※『キッチン』吉本ばなな/パロディ




 ユートが独りぼっちになってしまった夏、柚子は彼の部屋で狂ったように料理を作っていた。
 同じ部屋で家族のように暮らしていた黒咲隼が出て行ってしまったこと、そしてもう帰ってくることはないだろうこと、同じ部屋でユートは一人で暮らして行かなければならないこと。そのどれもがユートを深く悲しませていることを、片手で足りる程度の人間しか気付いていなかった。
 彼が独りぼっちになってしまったのは柚子たち中学生が夏休みを迎える頃だった。
 柚子はこれまで遊矢やセレナといった友人らと連れ立ってしか入ったことのないユートの暮らすマンションの部屋に初めて一人で足を踏み入れ、今となってはただ一人の家人であるユートがそばにいたにもかかわらず、その空間の余所余所しさに愕然としてしまった。それはユート以外の誰かがこの部屋に息づかせた鼓動のようなものであったのかもしれないし、逆にその誰かの気配が消失したことによりぽっかりと空いてしまった隙間だったのかもしれない。少なくとも、その自分以外の誰か――黒咲隼という人間の欠落にユートが順応しきれていないことは明らかだった。
 黒咲隼という人間について、柚子はさほど多くを知らない。何度か顔を合わせたことがあるものの、柚子によく似た妹がいるらしいこととデュエルの腕が立つくらいしか即答できる情報は持っていなかった。同年代の中で比べると幾分落ち着いたユートの隣にいる姿がよく記憶に映えている。ただその空気はユートと同様に落ち着いているというよりは尖っていた。ユート以外の誰かが黒咲の傍にいるイメージが湧かないのはその鋭さのせいかもしれない。だが悪い奴ではないというユートの、困ったような、仕方ないだろうコイツはという優しい呆れの言葉を、柚子は未だに疑ってはいない。黒咲がユートを置いて行ってしまったこの時に於いても。

「仕方ない奴ね、黒咲は」

 柚子のか細い呟きは、想像だにしない強さで部屋の中で澱んでいた空気を弾いた。ユートは力なく微笑むと「すまない」と謝った。
 途端、他人の部屋特有の居心地の悪さに無視を決め込む勇気が湧いてきて、柚子は大股で今いる部屋のベランダに面する長窓を思いきり開け放った。むわっとした夏の肌にまとわりつく熱気が柚子を包んで、しかし頭の中には冷めた、悲しみと怒り、戸惑いと怯え、ともすれば叫び出したいような衝動が渦巻いていた。
 違うのよ、ユート。そうじゃないの。謝って欲しいなんて、私ひとことも言ってないし思ってもいないのよ。
 柚子は言い募りたかった。だがユートの世界であるこの部屋の外から土足でやってきた柚子が、ユートに何と言って欲しかったというのだろう。きっと柚子は何も言わないでいいと言いたかった。けれど何もかも言葉で説明して欲しかった。何もかも知って欲しいと思われたかった。そうすれば私だって適切な言葉でユートに寄り添えるはずだと。けれどそれが彼女のわがまま、わかっていた、そんなことは。

“黒咲隼が消えた”

 又聞きするにもきっと時間を挟み過ぎた。柚子が近頃ユートを見かけない理由をやっと耳にしたとき、彼の元から黒咲という大切な親友が去ったことを知ったとき。広まっていた言葉は確かに消えたという完了で過去だった。

“それって死んだってこと?”

 真っ先に頭に浮かんだ考えを不躾だとは思いながら柚子ははっきりとすべてを尋ね倒してしまいたかった。でも誰に? 柚子が事情の一端を掴んだときには事態は既に終わったも同然だった。
 ユートは事が起こったとまずは遊矢やユーゴに一番に――それでも何日かぼんやりとしてからの、やっとの行動だったらしい――隼がいなくなってしまったと打ち明けたらしい。もう何日もまともに眠っていない濃いクマの浮かんだ顔と、栄養不足の頼りない体を駆けつけた二人に預けて少しだけ泣いたという。それだけで、遊矢とユーゴは万事承ったと頷いて、ずっと学校を休んでいるユートへの連絡や、消えた黒咲に関する彼がここにいたという――そしてもうここにはいないという――情報の変更の手続きといったアレコレを手分けしてこなしていた。(この作業には、ユートとは微妙に距離を詰め切れていないユーリも関わっていたらしい。裏で動き回るのが得意な彼が関わっていたのなら自分のところへの情報到達が遅れたのも納得だと柚子は顔を顰める)
 遊矢やユーゴに何故教えてくれなかったのと詰め寄っても、返ってくる答えはきっと「ユートから聞いてなかったの?」だろう。そして柚子も、ユートのことはユートから直接聞きたいと思っていた。

