※パラレル


 昨夜酒場で知り合った青年の職業は画家であるらしい。自己紹介の際、画家の頭にしっかりと売れないという一語を添えるのを忘れなかった。恐らくそれが、青年の自己紹介の定型句なのだろう。黙々とイーゼルに乗せたキャンバスに筆を走らせている背中を眺めながら、十代は青年が淹れてくれたコーヒーに口を付ける。砂糖もミルクも必要だったら適当に台所を漁ってくれとマグカップを渡され、初めて上がった他人の家でそんなことは出来ないからと咄嗟にブラックでいいと言ったものの異様に苦いし熱い。ちびちびと飲み進めるしかないか。初対面から数時間の自分に青年が与えてくれた厚意の数々を思い出して、十代は不満などあるはずもないのだからと余計なことは考えないよう努める。
 酒場といいながら街で最も賑やかな食堂に十代が立ち寄ったのは、この街に着いてすぐのことで、それでもとっくに日は西に沈み夜の色合いが濃い頃だった。見かけない顔の十代に、何人かの男らは気さくに旅人を歓迎する声を掛けてきて、十代もそれに笑顔で応えた。とっくに酒で出来上がっている連中の多くは、十代という余所者が混じり込んでいることに全く気付いていないようだった。この街は目的地までの通過点だったので長居するつもりもない。だが愉快で朗らかな土地柄のように十代は感じた。
「いい街だな」
 満員のテーブル席に背を向けてカウンター席に腰を落ち着けた。酒の用意をしているマスターに声を掛けると笑顔で首肯された。夜だというのに、この街の空気はやけに明るい。
 暫く食事に集中した。その間も客の出入りは激しく、十代の周囲にも新しい客が座ったり立ち去ったりした。ここ連日歩き通しでまともな食事が久しぶりだったせいか、随分と長居をしてしまったらしい。忙しそうにしているマスターに、よければこの街で価格の低い宿を教えてもらおうと手が落ち着くのを待っていたせいもあるが、それでも。
 がやがやと籠もるように響いていた酔っ払いたちの声も段々と静かになった頃、入り口の来客を知らせるベルが鳴った。思わず顔を向けてしまったのは、暇になっていたからだろう。カランコロンと響くそれは、先程まで十代の耳に届くような音量とは言えなかった。
それだけ客がまばらになったということだろう。
 入ってきた青年は店内をぐるりと見渡すと、最後に見慣れない十代の姿を見つけ、それから思いきり笑いかけてきた。それは十代が店内に入ったときから何度も向けられている歓迎と、旅人さんかい? という問いかけを含んでいる、そんな笑顔だった。いかにもこの街らしい青年だと、一瞬にして十代にそう思わせた。
 カウンターに向かってくる青年は、テーブルの間をすり抜ける度に酒がまわり突っ伏していびきをかいている男たちの背中を叩いては早く帰らないと明日の朝がしんどいぞなどと声をかける。

「奥さんが家の前に出てたぞー」
「こりゃあ雷決定だな。ヨハン、家までついてきてかみさんあやしてくれよ」
「無茶言うなよ、大人の女性の扱い方なんて知らないぜ」

 ヨハンというのか。十代はヨハンと呼ばれた青年を不躾だと思いつつもつい視線で追いかけて、聞こえてくる声を耳で拾ってた。街中の人間に慕われているのではないかと思えるほど、一度も笑顔を絶やすことなく――愉快、呆れ、心配といった種類の違いはあったけれども――彼は十代の隣までやってきて、カウンターの中にいるマスターに「いつもの貰っていいか?」と尋ねる。マスターも朗らかに「勿論」と頷くと、いつものを取りに奥の厨房へと引っ込んでしまった。その背をぼんやりと見送ってから視線をそらすと、思いきり隣にいるヨハンが自分を見ていることに気が付いた。その瞳は、初めて見る人間への純粋な好奇心に満ちている。何を探ろうという邪な色など微塵も浮かばず、それでも十代という余所者へ尋ねたいことがあるのだと訴えてくる瞳。一瞬、十代はヨハンの瞳に虹を見た気がした。

「名前は?」
「十代――遊城十代。お前は?」
「ヨハン・アンデルセン。売れない画家やってる」
「……売れないのか?」
「質素にしてれば生きていける程度には売れてる……かな?」
「わかった、売れる売れないには興味がないんだな」
「!」

 口ぶりからなんとなく、単に絵を描いてることが好きな人間だという気がした。絵で生計を立てていく以上ヨハンは確かに画家だが、絵を売らずに生きていける金があるなら誰の目に完成させた作品が触れなくともひたすら絵を描いているような人間だ。芸術家。偏見ながら十代はこの手の人間には変わり者が多いよう認識している。先程のように人の輪の中心にあっさりと入り込む自然な佇まいが似合う好青年が画家。意外だなと思ったが、世界中には様々な人間が自然不自然を問わず存在していることを世界各地を旅してきた十代は知っている。自分自身、長く同じ地に留まれば変わり者と評されてしまうであろうことも。
 二人の自己紹介からの手短な会話が終わる頃、厨房から戻ってきたマスターはヨハンの前にサンドイッチの皿を置くと、その横にパンの耳が入った袋を置いた。

「サンキュー!」

 礼を言って、一秒と待たずサンドイッチを掴んで口に放り込んでいくヨハンの手に紫の絵具が付いているのを見て、十代はなるほど画家ね――とようやく納得した心地になった。

「あのさマスター、よかったら今からでも部屋が取れそうで出来るだけ安い宿とか教えてくれないか」

 さて今度こそ十代も次の行動に移ろうと、尋ねようと思ってから随分と我慢していた問いをマスターに投げかけ、暫く考えていたマスターが口を開こうとしたのと、ヨハンが口の中身を――口の端にマヨネーズを付けたまま――咀嚼し終えたのはほぼ同時だった。

「泊まる所探してるんなら、俺んとこ来る?」

 それが、一夜明けた現在十代がヨハンの背中を眺めながらコーヒーを啜っているたった一つの理由だった。


 絵を描くヨハンの姿を眺めながら、十代はさほど熱心だったわけではない。彼はさほど芸術というものに興味がなく、どのような絵画の前に立たされたとしてもそれを描いた人間の人柄だとか権威だとか背景だとかそういったものには一切の頓着なく自分が好ましく思うか否か、或いはそのどちらも感じずに終わるか、その程度だとしっかり把握していた。ヨハンは絵の感想を言わせるために十代を彼のアトリエ兼自宅に招待したわけではないようだったし、その点は正直ほっとしたといえるだろう。十代は空気は読めるが気を利かせろと言われると途端に下手くそになってしまうのだ。
 キャンバスの前にはヨハンが座っている椅子と、彼が手を伸ばすのに丁度いい位置、高さの木製のテーブルがありその上に大小様々ン筆や、汚れたタオル、数枚の木製パレットと昨夜マスターにもらったパンの耳が入った袋。そして絞り出されて捻れた、或いは新品のまま滑らかな形を維持したままの絵具のチューブが放り出されている。
 コーヒーを飲むのに時間が掛かっている十代は、暇つぶしにそのテーブルの上に散らばった絵具の色を頭の中で呼ぶ。細かい差は――赤色と朱色だとか――よくわからないので、目にした瞬間の直感で答えていく。
(赤、オレンジ、赤、黄色、紫、青、緑、赤、青、水色、黄色、赤、紫、紫――)
 数え始めてから、存外種類が少ないことに気付く。今度は色の名前ではなく種類の数をカウントしてみると、十代の大雑把な色の知識で分別した結果計7色の絵具しかテーブルの上には転がっていない。そしてこれらの色をじっと眺めていると連想するものがあることに、十代はすぐに気付いた。

「――虹?」
「ん?」
「あ、いや、絵具、虹色だなーって」
「お、わかるか?」
「わかるかって?」
「俺、この虹色の7色しか使わないんだよ」
「画家って、そんなんでいいのかよ」
「画家って色を沢山使う絵描きの総称じゃないぜ」
「まあそうだけどさ」

 十代の呟きを背中で拾ったヨハンは、コーヒーを手渡してから初めて振り向いて、十代の発見を嬉しそうに肯定した。
 ヨハンは自分でパレットに色を作り出すことを殆どしないのだという。作り出したとしても、結局それは赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫のいずれかに分類される色なのだという。
「何でかはわかんないけど、俺にとって色っていったらこの7つだけなんだよなあ」
 それ以外の色を混ぜ合わせて別の色を作り出すことは、原色の7色を殺すことと同義であるように思えて、いっそ恐ろしいこととすら思っている。
 そう言うと、ヨハンは改めて自分の認識を不思議に思ったのか、これまでとは違うゆっくりとしたタッチで紫の絵具を乗せた絵筆をキャンバスに走らせた。その絵は、十代にははっきり言って風景画でも肖像画でも静物画でもなくでたらめに色を散らせているだけの抽象画に見えるのだが、どうだろう。何を描いているんだと聞くのは、ヨハンを困らせてしまうのではと気が咎めてできなかった。十代が時々、旅をしていると言うと何処に向かっているんだいと旅自体の最終ゴール地点を聞かれて困ってしまうみたいに。

「いいと思うよ」

 そして自然に口を衝いて出てきたのは、能天気で無責任な肯定だった。
 けれど十代には言葉では説明できないひとつの確信があって、できれば目を見て話したいなどと思っているとまたタイミングよくヨハンが振り向いてばっちりと視線が絡まった。何故だが、昨夜であったときからふとした瞬間に相性の良さを感じる、不思議な感覚だった。

「その色は、きっといつかお前に会いに来るよ」
「――色が? もうここにあるのに?」
「わけわかんないだろ? でも俺はそんな気がするよ。虹みたいに掴みようがなくて、家族みたいに親密で、この街みたいに明るくて温かい何かが、きっと」
「……ふーん」
「胡散臭いって思ってるだろ」
「若干」
「だよな」
「でもそっか、俺の所に来るのか、その、何かが」
「ああ。きっとお前と相性の良い、何かが」
「十代って霊媒師とか、占い師とかそういうのだったのか?」
「まさか! 日々勘を頼りに行き先を決めている宛てのない旅人さ」
「でもなんか言葉に妙な説得力があるな」

 十代の確信は、それこそおとぎ話じみた空想に似ている。ヨハンの愛する虹色が、いつか形を得て彼の元へやってくるという、一瞬の予感。現実離れしたそれは、しかし世界中を旅している十代には信じるに値するものなのだ。不思議なことはいくらでもある。奇跡や、悲劇も様々な形で落ちているし降ってくる。それらをどれだけその身に受けて変容せずにいられるか。自分が大切にしている物を損なわず、或いは緩やかに作り替えて、それでも変わらない自分自身だと両脚で地面を踏んで歩き続けていられるか。十代は確かめるように生きている。まだ出会ってから一日も過ぎていないヨハンの絵を描くことと、十代が旅をすることは似た意味を持っているのではないかなんて勝手に想像している。ライフワークと簡単に当て嵌めてしまえる言葉よりも、ただ日々触れて、踏み出す世界の形が不確かであることを知っていて、閉じ込めるように、確認するように、世界を覗く。その先で何にも出会わないなんて、嘘だ。十代は出会ってきた。友人にも、恩師にも、憧れの人にも、魂の連れ人にも、それこそ他人には見えない妖精の類だって。だからどうして、ヨハンだって出会うはずだと信じられないはずがないのだ。

「じゃあ十代の言う通り俺の所に何か、やってくることがあったら知らせるよ」
「――おう、いつになるかは知らないけどな」
「気長に待つさ、虹は逃げない」

 そりゃあそうだ、だって虹はヨハンを目指してやってくるのだから。
 ずっと手にしたままのマグに口を付けると、コーヒーはとっくに冷めて苦さが舌にはっきりと意識された。そして十代はいつか自分の予感が当たったとして、それを知らせようと言ってくれるヨハンに教える宛先がないことに気が付いた。けれどまあ、いいか。そう、また十代に背を向けてキャンバスに筆を走らせているヨハンを見遣った。縁があれば、きっと十代はこの街に巡り会うだろうから。




虹の予感
20150728



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