ベッドの上で仰向けになりながら、龍炎寺タスクは考える。
 魔法を使わなくちゃ、と。
 その魔法は、自分の現状とそれが導くであろう未来の可能性を唱えているだけで、きっと世界中の殆どの人間には効果がない。けれどタスクにはとても効果のある魔法だった。それから、隣の部屋で、タスクの物とピッタリ寄り添うように壁際に設置された、全く同じベッドに、全く同じように仰向けになっているであろう荒神ロウガにも。
 林檎を切ろうと思う。身体に力が入らないけれど、それは多分度を過ぎた空腹のせいだったから。だからこそ林檎を切って、お腹に無理やりにでも放り込まなければならない。
 ――でないと、牙王くんに叱られてしまうよ。
 龍炎寺タスクの魔法はこうして完成し、ゆっくりと、けれど確かな意思で以て身体を起こし、ベッドから降りて、ふらふらと台所へと向かった。


 荒神ロウガと一緒に暮らそうと思う。住み慣れた公務員宿舎を出て、一つの部屋で。タスクがその決意を周囲に打ち明けるとき、決まって彼の過去の罪を引きずって、見張ろうと思っているわけではないのだと言い訳じみた説明をしなければならなかった。それはタスクにとって余計な言葉だった。ただ、一緒に暮らすと決めたことだけを知っていて欲しかった。そんなタスクの願いを叶えてくれたのは、今の所牙王だけだった。
 ――いいと思う。すっげえ、いいと思う!
 両の拳を握りしめて、牙王は何度もそうするのがいいだろうと瞳を輝かせていた。あれはどんな類の期待が込められていたのだろう。たぶん、幸せとか、平穏とか、そういう安らかな響きのものが混ざっていたように思う。家族でもない他人を、家族の間合いに受け入れることに何の予備知識も持たないタスクの未熟な決断を祝福してくれたのが牙王だった。そうして、受け入れたのがロウガだ。どうして受け入れてくれたのだろう。誘いを持ちかけたのはタスクの方なのに、同じマンションの同じ部屋に暮らしながら、それぞれの個室に引っ込んで時間を持て余すと、タスクはついそんなことを考えてしまう。家事もまともに分担せず、家賃もほぼタスクが払い、日々の挨拶すら取りこぼすことがままある日常に、果たして同居の意味はあるだろうか。ただ、相手が生きていることが確認しやすいという点は便利だと、タスクはつくづく思ってはいるけれど。道具ばかりいっぱしに揃えて、滅多に料理をしない台所は、家主であるタスクにすらどこかよそよそしく映った。


