昨日まで暮らしていた部屋の自室にある窓からは、道路を隔てた住宅街の様々な屋根が見えた。空の色に合わせて色味を変える家々を眺めならが、今は自分の住んでいる世界はここなのだとキリは強く意識していた。今は、それは未来の自分に向けてではなく過去の自分に向けての言葉だった。転校ばかりで、一つの地に長居できた例がない。そんな根無し草のような暮らしを楽しんで、たとえ一時の仲であっても――だからこそかもしれない――集団の輪に溶け込んで笑うような快活さは生憎キリの生来の気性には備わっていなかった。寧ろ、生まれたときに持っていた快活さを、転校するごとに消費して失っているような気すらしていた。
 ――楽しかったな。
 今日から暮らす部屋の窓からは、空しか見えない。引っ越して来たばかりの高層マンションは余所余所しく、閉まりきった扉はキリを拒絶しているかのように冷たかった。急すぎる転居にも、心は抵抗と動揺を覚えながら部屋から運び出す荷物は驚くほど少なくてキリはそれが悲しかった。楽しかったなと思い返せる日々と、それを過去形にしてしまう自分。金曜日に纏めて、土曜日の朝に運び込まれた荷物は、夜になってほとんどが片付け終わっていた。気持ちは父親に転校する旨を一方的に知らされてからずっと沈んだままだけれど、だからこそ手を動かしてなければ気がおかしくなりそうで、これから暮らす新しい部屋を見栄え良くしようなんてときめきとは一切無縁のまま衣類はクローゼットへ、本は本棚へ、教科書は月曜日に転入先の学校で受け取ることになっているので、異様に軽い通学鞄を机の上に置く。手元にあるものを、それぞれ適当な場所に座り、キリは真っ先に整えて置いたベッドで仮眠をとった。目が覚めたら、この引っ越しが夢だったらいいのにと願いながら。


 小さい頃から不思議だった。どうして僕は転校ばかりしなければいけないんだろうと、歯痒かった。父親の仕事の都合で。それだけで、誰もがじゃあ仕方ないねとキリに手を振るのだ。小学校に入る前は、引っ越すということがどういうことかわからなかった。父親も、幼い息子に「新しい街で新しい友だちが作れるぞ」なんて、如何にも楽しいことをしているんだと誤魔化しの言葉を使うことが出来た。小学校に入ってからは、引っ越しを告げられると何度か泣くことがあった。
 ――友だちと離れたくない!
 心の底から叫んでいた。父親が自分に対して申し訳ない顔をしたのはその頃が最後だったように思う。駄々をこねても、日々を生きて、キリを育てていくためにも仕事はしなければならないという大義名分が父親にはあった。梃子でもここを離れないなんて決意も、抱えられて車に放り込まれれば一瞬で砕けた。
 どうして父は自分を連れ回すのか。キリが引っ越しの度に心に負担を強いられていることを気付きもしないくせに、家族は一緒に暮らすものだと思っている。同じ屋根の下に暮らしていても、お互いの気持ちなど微塵も汲み取れないのに、それでも。
 キリは友だちと一緒にいたかった。父は家族だから一緒にいるべきだと思っている。キリは家族なら一緒にいなくてもいいと思っていた。それよりも、空白を挟めば薄れてしまう、消えてしまう記憶を毎日更新する為に、キリは友だちとこそ顔を合わせなければならなかった。
 友だちは、キリにとって心の拠り所になる存在だった。いつだって余所者で、新参者で、まるで彼方者のような自分。そんな自分がココにいると証明して貰うには友だちが必要だった。どうしてか、友だちはいつもキリが去ると直ぐに彼のことを忘れてしまうのだけれど。
 ――牙王くんも僕を忘れちゃうんだ。
 だって最後のバディファイトで、キリは風音に負けてしまった。牙王のライバルである風音と同等かそれ以上であることを証明できれば、牙王はきっとキリのことを覚えていてくれたはずなのに。
 ――僕が弱いから。
 強くなきゃ、誰の記憶にも残らない。勝たなきゃ、喜びも楽しさも友だちも手に入らない。負けるのは、ちっとも楽しくなかった。
 ――いやだな。
 キリの微睡みは、ここで覚めた。


 身体を起こすと、窓の外は赤味がかっていて陽当たりがなくなった部屋は少し肌寒くなっていた。今日の夕飯はどうするのだろう。気になって、リビングを覗くとそこにはまだ沢山のダンボールが中身を仕舞われないまま散らかっていて、落ち着いて食事をするスペースはなかった。キッチンも、とてもお湯を沸かすくらいしかできそうにない。
 姿が見えないので、父親の寝室を覗き込む。キリも自分の部屋から片付け始めたので文句はいえないが、一体何をしているんだろうと不満に眉を下げながら――キリは父親に対してもう眉を吊り上げるほどの激情を抱くことが出来なかった――、そうっと、丁度僅かに開いていた扉の隙間を広げて視線だけを滑り込ませた。

「父さ――」

 呼びかけは、しかし最後まで言葉にならず、また本人の耳に入ることもなかった。父親は、マットレスがむき出しのベッドの上に腰掛けてその膝に使いこんだノートパソコンを広げている。入り口のキリには背を向けて、頭を掻き、それから素早く手を動かしキーをタッチしている。その姿に、キリは父親の息子に対する手酷い拒絶を見た。
 ここは家じゃない、仕事場なのだと頭から冷や水を浴びせられたような気がした。父親に見せられた地図、月曜日からキリが通うことになっている学校は、相棒学園からそれほど離れていなかった。それでも転校を強いられたのは、父の新たな職場への通勤の便が悪いからだ。
 ――どうして?
 父親はいいだろう。新しい彼の居場所へ呼ばれて行くのだから。キリがもう少し感情的でなかったら、転勤や職場といったものが和気藹々とした馴れ合いではないことをきちんと加味してから考え直したかもしれない。けれど今のキリは、父親から友だちを取り上げられ、通い慣れはじめた学校を取り上げられ、住み慣れた部屋を取り上げられ、父親が仕事をしている片手間に面倒を見ている子どものように扱われているとしか思えなかった。家族なんて、家なんて、それすら基盤に存在しないなら今のキリはひとりぼっちだ。キリがここにいることを、世界中の誰も知っていてくれない。それは、キリが最も恐れていることだった。
 ――帰りたい。
 何処へ? 帰る場所は、待ってくれている人は、風音とのファイトで自信を持って繰り出したコンボをあっさりと防がれて敗北した時点でいない。きっと明日から、或いは今日から、牙王は、他のみんなもキリのことを忘れはじめるのだ。
 ――強くならなきゃ。
 そうすれば、今までキリのことをあっさり忘れ去って来た人たちの中で自分が蘇るわけではないとしても。ここは相棒学園から遠くない。強くなれば――牙王に認めて貰えるくらい強くなれば、会いに行ってバディファイトをして貰えばもしかしたらまた――。ああでも、牙王に誰だと言われてしまったらとても耐えられないかもしれない。強ければ、違うのに。こんな弱気な不安に負けたりはしないのに。
 ――友だち、作ろう。
 できるとは、思えないけれど。あの日、複数の年上の人たちに絡まれて気弱に俯いていた自分を真っ直ぐな瞳で迷わず助け出してくれるような人とは、もう出会えないだろうけれど。
 キリの世界はもう此処なのだから。牙王のいない、窓から住宅街の屋根は見えない、片付けられることのないダンボールで埋め尽くされた、陽が沈むといっきに冷え込んでしまう部屋と、知り合いなんてひとりもいない学校。それが、これからキリが生きていく世界だった。

「……寒い」

 絞り出した声は、静かな部屋にはっきりと響いたけれど、父親は気付かず、振り返らない。
 明かりのない部屋は、とても寒かった。



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さえずるそばから枯れていく
Title by『春告げチーリン』

20141016



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