セレナは裸足で波打ち際を歩いている。遊矢は彼女が脱ぎ捨てた靴と靴下を拾い上げて、彼女と適度な距離を挟んでその後ろを歩いていく。気紛れに、次は赤いジャケットを脱ぎ捨てるかもしれないし、青い髪に映えた黄色のリボンをほどいて放るかもしれない。うっかり踏んづけないようにしなければと、遊矢は注意を払っている。
 本当は直ぐにでも、セレナにはきちんと靴下も靴も履いて歩いて欲しい。海水浴場として整備されていない砂浜は、防波堤から投げ捨てられたり、波に打ち寄せられたりしたゴミが見渡せばひとつやふたつ、難なく視界に入ってくる。足の裏を怪我したら大変だと遊矢は一度だけ声を掛けたのだが、セレナは間髪入れずに「大丈夫だ」と力強く宣言して、しっかりと足の裏で太陽に熱されている砂地と、波によって濡らされて踏みつければ崩れる砂地とを蛇行した足跡を残しながら歩いていく。それでいて、彼女の歩調は一度だって迷う素振りなんてもの、後ろを歩く遊矢には見せなかった。
 太陽が眩しい。眩しいのに、遊矢は空を見上げる。しかし太陽と遊矢の間を遮るものが現れて、遊矢は顔を上げたときから細めていた目を見開いた。飛行機が、いつもよりも明瞭に姿を捕えられる高さを飛んでいた。そういえば、空港が近いと納得する。あっという間に飛び去ってしまう飛行機に視線を奪われていた遊矢が、次にセレナに置いて行かれてしまうと思い至り慌てて彼女の姿を確認しようとしたとき、彼女が立ち止まり、遊矢の方を見ていた。普段その瞳は凛と開かれ、気難しげに結ばれた口元からつい不機嫌を疑いがちだが、あまり笑わないというだけで怒ってもいないのだということを遊矢は短くも濃い付き合いの中で理解しているつもりだ。ただどうやら今回は、本当に怒っているらしい。こういうとき、柚子や権現坂が相手だったら自分の非を疑いもせずに「どうしたんだよ」と声を掛けただろう。理由の説明もせずに不機嫌な態度を見せつけられることは、罪の意識がない人間にとってはささやかながらも不当な扱いとして映るから。
 しかしこのとき、遊矢はセレナに向けてへらりと力のない笑みを送った。セレナは虚を突かれて、瞳を大きく見開き、数度瞬いた。それからみるみる怒りに眉を吊り上げて、遊矢に背を向けさっさとまた元の進行方向へと突き進んでいく。心なしか肩を怒らせて歩くその姿は、どうし見たって遊矢を責めているのだった。

「――セレナ、」
「話しかけるな!」
「でも、話しかけなきゃ、さ!」

 砂浜に足を取られ、走りながら発する言葉は途切れがちになる。セレナは振り返らない。遊矢が見つけた適度な距離を大幅に超過した二人のスペースを埋めようとすればその分気配を察したセレナが大股で歩く。彼女の脱ぎ捨てた靴で手が塞がっていて、猶更走りにくい。
 ――何を怒ってるんだ。
 その背中に、尋ねてみても良かった。ただどうしようもなく、セレナの機嫌を損ねた原因もわかっていて。それは過失でもなければ悪意でもない、自分と彼女の性質の違いからくる対人態度の齟齬の問題であったから出来れば今回はセレナの方に折り合いをつけて欲しかった。飛行機を見ていただけなんだから。別にセレナを置いてどこかへ飛んで行ってしまおうなんて、そんなこと微塵も思っていないなどと自分から言い訳をするのは、あまりに自惚れが過ぎていて恥ずかしいだろう。何よりセレナは、自分が寂しがり屋の可愛い女の子だと思われていることに堪えられないだろう。遊矢は時折、セレナの気持ちをありありと想像できてしまう自分に驚くのであった。

「セレナ、そろそろ戻ろう」
「うるさい」
「このまま歩いてったって行き止まりだよ。ほらあそこ、防波堤が海に突きだしてるだろ? あれ、登れないって」
「やってみなければわからないだろう!」

 不機嫌に昂ぶって、セレナがまた振り向く。彼女は自分の行動に口出しされるのが好きではないのだろう。遊矢がセレナと出会ったとき、彼女は自分の見識の狭さを改めるきっかけをくれた柚子に恩を感じていて、次元を飛ばされてしまった彼女を連れ戻すために遊矢たちランサーズと足並みを揃えることに何ら抵抗を示さなかったけれど。それはやはり、セレナが自分の意思で徒党を組むことが必要だと判断し、選んだからだ。そこに赤馬零児の干渉が強く働いていたとしても。ぼんやりと耳にしたセレナと零児の出会いや、融合次元で深窓の令嬢よろしく囲われていた暮らしから飛び出し――セレナにとっては幽閉同然の暮らしだったのだろう――遊矢たちの暮らすスタンダードにやって来た経緯を照らし合わせても、彼女の行動力には舌を巻く。時に迷惑を被る人もいただろう。それでも彼女の心は曲げられないのだ。曲げるべきでもない。だってひとりぼっちで歩く彼女の背中はこんなにも小さいのだ。乱暴に扱っていいはずがない。

「――戻らないっていうなら、これ、捨てるぞ」

 強硬手段に、手にしていた靴を海に捨てる意思を示す。だってこれは遊矢が完全な全員で拾って持ってきているのであって、本来ならセレナが脱ぎ捨てた場所に置き去りにされて、今頃波に浚われてしまっていてもおかしくない代物なのだ。当然のように自分の手に却ってくるものとは思ってくれるな。
 そんな遊矢の言い分は、セレナには不当なものとして響くのだろう。彼女は不当に扱われるのも、行動に口出しされるのとイコールで嫌いなのだ。セレナという人間を、その実力を正当に評価して、発揮する場を与えられないことを彼女は許さない。だから今、巡り巡って遊矢の前にセレナはいる。遊矢に限ってそんな不当な振る舞いをするなんて思わなかったと、落胆を隠そうともしない表情は思いの外遊矢を怯ませた。

「靴がなくなったら――」
「うん、」
「私はどうやって帰ればいいんだ?」
「えっ」
「靴を履かずに道を歩くのは変だろう?」
「そりゃあ、だから……」

 突然真っ当な言い分を差し出してくるから、言葉に詰まる。今ここで遊矢がこの靴を海に放り投げてしまったら、彼女は帰ろうとしたときに困る。それは事実だ。でも遊矢としては、だから大人しく引き返すという選択肢をセレナに選んでほしかったわけで、ここまで真剣に捉えてくれなくてもよかったのだ。

「セレナの靴が流されて行っちゃったら――」
「困る」
「うん、でも俺がおぶって帰ってやるよ」
「融合次元までか?」
「まさか、俺の家まで」
「私の帰る場所は遊矢の家ではないぞ」
「……そりゃあそうだよ」

 軽口に解決策を提示して、話題をさっさと流してしまおうとした。そうして遊矢は猛烈にゴーグルで瞳を隠してしまいたい衝動に襲われている。口元で感情を偽るのは得意だった。ただ瞳だけは未だに正直で、不意打ちに心が揺れてはつい手を伸ばしてしまう。
 ――ああ本当に。このまま投げ捨ててやろうか。
 靴を抱える手に、力が籠もる。執着がありありと浮かび上がって、遊矢自身戸惑う。いつだってセレナに戻ろうと声をかける遊矢は、その頭に一緒にという前提をくっつけていた。言葉にしないのだから、セレナには通じないし遊矢にとっても無意識に近い願いだ。一緒にいる人間が、自分をほったらかして一人で帰ってしまうなんて考えにくいことという思い込みだってある。
 けれどセレナは、ふとした瞬間に遊矢の油断をはねつける。セレナの立ち位置は、人気のない砂浜でも榊遊矢の前でもない融合次元に固定されたまま。だからこそ彼女は正しい視点を持ちたいと心がけている。無知なまま、全く異なる場所に立つ人間と出会う危うさを、彼女は誰よりも知ったのだ。遊矢の目の前にいるセレナは、どこまでも身勝手で公正な少女だった。