 タスクは食べるということに興味がない。大人になりたい、その願いはただ前に進むということで、それにはエネルギーが必要だった。だからそのエネルギーを生むための必要過程として最低限の食事は心がけてはいたけれど、それはスーパーやコンビニでの出来合いの弁当だったり、忙しくても片手で済ませられる携帯食だったり、美味しいと感じるかどうかを問題にして食事を摂ったことはここ数年なかった。満腹になる必要もない。動ければ、それでいい。味に頓着はしないけれど、誰に監視されるでもない食生活はたぶん、タスク好みの偏った味覚で構成されていたように思う。成長に悪影響がでないように、けれど若いから多少の無茶もできるだろう。そんな矛盾した、都合のいい考え方ばかりしていた。
 反対に――或いは似た思考として――、ロウガは腹に溜まればそれでいいと思っていた。だからやはり、根本的に食べるといことに興味はない。ただ飢えるのは良くない。しかし満たされるのもよくない。最大を、平均としてはいけない。それがロウガの戒めに似た基本的な考え方で、彼の人生の大半を支配してきた臥炎キョウヤという他人によって与えられてきた食事を、明日も当たり前のように施されるものと思わないための意思だった。だから、食べられるときに食べる。腹いっぱい食べる。食べられないときは仕方ないと諦める。美味いかどうかは拘らない。幸い、安定した食事を摂っていた時期に成長期を迎えたロウガの身長はすくすくと育っていた。これ以上は、望まない。
 だから、二人揃って食卓についたとしても別々に買ってきた惣菜を並べて食べるだけということもざらにあったし、それを乱れているとも、おかしいとも思わなかった。
 そんなタスクとロウガの食生活を、牙王はこっぴどく叱った。生命維持のためだけに食べるのではないのだと、年上の二人を並んで正座させて、太陽番長の学ランまで装着して、感情ばかりで言葉足らずになりがちな牙王が、懇々と言葉を選びながら、自分よりずっと賢いはずの彼等がわかってくれるまで、ずっと。牙王の目は据わっていて、とても適当に「わかったよ」と誤魔化すことはできなかった。長時間の正座と、終いにはこの部屋が先輩たちの棺桶になるなんてとんでもないと涙目になりながら怒鳴る牙王に、「きちんと生きようとしない先輩たちは嫌いです」と言われ、タスクとロウガは慌てて頭を下げて自分たちの食生活を改めることを約束した。
 あのとき。牙王の発した「嫌い」という言葉に二人して反射的に頭を下げていたとき。タスクは、一体何が怖かったのだろうと振り返る。牙王に嫌われること、それは勿論怖かった。けれどその嫌いになるという言葉を、果たして自分は真に受けていただろうか。そうでなければならないとは思うけれど、咄嗟の判断として。牙王が誰かを嫌いになる姿を、それも一度は親しみを覚えた相手を嫌う姿と言うのが想像できないタスクにはしっくりとこなかった。
 そしてタスクは、自分は牙王の「きちんとしていない」という言い分に怯えたのかもしれないと気が付いてしまう。きちんとしていないということは、タスクにとって許されないことだったから。正義と悪、バディポリスとクリミナルファイター、大人と子供。世界はきちんと区切られている。かつてタスクはその明確な線引きを好んだ。染みついているものだなと肩を竦める。クリミナルファイターであることを理由に軽蔑し尽くしたロウガを招き入れても、拭い去ることはできていないようだった。
 それではロウガは、どうして頭を下げたのだろう。自分と同じように、牙王の嫌悪を恐れて、けれどそれだけではないことを直感として悟ってしまう、確信めいたそれ。同時に、怯え以外の何かがなければならないというタスクの願望。
 荒神ロウガのことを筋道立てて語る時、タスクには彼がクリミナルファイターであったこと以外にも臥炎キョウヤの元にいたという事実を並べ立てなければならないということが、どうにも鼻持ちならない事実であるように思える。最低限の、或いは過剰の衣食住を幼いロウガに保証しつづけた自分たちよりほんの数年年嵩なだけの、圧倒的強者だった彼。タスクは今、キョウヤと同じことをロウガに与えようとしているのではないか。考えただけで吐き気がする。だからタスクは、ロウガと自分の関係が「友達」という歪なものではないことにいつだって安堵している。
 だがそれはあくまでタスク側の認識であって、ロウガ自身が今の生活をどう思っているかはわからない。お互い、腹の底から他者と意見を分かち合うことをしなかったせいで散々な目にもあってきたくせに、それでいて言葉は慎重に選ばなければならないことも、その相手も目を皿にして見極めなければいけないことを知っている。そうして間合いを探っている内にタイミングを逸してしまうからだろうか、この家の中で交わされる会話はとても少ない。
 だからロウガの気持ちなんて、もしかしたら自分はこれっぽっちも汲み取れはしないまま、ただ離れていってしまっては二度と掴めない距離を挟んでしまいそうで怖いからとこの家に閉じ込めてしまったのかもしれない。それでも、ここにはタスクがいる。それを理解した上で、タスクの誘いに首を縦に振ったのだ。ならば、牙王に嫌われるかもなんて事態には怯えないで欲しい。時には、臥炎キョウヤに嫌われるかもなんて可能性にも怯えていたかもしれない過去のロウガの憶病にだって怒りを覚えるのだ。
 ――そんな不実は、死んじゃえばいい。
 なんて乱暴なことを思う自分に、タスクは何度も驚いて、けれどロウガが牙王の言うことを聞くことにすんなり納得していることも事実なのだ。今の所、二人の暮らしに何の口出しもしてこない臥炎キョウヤに対しては、恐らく自分はこんなに素直な感情は抱けないだろうとも、タスクには予想がついている。

