「――荒神、朝」

 声がして、カーテンをそっと引く音がした。薄くて古い布団にしがみつくほどの眠気もなく、ロウガはのろのろと身体を起こす。もう何年も寝間着にしているスウェットの襟や袖はよれよれで、寝室にしている四畳間の窓の前に立つ少女はその如何にもみすぼらしい成りをしている男を憐れむような瞳で見下ろしている。普段感情などないと言わんばかりに表情を変えないくせに、攻撃的な感情ばかり雄弁で、ロウガはそんな彼女を起き抜けの頭で真っ当から外れていると思う。白いカーテンを透かして差し込む朝日に溶けるように儚い色合いの、それでいて決して溶けはしない人間の質量を持っているソフィア・サハロフという少女を憐れだと思う。消えてしまえたら良かったのに――と。
 傷の舐め合いをするでもなく、ただ瘡蓋になってしまった過去の痕跡を眺め合うためだけに――これはロウガの主観である――ソフィアはロウガが一人で暮らす古びたアパートの一室にふらりと足を運んでは、彼女の気が住むまで居座り続け――それは短ければ数時間であったし、長ければ一ヶ月近くに及ぶこともあった――、それでいて決してロウガの居住のスペースを犯すことなく――財布の中身はだいぶ食い散らされたが――ただそこに存在していた。
 住宅街の奥まった場所にある築40年は過ぎているアパートで、親しい友人と呼べる存在も作らず、大学とバイト先との間を往復するだけの日々を送り、死ぬまでの時間を地道に消化しているだけのロウガですら茫洋としていると言わざるを得ない、ソフィアの気配の希薄。ある雨の日、上る度にカン、カン、カンと音を立てるアパートの外階段に座り込んでいるソフィアを見つけたときから、彼女は既にこうなっていた。この時再会はおよそ5年ぶりという歳月を挟んでいたにも関わらず、ロウガにはソフィアに抱く懐かしさも愛しさも、警戒も敵意もなかった。ただ前触れもなく現れた”それ”にはっと瞳を見開いて、どうやら幽霊じゃないらしいこと、それだけを確認し安堵の息を吐いたことをロウガは今でも鮮明に覚えている。
 朝食は滅多に取らない。今年から大学生になったロウガは真面目に午前中から講義を入れていて、生活の為に夜はバイトに明け暮れている。この部屋はただ眠る為だけに存在している吹けば壊れる細やかな居場所だった。そんな圧倒的に不在にしている時間の方が多い部屋に、ソフィア一人が居着いていたところでこれといって問題はなかった。物を盗られたり、壊されたりという心配も不思議なほど湧かなかった。余計な人間関係やトラブルを運び込んでくる可能性もあったはずなのに、ソフィアに限ってそれはないと信じてもいた。
 そう、自分たちは似た者同士だから。
 あの人に捨てられたその日から、5年という年月を過ぎてもなお置き去りにされたままでいる。あっさりと忘れ去られた自分たちという存在の矮小さに打ちのめされて、閉じた世界の指針を失って、社会という庭に放り出された以上はどうしたって生きて行かなくてはいけなくて。けれど新しい指針を用意することもできないまま無為な日々を過ごすだけの自分たち。
 ロウガがたった一人の友だちを失ってから、同じようにたった一人主を失ったソフィアがどのように生きて来たかなど知る由もない。けれど、荒むのではなく止まってしまったのであろう心と、年月を重ねればそれなりに成長してしまった身体だけが身の置き場を探して――そのくせどこにもそんな場所はないのだという諦念が拭えないまま――流されるままに生きてきたのであろうことは想像に難くない。そうでなければ、ロウガの前になど現れなくていいのだから。
 顔を洗い、着替え終わるとロウガはさっさと家を出る。今日は午前中目一杯講義が入っていて、午後にも一つ講義を受けたら夕方から夜までずっとバイトが入っている。履き潰れたスニーカーを履いて、ドアを開ける。いってきますとは、もう何年も口にしていない言葉だった。昔、ロウガが友だちと一緒に暮らしていた頃は、礼儀の一種として義務感で出掛ける度に発していた言葉。あの頃は、曲がりなりにもその友だちのいる場所が自分の居場所だと思っていた。けれどその居場所はもうない。
 だからロウガは無言で家を出る。何処にも行けないし、誰の元へも帰れない。例えば今日を最後に二度とこのドアを開ける日がこなくなったって、別に構わないのだ。
 ロウガの無気力な背中を肯定するように、彼の寝室である四畳間から玄関と短い廊下を通って繋がっている居間に当たる六畳間へ出てきたソフィアがじっと視線を送っていたけれど、当然彼は気付かずに行ってしまった。彼女がこの部屋にいてロウガが出掛けていくときは、いつも投げかけられている視線。それは見送りという温かいものではなく、ただこれが最後かもしれないという覚悟の元、少しくらいは覚えていられるようにという観察の類の視線であった。
 もう何度も見送った背中が、不意にもう決して見つめることのできない背中に重なって、そして記憶の中のその背中よりもロウガの背中の方が広いことに、ソフィアは一瞬虚を突かれたように思考も、感情も、身体も何もかもが静止する。その静止という硬直は数秒で解けた。じっと目を閉じて、いつも突然に連れ戻されてしまう記憶からゆっくりと現在地を確認する。
 ――私はソフィア・サハロフ。ここは荒神ロウガの部屋で、私の部屋ではない。私はここにいるけれど、荒神は大学へ行って夜まで帰ってこない。私の居場所はここではないけれど、荒神はここにいなくて、私はここにいるはずがなくて、でも他にどこへ行けばいいのだろう?
 ぐるぐると思考を繰り返し、答えなど出ないまま、しかしこんな考えに身をやつすのは間違いなく現在の自分だと確認してほっと息を吐く。今ここにいるのは、仕えるべき天上の人を失ってしまったあの日から変わることのない自分だった。
 そうして何やらどっと疲れてしまったと肩の力を抜いて、ソフィアはロウガが敷きっぱなしのまま出掛けてしまった布団に潜り込んで眠るのである。
 布団はいつも、まだ僅かに温かいままだった。


20150312