※ノボル帰国設定


 虎堂ノボルは走っている。それはもう全力で、相棒学園の校舎内を必死の形相で走っている。どうか教員に遭遇しませんように。祈りながら、玄関まで辿り着いてしまえばこっちのものだとノボルは望みを託して走る。ちらりと背後を窺えば、追い駆けてくる影はもう見えない。当然だ。相手は小学三年生の女児、こちらは小学六年生の男児だ。短距離走でだって長距離走でだってあちらによほどの才能がない限り負けることはない。それでもノボルは速度を落とすことはしなかった。相手は未門花子、どんな手段を用いて自分に奇襲を仕掛けて来るかわからない以上気を緩めることはしない。ノボルは自分を大方の事態に於いて年相応だと睨んでいる。出来ないことと出来ること、出来るようになるかもしれないこと、なりたいもの、なれるもの、やりたいこと、様々なことに様々な可能性がありその全てが己の内にあることを知った。過去の自分を掛け金にして天の采配が未来を決めるのではないことを理解した。それでも、否だからこそノボルは今花子から逃げ切ることこそが年相応でまた自分の意思に則った最も平安な選択肢であると思っている。
 玄関が見えてきた。鞄は肩に掛かっている。靴を履いて、下駄箱に預けている携帯を回収して校舎を飛び出せばもう花子も追い駆けてはこられないだろう。六年生と三年生の下駄箱は離れているし、そのタイムラグでノボルは充分安全圏内に逃げ出せる。そう踏んで、辿り着いた下駄箱を前に足を止めたとき、その声は待ち構えていたかのように彼の耳に届いた。

「ノーボールー! とりっこあとりいとお!」

 ぎぎぎ。立てつけの悪い扉を開ける際の効果音が似合うぎこちなさで、ノボルは背後を振り返る。――誰もいない。そしてもう一度前を向く。

「……マジかよ」

 下駄箱の影に隠れたのだろう。そこにはしたり顔で、ノボルに向かって手を突きだしている未門花子がいた。
 ――とりっこあとりいとお!
 花子の下手くそな日本語が脳内で再生される。これでは、大半の人間が意味を理解できないだろう。

「――trick or treat. な」

 今や帰国子女の称号を手に入れているノボルの流暢な発音に、花子は一度大きく瞳を見開き、「すっげー!」と彼を湛えてから、「英語話せるからって自慢すんな!」と怒り出した。
 花子の意識が一先ずは「トリック・オア・トリート」から離れたので、ノボルは大人しく腹を括って――花子を撒ける機会があれば逃さないようにしようとは思いながら――自分の下駄箱に手を伸ばした。花子は既に外履きの靴を履いていて、どうやら最初から待ち伏せする作戦でいたことを知る。小学三年生に読み負けしたとは不覚だ。眉を顰めるノボルは、どうせまた花子の兄である牙王とその友人一派が加担したに違いないと気を持ち直す。それならば仕方がない。何せ多勢に無勢だ。もっとも、それならばお前らが花子と遊んでやれよと思わないでもないのだけれど。一日仕舞っておいたスマホの電源を入れる。ディスプレイに表示されるカレンダーが、ノボルに今日くらい仕方ないじゃないかと追い打ちをかけてくる。
 ――10月31日。ハロウィンだ。

「とっこあとりーと、とりっくあ? とりっく――」

 花子が、先程のノボルの見本に倣って間違って唱えていた呪文を練習している声が聞こえる。耳に馴染まない言葉に、悪戦苦闘している姿を、年長者は可愛らしいと微笑ましく見つめるのだろう。ノボルだって、その気持ちはわかる。けれどそんな優しい気持ちは、花子がノボルをその瞳にロックオンした突撃してきた瞬間に砕け散ったのだ。
 トリック・オア・トリート。どうか、花子がその呪文を完成させませんように。ノボルは今、お菓子を持っていなかった。