「柚子にも知らせないととは思った。何度も。でもできなかった。何でかはわからない。俺の身の回りで起こった変化を君に伝える理由も、隼の下した決定を君に伝える理由も――よく、わからない」

 何でかはわからない。この言葉は存外柚子の心を傷付けた。ぶった。爪はじきにされた気がした。けれどそんなことに涙して、ひどいわと男を詰って追い駆けてきてくれるのを期待して部屋を飛び出すような少女漫画を夢見る女の子では、柚子はなかった。
 傷付いて、次に柚子の内側に広がったのは悲しみではなく怒りだった。ユートへの怒りでも、黒咲への怒りでもないそれは柚子自身へと向かう怒りだった。その怒りをどうにかしなければと思ってからだ。柚子がユートの部屋のキッチンを占領するように料理を作り始めたのは。


 肉じゃが、パエリア、パスタ、サラダ、麻婆豆腐、ラーメン、シチュー、オムレツ、豚の角煮、ウハー、スコーン、ミートローフ、おひたし、てんぷら、テリーヌ等々……ひたすらに、数えきれない、国籍も分量も豪華も質素もただ料理であれば頓着せずに柚子は作り続けた。男二人で暮らしていた部屋に、立派に揃えらた調理器具に初めは面食らいながら、すぐにそれら全てを万遍なく使いこなすという半ば意地になった試みを加え、材料費のことなんて一切考えもせずに――きっとこの夏が過ぎたころお小遣いとお年玉からなる貯金の残金を振り返って、厳しいやりくりを強いられることになることはわかっていたけれど――デッキの調整に必要なパックの購入を夏休み前に済ませておくことができて本当によかったと胸を撫でおろしさえした。
 毎度すさまじい量作り出される柚子の手料理を、ユートもまた毎度黙々と完食し続けた。心に空いてしまった穴を、その場しのぎの食事で埋めようとしているかのように。
 夏休みが何か真新しいことを始めずとも確実に残りの日数が目減りしていく中、柚子がユートの部屋に入り浸って――実際には料理を作って、食べて、食べさせて、片付けて、買い物をして、それくらいだったが――いることは二人の周囲の親しい人以外知る由もないことであった。しかしそれでも目敏く耳聡い何人かの女の子たち――そしておおよそ全員が決まってユートに恋をしている――に、この真夏の炎天下によくやるものだと感心するような待ち伏せを受けた柚子は「弱っている彼の心に付け入るような真似は卑怯だわ」「よくそんな図々しい真似ができるわね」「神経を疑うわ」などと口々に詰られた後、一様に睨まれた。
 付け入ることが出来たら、付け入りたいと思えたらどれだけ良かっただろう。柚子は言いたい放題彼女を詰って、如何にも自分たちこそがユートを思いやっている体の同級生(だろう)女の子たちを見送って、それでも習慣としてユートの暮らすマンションへの道を歩く。何度足を踏み入れても、未だ余所でしかない部屋ととっくみあうようにキッチンにシンクの水垢をこする虚しさ、向かい合って食事をしながらそれでいて柚子にとっての余所に閉じこもったままのユートを見つめ続けることの辛さを、私を睨んで来た彼女たちの一人でも想像してくれただろうかと柚子は空を見上げる。小さな子どもたちが家に帰る時間を迎えても、夏の太陽は我が物顔で空に鎮座している。

