとターンなど決めて見せたりして。十代はその突拍子のなさに(ただでさえぼんやりとしていたのだ)、いつも何と言っていいのかわからずに戸惑いの声と、ヨハンの名前を呼ぶくらいしか出来なかった。だがこうしてふざけているときのヨハンは大抵楽しそうに笑っていたから、十代も釣られて笑うようになった。そうすることが、自分たちの正しい立ち位置を踏まえた上での触れ合いだと思っていた。

「十代、散歩に行こう」

 誘いはいつも突然だ。住まう者が十代だけになったレッド寮を訪れる人間は少ない。それでも、そこに住むのが十代というだけで他の誰かが一人で居座るよりもずっと人の気配を残しているのだろう。人が住まない建物は荒れる。レッド寮も、放っておけば十代の部屋以外あっという間に汚れ、廃れた雰囲気に覆われて益々人を寄せ付けなくなるのかもしれない。十代は気にしなかったけれど、彼の仲間たちはそんな場所に一人で暮らすなんてと彼のこの場所への愛着を知っているからこそ言葉にはしなくとも心の内では心配していた。
 しかしヨハンも、レッド寮の立地の辺鄙さや立てつけの悪さ、移動の不便や住む者のいない荒廃など全く気にしていない様子で十代を訪ねてくる。かつて十代の部屋にラー・イエローの翔や剣山が住んでいた頃と変わらない態度で、ノックもなしに扉を開けることもあれば、ノックはしても十代が返事をするのと同時に既に扉が開いていたり、ベルがないからと頑丈ではない扉を何度も叩かれたり、ヨハンはこの部屋が十代の居場所である限り変わらない態度でここへやってくるのだ。そう、彼は変わらなかった。
 変わってしまったのは十代の方だった。
 二度目の異世界からの帰還。留学生だったヨハンたちが帰国するまでの残りの日数はとっくに示されているのに、十代は別れを惜しむ様子も、惜しまないための楽しい思い出を作ろうとする素振りも見せなかった。ヨハンとは、彼からユベルとデュエルする前に託されたデッキを返したとき以来、自分から会いに行こうとしなかった。以前の二人の親しさを知っている周囲は心配そうにしていたが、やはりヨハンは心配するようなことはないと笑っていた。少なくとも、十代の変化によって訪れた自分たちの関係の変化を、二人以外の人間の問題にまでは広げるつもりはないと思っていたのだろう。

「――十代、寝たか?」

 寝てないけど、散歩は面倒だ。十代はふるふると頭を振る。夜にいきなりやってきて散歩に行こうなんて、恋愛漫画じゃあるまいしと呆れる。もう風呂にも入って、後は寝るだけだった。風呂上りに外を出歩いて風邪をひくほどやわではないつもりだし、気候も寒くもなくまた汗をかくということもない穏やかな夜だけれど。
 もう一度、首を振る。これでは誘いを拒否していることがヨハンに伝わらない。けれど無反応な扉を前にすれば、だれだって自分の言葉への返答を理解するだろう。十代が忘れずに扉の鍵をかけるようになったのは、果たしてそれは誰を拒むためだったのか深く考えたことはなかった。きっと、巻き込んでしまった誰も彼も。これから巻き込んでしまいたくない誰も彼も。そしてそんな十代の都合などお構いなしにやってくるであろう――彼。
 ヨハンが呼びかけてくる扉とは反対に視線を投げる。カーテンを閉めていない部屋には月明かりが充分に差し込んでいて、そういえば部屋の電気を点けていないことに気が付いた。必要がなかった。控えめなノックが続いて、昔――といっても数カ月程度の短い時間――とは違う気遣いにそれは何の遠慮だろうと十代は乾いた笑いが込み上げてくる。十代しかいない寮の部屋の扉を、沈黙の中でなければうっかり聞き逃してしまいそうなこの音は。
 ――ああ、俺が眠ってるかもしれないからか。
 漸く、ヨハンの気遣いが自分に向けられたものだと気が付いて、今度は浮かべていた笑いがぎこちなく固まって息が詰まる。ヨハンは優しい奴だからと俯く。優しくて、良い奴で、強くて、大好きだった。出会ったときから、自分と同じ精霊が見えると打ち明け合っただけで直感的に通じ合って、お互いの内側など何も知らず探ろうとも思わず好きになった。ある種の一目惚れだった。そして必死だった。帰ってきて欲しくて、連れ戻したくて、助けたくて必死だった。鏡映しのように似ているのに同一ではないヨハンを追い駆けて、十代は何かを失くして、そしてここに帰ってきた。失くすのは、怖いことだと怯んだまま。それでも命を賭してでも成すべき使命を見つけたから、十代はそちらへ向かって走るのだ。寄り添うことは、無邪気に肩を組んで日が暮れるまで遊びほうけるにはもう、十代は自身の力の責任を自覚してしまったから、出来ない。