 ハロウィンなんて、日本ではさほどメジャーではないだろうとノボルは思っている。毎年、身近ではないどこかではハロウィンを楽しんでいる映像がニュースなどで取り上げられていて、それは間違いなく日本のどこかではあるのだけれど、兎に角ノボルの身近ではないのだ。
 カボチャ、お菓子、仮装、お化けとモンスターその近辺。関連ワードはあまり思いつかない。オレンジ、紫、黒。思い浮かぶカラーは単純にカボチャのせいなのだろう。そういえば、商店街の店先で顔の形にくり抜かれたカボチャを見たかもしれない。今年だったか、去年だったか。たぶん、毎年どこかで見かけてはいる。可愛いか可愛くないかで言われたら、不気味寄りの可愛くないだとノボルは思うのだけれど。
 ぼんやりと歩くノボルの後ろをついてくる花子はきっと、可愛いと思うのだろう。だからノボルは黙っている。彼の言動がどうにも花子には斜に構えているように響くらしい。留学前に牙王とABCカップで戦った辺りから大分マシになったと自分では思っているのだが、主観とは時に最も当てにならない物に成り下がるのだから仕方がない。留学前と言えば空港まで見送りに来た花子は随分と素直な態度――主にメールの内容ではあるが――だったのに最近では牙王がバディレアを引き当てた頃と変わらなくなっている。変わったのは、以前はノボルの牙王や花子を馬鹿にしたような言動に怒っていた彼女が、今ではノボルが何も言わなくてもあちらの方から突っかかってくることだろうか。実際には怒っていなくても、花子の機嫌はまさに怒涛という言葉が似合う。不意に喰らえば倒される。だからノボルは、近頃では花子の瞳に自分の姿が映っていることに気付くとそそくさと逃げ出してしまう。それが、素直な花子には追い駆けるという選択肢を与えてしまっているということには、どうやらノボルはまだ気付いていなかった。

「ねえねえノボル、さっきのもう一回言って!」
「あー? さっきの?」
「とっこあとりーと!」
「やだよ面倒くさい」
「ケチ!」
「はいはい、言ってろ」

 釣れない態度のノボルの背中をバシバシ叩きながら、花子は歩幅の違う彼に必死に着いてくる。ハロウィンの呪文は、まだ彼女の幼い舌に馴染まない。ノボルの唇から紡がれたそれは、花子には本当に魔法の言葉のように思えたのに。ノボルはいつだって、花子にちっとも優しくない。
 ハロウィンのことなんて、花子はノボル以上に何も知らない。きっかけは、昼休みに退屈だったから牙王に会いに屋上まで出掛けたときだ。そこでは牙王とドラムが「これはおれの分だ!」「オイラのだ!」と自宅の食卓でも頻繁に耳にする言葉をぶつけ合っていて、ただ取り合っている物がいつものたこ焼きではなくて、くぐるが持ってきたクッキーの最後のひとつだった。
 不思議がりながら近付いてきた花子に気付いたくぐるは、小さな彼女に渡す分がないことを申し訳なく思ったようだった。けれど無くなってしまったものは仕方がないと、彼女は花子の不思議を解決する方に心を傾けてくれた。そこで初めて今日がハロウィンだと教えて貰ったのだ。
 ――お菓子をくれないといたずらするぞ、って唱えるのよ。
 そうだ、くぐるも呪文を唱えていた。けれどそれは、本来の英語の文句を訳したもので、花子にはただの解説の一部として流れてしまっていた。
 ――ハロウィンだからお菓子を持ってきたの。でも、そうね、爆ちゃんと牙王くんとドラムで分けたら、どれだけ用意しても直ぐに終わっちゃうわよね。
 要するに、牙王やくぐるたちのハロウィンは昼休みに彼女が用意したクッキーをたいらげてもう終わったのだ。花子のハロウィンは、始まったばかりだったけれど。

「ねえノボル、ねえ、」
「………」
「ねえったらー!」
「何だよ!」
「花子、お菓子食べたい! ハロウィンやりたい! 牙王兄ちゃんたちばっかりずるい! ねえノボルはもうハロウィンやった!? やっちゃったから花子に構ってくれないの!?」
「えっ、いや、えっ、お前もしかして泣きそう?」
「泣かないもん!」

