「またか」

 叱るというよりは、不機嫌な声だった。キリが反射的に肩を竦めてしまう、高圧的な響きを持っていた。けれどそんな声とは対象的に、意識しているのだろうできるだけ傷付けないようにとキリの唇に当てられた親指はどこか優しかった。
 キリはそうされて初めて自分の唇が渇ききっていることと、その唇をキツク噛み過ぎていたことを知る。うっすらと開いた場所から舌を差し出して下唇をなぞると仄かに鉄の味が広がる。顔を顰めることもなく、ただ「ああ、また物を食べるのが痛くなるな」くらいの気持ちでいる。それが目の前の荒神には透けてしまうのか、「そういう問題ではない」と、まだ引っ込んでいなかった舌を思いきり掴まれて、引っ張られる。突然のことに咽て、目を瞑るキリの肩を突き飛ばすようにして荒神はそばを離れて行った。
 いつ頃からかはもう忘れてしまった、心理的なストレスに耐える為の仕草。それがキリの場合唇を噛むという行為に集約されていて、無意識に働く防衛本能は、キリに加減というものを身に付ける隙を与えなかった。両腕で自分の身体を抱き締めて、それだけでは叫び出したくなる衝動に――恐怖だろうか、絶望だろうか、見つけられない希望だろうか、その衝動の名前をキリは知らないままだけれど――必死に抗って、キリの唇は鮮血を浮かべる。
 初めの内は、辛ければまず俯けば良かった。長い前髪の、更に遮った視界のあけっぴろげなこと。それは自分の矮小さを自覚しているキリには暴力的に映った。誰かに無視されないように、けれど誰かに傷付けられないように。俯いて、それでも自分を見つけ出す誰かは決まってキリに優しくはなかったから。望まない言葉と理不尽を押し付けられて、それでも耐えるしかないのだと幼い彼は無条件に信じていた。どうして、どうすれば、どうしたって結局は。そんな言葉を唱えている内に、大抵の痛みは痕跡を残しても時間だけは確実に経過してくれた。抗えない自分は、せめて穏便だけを望むべきなのだと思っていた。
 ――でも。
 欲しがることは、悪いことではなかった。友だちも、強さも、安定も、勝利も。キリの周囲でそれを手にしている誰もが、自分よりもずっと特別だから、そんなことを理由にキリが欲しかったものを手にしているわけではないことを知っている。だからやっぱり、欲しいものが手に入らないのは、自分ばかりが奪われていくのは、それは自分が弱いからなのだと思っていた。強くさえなれば、全て手に入ると思っていた。今でも、そう思っている。

「――食え」

 先程離れて行った荒神がどこから調達して来たのか眼前に差し出してきたマシュマロを、キリはその手から直接食べる。受け取るべきか、どうして差し出されたのか、そんなことを考えてまごつくよりは、彼の言葉通りに動いた方が無難なのだと学習したキリの行動に荒神も疑問はないようだった。もぐもぐと静かに咀嚼するキリの頬の動きを観察しながら、タイミングを見計らって荒神は次のマシュマロを差し出してくる。白くて、柔らかい。食べる、噛む、差し出される、口を開く。そんなことを繰り返して、お腹がいっぱいに
なったと、キリが口に手を当ててこれ以上は入らないと訴えるまで荒神は黙々とキリの口元にマシュマロを差し出し、キリは無言でそれを食べ続けた。
 ――マシュマロ、サンドイッチ、プチトマト、ドーナツ、飴、レタス、りんご、ウエハース、あとは……ええと、何だったっけ。
 指を折り、今まで荒神に食べさせられてきたものを振り返る。一度の食べさせるものは一種類と決まっているらしく、キリはひたすら食べる。どちらかといえば細い食の、限界まで胃袋に詰め込む。物によってはひどく喉が渇くのだけれど、そんな訴えを挟み込む暇もなかった。
 食事というより、餌のようだとキリは思う。荒神が何の義務感を覚えてかは知らないが、キリにこうしてものを食べさせるのはやっぱり自分が弱いからなのではないかと後ろ向きな思考をする。いちいち面倒を見てやらなければ食事も満足にできないと思われているのは不本意だったが、結構ですと断ることが出来ない自分の意思の薄弱さが問題なのだ。キリはいつも、こうして荒神とぶつからない方向を選んでいる。どうせ勝てないから。
 荒神の言葉には迷いがないと、キリは感じる。相手がどう受け取るかなんて、悩む必要もないことだと腹から出てくる声は力強く、そこに揺るぎない荒神ロウガ本人の意思が見て取れる。キリとは違う、威風堂々とした姿。憧れたあの子と、どこか似ていた。
 また反射的に唇を噛もうとする。おかしなことだけれど、キリは直ぐに反射的に肩を竦め、俯き、唇を噛んで、物を食べる。憶病で、弱くて、今いる場所から動けないことが嫌で仕方ないのに、反射的に動く自分を、キリはこれは誰の仕業なんだろうと首を傾げたくなる。

「――またか」

 荒神の声は、今度はため息混じりだったせいかキリを委縮させなかった。けれど、「またか」と唇を噛もうとしたキリに呆れるよりも先に口腔に突っ込まれた荒神の人差し指から薬指にかけての三本の指は、キリをひどく驚かせていた。これでは唇を噛むことが出来ないけれど、突っ立っていること以外もまたできそうになかった。上目遣いに、キリの困惑はわかりやすく浮かんでいたことだろう。
 同じように、俯くキリに募らせていた荒神の苛立ちと理解、期待と諦観も今までわかりやすくキリの目の前に突きつけられてきたのだ。正しくは、キリの口の中へ。物を食べるのは、わかりやすく活力となるはずだったから。そして、無心に咀嚼を繰り返している間は、キリが無暗に自分を傷付けることはないと思ったから。言葉にしない願いが、他人に届きにくいものであることを荒神は知っていたけれど、そもそも願うことは個人の勝手に収まっているはずで、自由だ。けれど言葉にして相手に差し出した途端、拒まれるか、受け入れて貰えるか、或いは重荷になるか、その判断はいつだって他者に委ねなければならない。それが荒神には億劫で、強さへの執着に――言い換えて、とある少年への妄執に――一抹の敬意を払って連れてきたキリにだって託せはしないものだった。肝心の場所へ踏み込めないなら、手を掴むべきではなかったかもしれないとして、それはいずれ後悔という名前で荒神に追いつくものだ。今じゃない。

「あ、あらはみせんふぁ――」
「……ははっ、」
「う、うぐぅ……」
「噛め」
「あっ、う……?」
「貴様の歯が刺さったくらい、どうということはない」

 荒神の指を噛まないよう、舐めないよう、キリ唾の嚥下すらままならず、親指で顎を掴まれている所為で後ろに退いて彼の指から逃げることも出来ない。
 噛めと言われても、キリの視線が戸惑いに泳ぐのを荒神は許さない。真っ直ぐ見下ろしてくる瞳に、キリは背筋を凍らせて、泣きたいとすら思う。口の端を伝って行く唾液を、荒神が自由の利く方の手で拭ったとき。キリはせり上がってくる吐き気にとうとう堪えきれずに荒神の指に思いきり歯を立てていた。普段、唇を裂いてしまうのと同様の力で、苦しくて、辛くて。けれど誰も傷付かないのだから、放っておいて欲しい。同じくらい、自分を害さない誰かに見つけて欲しくて仕方がなかったが故の痛み。今それを受けたのは、キリではなく荒神だ。怒るだろうか、彼は。そう疑った瞬間、キリの顔は青褪める。

「ぅあ、あああああああああ!!」
「ふむ、」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
「大した傷じゃない」

 慟哭がこだまする。怖がらなくていいのだと適切にわからせる術を、荒神は生憎知らなかった。引き抜いた指にはキリの唾液と、彼の歯型。そこから滲む荒神の血。その全てを一緒くたに舐めとって、荒神はキリの頭を撫でた。勿論、唾液と血液で汚れていない方の手で。

「噛むくらいなら、俯くな」

 俯くくらいなら、前を見て、拳を握れ。そして恐れず踏み出せばいい。それだけのことだと、荒神は思う。それほどのことだと、キリは思う。
 同じ景色など、人は他人と決して見ることはできない。荒神がキリの中に何を見たとして、キリは彼の為には強くなれない。キリの欲しいものを、荒神は知らない。ただ、腹を満たす食べ物ではないのだろう。たった一人、「友達」という言葉を歪めて焦がれるものを持つ歯痒さだけは、同種ではないけれどその心細さだけはわかるような気がして。
 それでも、荒神はキリよりかは強かった。その事実が、いつだってキリを荒神の前で俯かせた。わかりやすい言葉で話してくれて嬉しかった。荒神によってキリの前に差し出された光は――キリの中で屈折して濁ってしまったとしても――縋るに値するものだった。
 ――それなのに、強くなれない僕が、弱い僕が悪い。こんな僕は、嫌い。
 いつだってキリが辿り着くこの答えに、荒神は別の解も訂正も入れられない。だから――。

「ごめんなさい」

 絞り出したキリの謝罪の真意など、荒神にはこの先ずっとわからない。
 キリはまた、そっと俯いて唇を噛んだ。荒神の眉が不快に顰められて、それから二人はどんな言葉も交わさなかった。
 唇が、指が、その傷口が。外気に晒されて少し傷んだ。




―――――――――――

すべからく憂鬱である
Title by『√A』


20141013



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