飼い慣らせると思ったのがいけなかったのかもしれない。
 キョウヤは己が選び取って来た過去の様々な事象を微塵も悔いてはいないのだけれど――それがたとえ他者の一生を捻じ曲げるほどの大事であっても、キョウヤにとっては些事であるから――もしも幼い自分に何か忠言を贈ることができるとしたら、自分への愛情だけでこう告げるだろう。
 狼は、犬のように飼えると思ってはいけないよ、と。

 スラムの薄汚れた子どもたちの群れの中から、たった一人連れ出しただけだと思っていた。とびっきりの、キョウヤにとって価値ある才を持っているたった一人ではあったけれど、それでも平等ではない人間の価値で測ればキョウヤより劣っていると見なされているような子ども。それでも今にして思えばあのスラムにいた子どもたちは助け合うようでいてどこか皆独立していたのかもしれない。
 「友達」という言葉で飼い殺してきた。首輪という名の教育を、リードという名の導きを。従うという発想のない子どもに根気よく教え込んで来た。勿論それはキョウヤの指示を受けた大人たちの仕事で、彼等はほとほとロウガへの教育には手を焼いたようだった。雇い主であるキョウヤに直接不満をぶつけてくるような者はいなかったけれど、彼が定めた一日の時間割に沿って一般教養や最低限の学力維持の為の授業を終えたであろう時間になってから訪ねて行ったロウガの部屋の惨状を見れば、手こずりの痕跡はありありとそこに残っていた。
 あれは拒絶と警戒の混じった癇癪だったと、キョウヤは思っている。ただそこまで感情を発露させることなく不自由なく生きてきたキョウヤにはロウガの振る舞いは新鮮だったし――その視点が既に他者を見下ろしていると気付けないまま――、けれどどうしたって自分がロウガに飽きる日がこなければ逃げることもできないのに無駄なことをしていて愚かしいなと思いながら、何一つ望んでいない普通よりワンランク以上高い暮らしに放り込まれてしまったロウガの不幸をまるで自分のせいではないかのような眼差しで眺めてきた。それなのに、キョウヤが自分を恨んだり憎んだり、ましてや離れていくことなど有り得はしないことのように思いこんでもいた。或いは、今でも思っている。離れるも何も、寄り添うということの意味も知らないキョウヤの傍に、若しくは彼の下にロウガは居続けたから。

「学校はどうだい?」

 本当は興味もないことを、キョウヤは世間話としてロウガに吹っかける。彼等の学園生活に興味はなく、支障があるはずもなく、ただ自分の身の置き場を間違えていないかどうかだけはアジ・ダハーカを介してしっかりと把握しているのだから、ロウガに聞きたいことなんて実はない。けれど自分が黙ってしまうと、困ったことにロウガも自分から積極的に話しかけてくる人間でもないものだからつまらなくなってしまう。自分の邪魔をされると声を荒げて食って掛かって来るくせに、それ以外ではまるで無感動に口を噤んでしまうロウガは正直不愉快だった。けれどそれを伝えて、どう矯正したいかもキョウヤにはわからない。にこにこと笑いながら一緒にいなかった時間の話を聞かせたがるロウガなんて想像しただけで気持ちが悪いだけなのに。ただロウガは、いつからかキョウヤと目を合わせたがらなくなった。万事に於いて避けて通すほど憶病ではないのだろう。自分の意志を伝える時ははっきりとキョウヤの方を向く。けれど用件が済んでしまえば、ロウガのキョウヤへの態度は素っ気ない。きっと誰に対してもそうなのだろう。けれどロウガの面倒を見てきたキョウヤとしては、彼の周囲の人間の中に自分が埋もれている現状は受け入れがたいのだ。
 ――キミの飼い主はぼくなのに。
 そんな本音を、キョウヤは内側で絶えず漏らしている。