 穏やかにやり過ごしたいのならば黙っているのが得策と思っていたけれど、どうしてか突然捲し立てるように喋り出した花子の声は今にも泣きだしそうだった。ノボルに指摘されると悔しいのか、泣かないとそっぽを向くけれど、その手はしっかりと置いて行かれないように彼の上着の裾を掴んでいて、仕方がないから足を止めてじっと自分よりもずっと小さな彼女の頭を見下ろす。
 ハロウィンやりたい。それが日本語として正しいかどうかは知らないが、それならどうしてノボルを追いかけ回したのか。行き当たりばったりの方がお遊びは楽しいのかもしれないが、認知度を考えれば周囲への根回しもなしにハロウィンをやる(かつ楽しむ)のは難しいだろう。繰り返すが、ノボルは今お菓子を持っていないのだ。瑣末な希望に縋ってポケットや鞄を覗いても現実は変わらない。

「――うっ」

 とうとう花子が泣きだしそうだ。これはやばいとノボルは焦る。泣かしたのは自分ではない。では誰が泣かしたのだ。そう考えて、周囲を見渡す。往来の人々は明らかに無関心と無関係で、消去法で原因を特定するならば対象がそもそもノボルしかいなかった。理不尽なことに。

「――俺、今菓子とか持ってねえし」
「……うん、」
「帰ったらあると思うけど」
「――帰ったらくれる?」
「……来んの?」
「行く!」

 お菓子目当てに着いてくるとは、こいついつか誘拐されるんじゃないか。ノボルは一瞬本気で心配した。心配して、まあ、相手が自分だから油断しているのだろうと納得することにした。
 ――油断。
 浮かんだ言葉の方が、よっぽど油断だ。けれどノボルは気付かずに、花子の涙が引っ込んだことに安堵して息を吐く。そして一度言ってしまった言葉はもう取り消せないこともわかっていたので――撤回すればそれこそ花子は火が付いたように泣き叫ぶだろう――、腹を括って自宅への道を再び歩き出した。着いて来る花子が、あまりにも自然にノボルの手を握って来たので思わずぎょっと立ち止まって彼女を見下ろしたけれど、どうやらノボルの驚くという反応の意味が理解できなかったようで、ノボルは空いている手で「あーもう!」と頭を掻いてから今度こそ帰路に就いた。

「trick or treat」
「なに?」
「トリック・オア・トリート」
「呪文!」
「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞって意味」
「それは花子知ってる!」
「あっそう」

 ノボルの唱える呪文に、花子は嬉しそうに笑っている。こんなことの、何が嬉しいのかノボルにはわからないけれど悪い気はしなかった。今度こそ全部覚えたと、花子はノボルと繋いだ手をぶんぶん振り回しながら「トリック・オア・トリート」と繰り返している。

「――なあ」
「んー?」
「トリック・オア・トリート」
「知ってるよ?」
「俺がお前にトリック・オア・トリートって言ったら、お前、お菓子持ってんの?」
「………ない」

 自分がお菓子を用意する側に回るという事態など微塵も想定していなかった花子の顔に緊張が走る。ノボルにお菓子を寄越せと散々迫って振り回してきたお騒がせ少女が一瞬で小さくなった。この質問自体が、ノボルから花子への悪戯とも言えたのだけれど、彼女の反応が面白かったからつい切り上げる場所を見失ってしまった。

「じゃあ悪戯だなー」

 楽しげに――花子には怪しげに見えた――にやにやと笑みを浮かべるノボルに、花子はぷくっとほっぺを膨らませる。ノボルは時々嫌な奴だ。優しいと思ったのに、優しくなかった。
 それでも繋いだ手を、ノボルも花子も自分から放そうとはしなかった。それはたぶん、子どもの空っぽのお腹は目先のお菓子には逆らえないからということに本人たちの中ではなっている。
 けれどまあ、実際は違うのだろうということは、珍しく空気を読んでノボルのコアデッキケースから本日一度も姿を現していないエル・キホーテとその相棒であるロシナンテだけが気付いていた。
 たった今通り過ぎた店先に、ハロウィンのシンボルとも呼べるジャック・オー・ランタンが置いてあったことにもノボルたちは気付かない。
 ――トリック・オア・トリート!
 お菓子をくれても悪戯されても、要するに傍に誰がいるかが問題なのだ。
 魔法の呪文は、今の手を繋いで歩いている二人にはもういらない。



―――――――――――

ときめく呪文
Title by『魔女』

20141025



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -