バイトから帰るとここ数日集合ポストを覗いていなかったことを思い出した。ロウガは外階段の一段目に乗せていた足を降ろしてポストの方へと向かった。どうせ広告の類しか突っ込まれていないだろうとは思うものの、延々と放置し続けた紙束が詰まるように飛び出しているのは大家への心象が悪い。嫌味のひとつやふたつ動じるほど殊勝ではないが、義務に似ている望むでもない人付き合いはプラスでもマイナスでもなくゼロ地点が理想的だった。印象に残らない、無難な存在として、ただ収まりのいい居場所だけを手に入れたかった。
 案の定ポストには廃品回収の業者、ピザや弁当屋のデリバリー、美容院の新装開店、地域行事のお知らせ等紙の材質も色合いも様々なチラシが突っ込まれていた。それを片手で纏めて掴んで、一枚ずつポストの脇に置かれているゴミ箱に捨てていく。ゴミ箱の中には同種類のチラシが何枚も捨てられていて、全く無駄の集合体であると荒神は目を細める。誰にもまともに読まれずに捨てられていくこの紙に、何の意味と価値があるのだろう。まともに考えても、存在の意味と価値に関していえばロウガ自身、己に対して無しか感じていないのだから終いがない。
 結局手に残ったのは、何故かロウガ宛てではなくソフィア宛てに寄越された、一体何の店なのかは名前からは判別することが出来ない英字の名前の店からのハガキ一枚だった。
 カン、カン、カンと音を立てて階段を上る。このアパートはいつ帰って来ても自分以外他の人間の存在を感じることがない。部屋の明かりや干されている洗濯物から誰かが住んでいることは明らかなのだがそれにしても本当にそんな人間が存在しているのかと疑うことも少なくない。引っ越してきたとき、近隣住民への挨拶を怠ったせいもあるが他人との接触を最小限で抑えたかったロウガにはこの閉鎖的な環境は寧ろ好ましかった。ロウガ以外の住民たちも、このアパートの別室に誰が暮らしているかなんて微塵も興味がないに違いなかった。
 鍵を掛ける習慣がないので、ロウガの帰宅時のモーションは小さく物静かだった。出掛ける際に履くスニーカーとゴミ捨てなど近場を出歩く際に履くクロックスだけで手狭な玄関に、古びたアパートには不釣り合いな白いパンプスが脱ぎ捨てられている。持ち主であるソフィアは、三日前からロウガの部屋に転がり込んでいた。
 ドアの開く音にも無関心に、ソフィアはロウガの住所を使ってロウガの名義で作った図書カードで借りてきた公立図書館の本にじっと目を落としている。この部屋にソフィアの関心を集めるものは一切なく、しかし彼女が無為な時間を埋める為に持ち込むものはこうした本くらいのものだった。借り物は返さなければならない。ルールは守る。だからこの部屋にソフィアの痕跡は残らない。ロウガが、ソフィアの眼前に視界を遮って突きつけたハガキ以外には、今の所何も。

「お前宛てだ」
「…………そう」

 言葉の意味が理解できなかったのか、ソフィアがロウガの手からハガキを引き取るまでたっぷりと間が開いた。受け取ってからも、これは一体何だろうといった顔でハガキを逆さにしてみたり、引っ繰り返したりしていた。まず真っ先に文字を読めばいいだろうにと思ったが、ロウガは何も言わず帰り道で買ってきた食料と飲み物を冷蔵庫に仕舞いに場を離れる。
 無造作に袋から中身を取り出して放り込んでいると、ソフィアがハガキを左手に持って傍までやってくる。視線はじっとハガキに注いだまま、ロウガの手に空いている右手を添えて呟いた。

「――店員に住所を書けと言われたの」
「……そうか」「だからここの住所を書いたわ。覚えてたから」
「――――」
「駄目だったかしら」
「…………いや」

 どこからのハガキなのかはわからないまま。事情というほど複雑でも、深刻な話ではなかった。ソフィア宛てに、ロウガの部屋に向けて郵便物が届く理由を考えれば真っ先と間では言いきれなくとも何番目かには必ず思い浮かぶことだ。
 ソフィアが、笑顔で対応する店員に差し出された用紙にここの住所を書き込んでいく姿を想像する。それはひどく現実味を欠いた、この世界のどこかに必ずソフィア・サハロフという少女は存在しているのだと――ロウガの目の前にいなかったとしても――主張しているかのような、直視しがたい事実だった。
 ロウガはもう、自分の目に映るものしか信じられないし、そもそも認識できない。世界のどこかで、心の奥底で、傍にいなくても、これまでの日々が、なんて字面に希望を抱いて他者と繋がったりはできない。記憶というものが、人間の中からあっさりと零れ落ちると知った日。一人の人間の瞳に映り込む人間の数なんて知れていると認めながら、それでもこの瞳に映る人間だけが自分にとって確かに生きている存在になるということを、自分が弾きだされた世界に背を向けながらロウガは確かに受け入れたのだから。

「――今回は何日くらいいる気だ」
「……迷惑なら、今からでも帰る」
「別に、迷惑ではない」
「歓迎もしない」
「されたかったか?」
「いいえ」

 ソフィアに滞在の期間を尋ねたのは初めてだった。昔から、ソフィアはロウガの言葉など聞かなかったから、やりたいようにやるのだろうと受け流して来たし実際その通りだった。
 それなのに何故。自身に問いかけて、ロウガは直ぐに答えを出す。他人のことで心を乱し続けることも、そんな情も今ではなかなか維持できない。ソフィアが触れたままの手に意識が行って、伝わってくる人並みの温度のせいだとわかる。
 此処にいるのに。そう思ってしまったら、後に続くであろう否定的な考えがロウガにはもう耐えきれないものになるからだ。この部屋の住所を覚えて、自分の名前と一緒に書き綴るソフィアも、こうして自分の傍で触れてくるソフィアも、同じたった一人のソフィアだった。茫洋として思いつくままにふらりと現れては消えていく、何の痕跡も持たないロウガ自身の亡霊を見ているような心地だった彼女が不用意にロウガの間合いに残した爪痕が、ロウガには今にも自分の首を掻きむしろうとしているようにしか思えないのだ。
 ソフィアは此処を帰る場所とも留まる場所とも定めていない。ただ立ち寄る場所としか捉えていない。そう納得している内でなければ、ロウガはもうソフィアを黙って受け止めてやることはできなかった。
 大切だと信じていた人間を失うことが怖い。だから自分はこんな社会の片隅でひっそりと息を潜めて隠れるようにして生きているのだと、その憶病を認めないわけにはいかない。
 ソフィアがたった一言、この部屋の扉を開けて足を踏み入れるために「ただいま」と言ってくれればよかったのに。それこそ情けない要求だとわかっていた。わかっていたけれどロウガはそう嘆いていたし、そう嘆いてしまうくらい、自分はソフィアの身軽さに救われていたのだと気付かされて、ロウガは呆然とソフィアを見下ろす。
 開け放したままの冷蔵庫から、扉を閉めるよう音が鳴る。しかしそれは、ロウガの頭の中で鳴る警鐘にかき消されて、彼の耳に届くことはなかった。



20150407