「遊矢」
「ん、何――って近っ!」
「そろそろ私の靴を返してくれ」
「別にとってないだろ!」
「? 預かってくれていたんだろう?」
「…………そうだよ!」

 遊矢が立ち竦んでいる隙に、あっさりと引き返してきたセレナが彼の手から自分の靴を受け取る。波打ち際から離れて、靴を履き直そうと腰を下ろす彼女は何処へ帰るのだろう。赤馬零児が彼女に宛がった部屋か、それとも融合次元か。二人で何ということはない、形容するならそれこそ散歩をしていただけの帰り道に次元を超えられてしまったら、それはとてつもなく遠い距離を挟んでしまうことだと、遊矢は沈んだ気持ちを吐き出すように深く息を吐いた。
 そんな思考に耽っている間に、どうやら随分とぼんやりとしていたらしい。呼びかけにしては強すぎるくらいの声が、何度も遊矢を呼んでいた。

「――遊矢! 聞いているのか?」
「うん、聞いてるよ。何?」
「――ん」
「ん?」

 砂浜に座り込んで靴を履こうとしていたはずのセレナが、遊矢に向かって両手を伸ばしてくる。足元は未だ素足のまま。
 流石に意味がわからないと首を傾げると、彼女はまた不機嫌に頬を膨らませたものの顔は逸らさず、伸ばされた手もそのままで何故わからないのだと言いたげに遊矢を視線で非難し続ける。

「おぶって帰ると言っただろう!」
「ええ!? 言ったけど何で!? 靴履けよ!」
「足が濡れて砂が付いているからダメだ。とても履けない」
「はあ〜!?」
「自分からおぶって帰ってやると言い出したんだろう? ほら!」
「あーー、もう!」

 急かすセレナに、遊矢は背を向けて膝をつく。どうして靴を脱いでしまったんだと文句を言うよりも、何の躊躇いもなく自分の背に身を預ける彼女につい意識が傾く。ちっともロマンチックな雰囲気ではないのに、格好的に手が触れてしまう脚だとか、押し付けられる上体の温かさに心臓が逸る。これはダメだと、遊矢は慌てて――それでも男子の沽券として決してセレナの重さに振らついたりはすまいと決意しながら――立ち上がる。首に回されたセレナの腕は、何の不安も感じていないかの如く手にしている靴の重さに従って垂らされていた。
 足早に元来た道を辿る。砂浜は一本道に等しい。二人が歩いて来た足跡は殆どが波に浚われていて、靴を履いたままだった遊矢が濡れないようにと歩いていたものがいくつか残っているだけだった。

「何を急いでるんだ?」
「何だっていいだろ!」
「別に構わないが――あっ、見ろ遊矢、飛行機だ!」
「えっ、ああ、空港が近いから。さっきも飛んでたろ」

 轟音がまた二人の真上を過ぎていく。先程その姿をしっかりと見届けた遊矢には、たとえ別の機体だとわかっていても既に物珍しさは失せている。さっさと進もうと前を向いたままでいたのを、セレナが咎めるように身体を揺すって引き留めた。驚いた遊矢は彼女を抱え直してから、もう真上からはだいぶ行き過ぎてしまった飛行機を見上げる。あの飛行機に乗っているのは、この街に帰ってきた人だろうか。やって来た人だろうか。きっとそのどちらもが、ひしめき合っているに違いない。

「遊矢は飛行機に乗ったことがあるのか?」
「――乗りたいの?」
「違う! ただ――」
「ただ?」
「遊矢に乗れて、私に乗れないものがあるというのが嫌なだけだ」
「……なんでまた」
「――遊矢がアレに乗って行ってしまったら、私には追い駆ける術がない。だから困る。嫌だ」
「何だよそれ、俺を置いて行っちゃうのはセレナだろ。今日だってそうじゃん」
「ああ。遊矢が追い駆けてきてくれるからな」
「……ほどほどにしてよ」

 どうやらセレナの初めの不機嫌の原因は遊矢の予想通りだった。そのことでじわじわと胸中に広がる喜びは大きく、しかし彼女に言い聞かせなければならないこともあった。ひとりで追い駆けられる範囲は、遊矢には限られているのだから。おいそれと次元を超えてはいけない。けれどこの脚で走り回って探せる場所へなら、きっとこの気難しく気紛れで、わかりやすくもわかりにくい猫のような少女を探して自分はどこまでも駆けていくだろう。
 そんな気がした。



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わかりにくいのをわかるのもいいもんだ
Title by『わたしのしるかぎりでは』



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