「――包丁は、ちょっと怖いね」
『危なっかしいな。そのまま齧ればどうだ』
「汚くないかな?」
『水で洗えばいいだろう。洗剤は使うなよ』
「いやだなあジャック、そこまで無知じゃないよ」
『ふん、怪しいものだ』

 手に取った林檎の皮をむこうと包丁を取り出して、その手付きの危うさに自分でも一人で暮らしてきた甲斐のないことだと呆れてしまう。それでも、食べ物を洗剤で洗ってはいけないことくらいわかっているのだから、カードの状態から注意してくるジャックの小言が戯れであることくらいタスクにもわかっている。わかっているけれどやらかしそうだと思われているのなら、今後タスクが牙王の忠言を守るために必要最低限の料理をこなすスキルを身に着けなければならないということだろう。あまり自信はなかったけれど、やる気はあるのだ、それなりに。
 けれどこの空腹は一刻を争う深刻さであるからと、タスクは林檎を二つ、表面をざっと水で洗い流して、そのまま齧った。初めの一口は、林檎の硬さに小さくなってしまった。キッチンに突っ立ったまま、タスクは黙々と手にした林檎を食べ続けた。そうして芯だけが残ったとき、それをまじまじと観察して自分はしっかりと物を食べたという事実を確認して頷いてからゴミ箱に捨てた。
 ――そういえば、明日はゴミ出しだ。
 学校に行く前に出して行こう。でも自分が起きたときにロウガがまだ家にいたのなら彼に頼もう。そんなことを考えながら、タスクはもう一つの林檎を持って、ロウガの部屋へと向かう。フローリングの感触が素足の裏に伝わって、床がきちんと掃除されていることを知った。そしてそれは、タスクの仕事ではない。

「――ねえ、生きてるかい? そろそろ何か食べないとだから、林檎持ってきた」

 閉ざされた扉を拳でノックしながら、タスクは耳を澄ましている。それでいて、扉の向こうに自分の慎重さが伝わらないように、結局は粗雑な振る舞いで返事を待たずに扉を開けてしまうのだ。

「……お前か」
「そうだよ、そうに決まってるじゃないか。寝てたの?」
「――ああ」
「ふうん、はい、林檎。そのまま齧ってよ。美味しかったし、洗ったし、問題ないよ」
「――おい、水が垂れてる」
「え? あ、ごめん」
「あー、もういい」

 ベッドの上で、どうやらうたた寝をしていたらしいロウガは身体を起こしてからあぐらをかく。跳ねた髪を乱暴な手付きで掻きながら、タスクが差し出してくる林檎にじっと目を向けたかと思うと、それよりもその表面を伝い落ちて行く水滴の方が気になったようで顔つきが途端不機嫌になる。とはいえ、ロウガの不機嫌は表情の分類であって、実際の機嫌の上下は必ずしも表情に対応していない。基本的に、難しい顔をしている男だから。
 ロウガの「もういい」は「気にするな」の意であるから、タスクは床に数滴落ちてしまった水をそのまま裸足の裏で踏みつけた。林檎を受け取ったロウガは、そのタスクの所作には触れず――勿論、目の前で行われた動作を横目で確認してはいたが――、ベッドから降りて彼の横をすり抜け部屋から出て行こうとした。それを、タスクは服の裾を掴んで引き留める。

「――切って食べる」
「……? 切れるの?」
「包丁を使えばいいだろう」
「危ないんじゃないかな、うん、デンジャーだよ」
「冗談になってないぞ」

 ロウガの発想は意外だと言わんばかりに目を丸くしたタスクに、「お前と一緒にするな」と溜息を吐いてロウガはさっさと歩き出してしまう。掴んでいた裾はあっさりと指から振り払われて、タスクは彼の後を追い駆ける。そうか、彼はこの部屋の中ではこんな速度で歩くのかなとど思いながら。

「――お前は、」
「うん」
「生活するのも下手なんだな」
「うん?」
「生きるのではなくて、生活するのが」
「わからないな。どう違うの」
「包丁も使えない、床を拭く発想もない、ゴミ出しくらいしかできない」

 先程までタスクがどこかよそよそしさを覚えていたキッチンに、ロウガは平然とした顔で立ち、タスクが使用しようとしてそのままにしていた包丁に眉を顰めてから、その包丁を手に取って林檎の皮をむき始めた。手付きは滑らかとは言い難いが、身を削ってしまうようなぎこちなさはなく、タスクは素直に感心する。それはタスクと同じ自分が一人であることを受け止めた上で、タスクとは正反対に身に付けられたスキルだ。そんなロウガに、自分の生活能力が随分低く見積もられていることを知っても、しかし否定できるほどの実績がないものだから何も言えない。

「おい、タスク。聞いてるか?」
「うん、聞いてるよ」
「お前、明日から家に帰る時は連絡しろ」
「?」
「帰れるか、帰れないか、早いか遅いか、何でもいいから連絡しろ。そうすれば――」
「そうすれば?」
「飯くらい、作っといてやる」
「え、」
「二人分なら、面倒だと放り出すわけにもいかないからな」

 言いたいことはそれだけだと、ロウガは皮だけ剥いた林檎を結局そのまま齧り始めた。しゃくり、しゃくり。ロウガの咀嚼音だけが響くキッチンで、彼は背筋を伸ばしてキッチンに面と向かって立っていて、タスクはそんな彼の横顔を少し離れた場所から見ている。
 そして唐突に、自分たちはこの部屋で一緒に暮らしているのだという実感がタスクに襲いかかってきて、飲み込まれて、何故だか居た堪れないほどの気恥ずかしさに顔を覆ってしまいたくなる。本当に、表面ばかり繕って自分は憶病なのだと実感する。押し付けたのは、同居の申し出などではなく恋心だ。返答は、ただ同じ部屋に帰るという習慣だけで満足しようとした、もっとその先にあったのだ。そうして今、タスクはロウガから明確な答えを貰ったのだ。それが、こんなにも嬉しくて、それを隠せそうにもない自分が恥ずかしい。

「――美味しいご飯を作ってね」

 だからかろうじてでも、悪態じみた言葉で「わかった」と伝えることが出来たのはタスクにとって幸いで、ロウガはそんなタスクの虚勢を鼻で笑った。タスクも笑った。
 ――ねえ牙王くん、何だかすごい魔法がかかっちゃったみたいなんだ。
 林檎だけが収まっているであろう腹に手を当てて、タスクは思う。食べることに興味はなかった。誰と食べるかなんて問題にもならなかった。頭の中に情報として収まったテーブルマナーを、いっそ捨ててしまってもいいかもしれないとすら思っていた。
 けれど、これからは。
 そんな怠惰な自分を一つずつ切り崩しながら、新しい習慣を身に付けて行くのもいいかもしれない。この部屋には、今タスクだけで暮らしているのではないのだから。誰かと暮らすということは、寄り添うということは、そういうことなのかもしれないから。義務という労働とは違うもの。幸せという名前を貰った時間。タスクの内側に広がって、満ちていくもの。
 そして満ちていく幸せの気配を感じながら、タスクは胃に収めた林檎はどこへ行ってしまったのやらまた空腹を覚え始めていた。


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ふたりぼっちの部屋に魔法が降り注ぐまで
Title by『√A』

20141007



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