「なあ十代、お前起きてるだろ」
(ああ、ばれたか)
「なあなあ、顔が見たい」
(俺は、声だけで十分だ)
「なあなあなあ――」
(うん、うん、今度は何だよ?)

 ベッドの縁に座りながら、心の中で相槌を打つ。ヨハンはずっと返事のない扉に向かって声を掛け続けていることになる。虚しいだろう。彼の言う通り起きてはいるけれど、段々うとうとしてきて、このまま横になればすぐに眠れそうだ。

「俺のこと、さ、嫌いになった?」
「――は?」

 まさかの言葉に思わず声が出て、腰を浮かせる。どうしてそんな、しっかりと聞こえる声量で、しかし気弱になっていることが伝わってくる震えが十代の脳にダイレクトに響いた。
 ああでもそうか。
 納得もする。十代がヨハンにしていることと言えば、どれだけ巻き込みたくないという一方的な愛情を下敷きにしていても相手からすれば無視とか、避けられているとか、会話をしてくれないとか、そういうことなのだ。今更気付いて、はっとした。伝えなければ、伝わらないのだ。あれだけ、傍にいるだけで気が合って、似たもの同士だと囃されていたヨハンでさえもそうなのだ。そして伝わってこない気持ちに不安になるのも、拒まれ続ければ強引に我が物顔で押し入ってきた場所に入るのに躊躇いがちになるのも、当然のことだった。十代の目に、ヨハンは今ありふれた人間として映っている。特別ではない、強くない、ただの人。だけどとても優しい人。

「ヨハン」

 気付いたら、扉の前に立っていた。鍵に触れる。開いたら、ヨハンは立っているだろうか、蹲っているだろうか。泣いているだろうか、怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか。まさか先程の震える声が心配かけて十代を引っ張り出すための演技だなんて言わないだろう。
 そしてゆっくりと鍵を開けてドアノブを回した。徐々に開く扉の隙間からまた夜の光が差し込んできて、ヨハンの姿が見えてくる。久しぶりに見た顔は、想像のどれとも違っていて今にも泣きそうな顔で、それでも笑おうと目元と口元を必死に取り繕っていた。

「ヨハン……あのさ、」

 嫌いじゃないと、正面から告げるつもりでいた。だがヨハンが差し出した手に言葉は遮られた。

「散歩、行こうぜ」

 今更断る理由も用意できずに、十代はヨハンの手に自分の手を重ねていた。握り返された手は温かくて、無性に切なかった。


 予想はしていたけれど会話は殆どなかった。元気にしていたかと聞いてみようにも、あまりに空々しいからやめた。

「なあヨハン、歌ってくれよ」

 夜の木々の合間を、男二人無言で手を繋ぎながら歩くというのはどうにも居た堪れないから、十代はおどけてねだってみせた。手を離して、気楽な間合いに戻るという選択肢を選べなかった。ヨハンの手には、しっかりと握って離さないようにしようという意思が感じられたから。
 十代の頼みに、ヨハンは何故そんなことを頼まれるのかわからないのか首を傾げている。

「前はしょっちゅう歌ってただろ」
「え? ああ、でも鼻歌だろ? そんな歌えって言われてそれじゃあって歌うほど俺歌唱力に自信ないぜ」
「そんなの期待してねえよ。ただ、ヨハンが歌ってるとああヨハン歌ってるなあってなるんだよな」
「何だそれ、変だぞ」
「うーん、上手く言えないな」
「うん」
「ただ、俺はヨハンが歌ってるの好きだったからさ、何か歌ってるときってご機嫌って感じしてさ、」

 それが俺と一緒にいるときだっていうんだから嬉しかった。また肝心な言葉は心の中に仕舞って、十代は繋いだ手を前後に振ってみた。やはりがっちりと繋がれた手はびくともしない。それもいいだろう、今は。離れないと一瞬でも思える何か、それがこんな静かな夜に繋いだ手だとしても、十代にはくだらないと切り捨てることもできないのだ。
 ヨハンは黙ってしまった。そして十代には、知らんふりをしていればいいときにかぎって彼が何を考えているのかがわかってしまうのだ。こんな時だからかもしれないけれど。

「なあヨハン、もう一度言うけどさ、俺はヨハンが歌ってるの好きだったよ。幸せそうで、優しい声で、何か好きだった」
「ああ」
「だからさあヨハン、歌わなければ良かったなんて、思わないでくれよな」
「――ああ」

 沈黙の心地よさに浸らずに、もっと沢山の言葉を交わしておけばよかったなんて。思い出を、後悔で汚したりはしないで欲しい。
 もっとも、一時の気の迷いに過ぎないはずだ。だから十代は歌を唄った。ヨハンは知らないであろう、数年前に日本で流行った歌。歌詞は覚えていないので、メロディーだけを口ずさむ。手は繋いだまま。タイトルも思い出せない。

「……それ、なんて曲?」
「何だったかな、忘れちまった。最初から覚えてなかったかも知んないけどな」
「十代っぽいな」
「褒めてないだろそれ。でも、そうだな。たしか、ラブソングだった気がする」
「ふうん」

 話し掛けるから、メロディーが飛んでしまった。また初めから同じメロディーを繰り返す十代に、ヨハンが一度聞きかじっただけで真似て鼻歌を被せてくる。十代は何度ヨハンの鼻歌を聴いてもこれっぽっちも一緒に歌えやしなかったのに、大したものだ。感心していると、十代が歌った箇所以外は当然わかるはずもないので次第に適当に外れた音を奏で始める。
 ヨハンが歌ってくれるのならそちらの方がいいと、十代は歌うのをやめる。ヨハンは気付いて十代を見たけれど、何も言わずに歌い続けている。いつもなら、ただ黙って聴いていた。

「なあ、それ、なんて曲?」
「忘れちまったよ」
「嘘くさいな」
「ははっ、――の歌だよ」
「え?」
「恋の歌だよ、ラブソング、さっきの十代のと一緒」
「へえ」
「ぴったりだろ」

 がっちりと繋がれていた手が不意に、あっさりと、放り出された。熱の集まっていた掌が夜気に晒されて冷えていく。それを寂しいと言い表すのは図々しい気がした。掌を見つめながら立ち止まった十代の前にヨハンは立ちはだかって両腕を広げて見せた。一瞬抱き締められるかと思って身体を強張らせたけれど、違った。

「好きだぜ十代」

 そうして月を背に微笑むヨハンは綺麗だった。
 けれどそういうことはもっと早く言って欲しかったというのは、散々周囲の人間から遠ざかっていた自分が言うには我儘すぎるのだろう。
 だとしても、明日には海を渡ってしまうという夜になって告白してくるなんてやっぱり思い出作りって奴なのかもと思うとやるせないやら腹立たしいやらで十代の瞳からは知らない内に涙が零れ落ちていた。ラブソングなんて、歌うもんじゃないのだ。しんみりしてしまって駄目だ。

「俺も、ヨハンが好きだよ」

 それでも別れはやってくるのだと思うと、十代は今すぐにでもたった一人で暮らす居城に立て籠もってしまいたかった。



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僕らどうやって永遠になろう
Title by『さよならの惑星』


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