「隼がいつかいなくなってしまうことは、ちゃんとわかっていたんだ」

 ある日、いつも通り大量の料理をたいらげてから洗い物をしている柚子に――或いは盛大な独り言を――ユートは言った。

「隼はずっと俺といるわけにはいかなかった。親友というだけの他人なんだから、当然だ。昔から隼は瑠璃に――妹を大袈裟なくらい大切にしていて……いや、兄妹とはそういうものだったのかもしれないな。俺は一人っ子だから正確なところははっきりと言えない。ただ本来なら隼は自分の妹を一番に守ってやりたいと思って、傍にいてやるべきところを、意図して後回しにして俺の面倒を優先させてくれていた。たぶん、周囲にはああ見えて頭に血が上りやすい隼を俺が諫めているにでも見えただろう? でも、実際面倒を見てくれていたのは隼の方なんだ。きっと、妹よりもずっと見るに耐えなかったんだろう、独りぼっちの、俺が」

 突然何を語り出すのだろう。驚いて、柚子は水を出しっぱなしにしたまま――抑揚を欠いたユートの声が聞き取りにくくなるのに――彼を見つめた。
 ユートと黒咲の出会いを柚子は知らない。柚子が二人と出会ったとき、彼等は既にこの部屋で暮らしていて、一緒にいた。黒咲に妹がいることは知っていたが、黒咲が守ってあげなければならない、兄としての矜持がそう思わせたとして実際に実行しなければならない状況にいる妹なのかどうかも知らない。それでもどうやら、黒咲の優先順位は既にユートから瑠璃に移ったのだと彼は言う。それは来るべくしてやって来たときなのだと。

「それで?」
「柚子?」
「それで、ユートは、これからどうするの?」

 口を挟むべきではなかったかもしれない。励ますことも急かすことも大差ない言葉しか使えないのなら、沈黙していた方がずっと賢いこともある。だが柚子は尋ねないわけにはいかなかった。泣いている幼子を前に何もせず眺めている大人が不適当であるように。ユートは泣いてはいなかったけれど。

「――ごちそうさま」

 その声はとても穏やかだった。

「さっきも聞いたわ、ソレ」
「もうお腹いっぱいだ」
「その内また空くわよ」
「今までありがとう」
「……やめて」

 泣きそうなのは柚子の方だった。やめて、締め出さないで、私を、この部屋から。
 怯えた。出しっぱなしの水道水がシンクを叩き続けている。ユートは真っ直ぐに柚子の目を見て、笑った。

「俺はきっと、きちんと君をこの部屋に招くべきなんだ」

 咄嗟に理解が追い付かない。

「君の優しさに甘えて、付け入るような真似はせずに」

 いいえ、私が付け入りたかったの。本当は、貴方が失った特別という穴を、食事ではなく私自身で埋めたかったの。濁流のように溢れ出ようとする本音は、しかしそれを許せばきっと同時に彼女の涙腺を決壊させるだろうから、それがいやで唇を噛んで必死に堪えていた。

「柚子がずっとこの部屋にいてくれたらいいのにと思う。何ではかは、たぶん、まだわからないけど」

 言葉の歯切れが段々と悪くなって、最後にはばつが悪そうに視線を逸らしたユートに、柚子はとうとう眦から温かい涙が溢れて頬を伝って行くのを感じた。けれどそれは、先程まで抑えようとしていた彼女が卑下してきた感情の奔流ではなかった。ユートが閉じこもっていた部屋の扉がほんの少し開いた、その中に手を伸ばせることへの喜びと、安堵と、それからやっぱり仕方ないなあこの人はという、許容。
 ――ねえユート、その理由がわからない内は、私貴方を甘やかしたりしないんだからね。

「できるだけ迅速に、明らかにしよう」

 柚子の精一杯の本音と茶目っ気の折り合い地点から出た催促に生真面目に返事を寄越すユートに、彼女もまたようやくこの部屋にユートとは違う意味でしがみつき続けた理由を認めることができる気がした。
 甘やかしたりしないと言いつつもまたこのキッチンに立って彼の為に料理を作る自分の姿が、きっと明日もあるのだろう。




空っぽになった心は空腹に喘ぎ
Title by ダボスへ
20150727





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