「ねえロウガ、話をしよう」

 ロウガに与えた私室の扉に寄り掛かったまま、キョウヤはにこやかに提案する。彼の提案は命令であることを、当人もロウガも知っている。先程の問いかけへの返事はまだ貰っていないけれど、もういらないから次の話題へと移る。
 勉強机として与えられた、けれど子どもが暮らす部屋にはかなり上質のデスクとセットの椅子の背に脱いだ上着を放り出して、ロウガはベッドの端に腰掛けた。それがいつからか諦めの意思表示であり、キョウヤへ話の続きを促しているのであり、つまり、ロウガからは何もしない状況への移行を完了させた合図であった。話題の提示も、会話の終わりも、ロウガには望む形があるのかもしれないが、それが音となってキョウヤの耳に届けられることはない。

「今日は楽しかった?」
「――別に、いつも通りだ」
「いつも楽しくないの? それは良くないね」
「悪くもない。万事この調子だ」
「折角バディファイトの強い子どもたちが集まる学校に通ってるのに。あ、でも中等部のランキングではロウガが一位なんだってね。おめでとう」
「めでたくもないだろう。勝たなければ意味がないのだから、それだけのことだ」
「あ、もしかして戦い甲斐の相手がいないの? 偶には僕とファイトする?」
「――――」
「ロウガ?」
「……いい」

 捲し立てるような口調にも、ロウガは流されず自分のペースで返答を寄越す。落ち着いた、低い声で。キョウヤは時々、変声期を迎えた自分の声が低くなっても、会話をしているとつい相手を嘲るような軽い雰囲気を纏ってしまうことを自覚していたので、ロウガの話し方は自分にはないものとして映り、好ましかった。羨ましいとは、ロウガが自分のものであると確信している以上思えなかったけれど。
 キョウヤの申し出に首を振って、ロウガはシャツからタイを外して、それから先程掛けた上着に目をやった。放るには、距離がありずぎると判断して、億劫そうに立ち上がり、上着の上にタイを置いた。そうして、未だ扉に背を預けているキョウヤを振り向いたときの顔――その表情ときたら!

『なあ、まだ何か用があるのか』

 あれが決定的だったのだとキョウヤは思っている。取り繕いようのない、隔絶された沼にロウガは沈んで行ってキョウヤはそれを必死になって引き上げるような人格を持ち合わせていなかった。例えば、ロウガが一番に好きだよとそんな甘言を憚りなく吐き出せるような関係であったとしても、キョウヤはもうロウガを救える人間ではなかった。そもそも、ロウガが救いを求めていたとして、それにすら気付かない人種なのだから。


 目が覚めると、隣に寝ていたはずのロウガの姿がないのはいつものことだった。基本的にキョウヤよりもロウガの方が体力はあるはずなのに、男同士のセックスというのは受け入れる側の負担の方がずっと大きいらしい。そこに遠慮を覚えないキョウヤに、ロウガはやはり何も言わない。ただ、キョウヤに抱かれた夜は浅い眠りを漂ってから、気怠い体を引きずって、彼に見つからないようにベッドを抜け出す。
 ロウガの、キョウヤをキョウヤとして認識しながらも何かを拒絶する表情を目の当たりにした日から、キョウヤはロウガを徹底的に繋ぐことにした。首輪が人目に触るなら、見えない場所で繋ごうとした。早い話がセックスで、初めて事に及ぼうとしたときのロウガの表情はどこかあのスラムの街で見かけた少年の面影を――当然とはいえ――ありありと浮かべ、突きつけていた。自分が男にも反応できることにも一瞬驚いたが、それにしても、ロウガの顔には怒りよりも落胆があって、落胆よりも心を殺してしまおうという意思の方が強く感ぜられて、それが自分を受け入れる為だと都合よく解釈できるキョウヤにはその反応はすこぶる満足できるものだった。
 そう、あの日。キョウヤがロウガを欲しいと願ったあの日から、彼は自分の物でいて然るべき存在になったはずなのだ。例外はない。キョウヤが飽きるその日まで。もう要らないと捨てるその日まで。ロウガからではない、自分からでなければならない。それだけが、世界のルールだった。

「――キョウヤ」
「うん、何だい?」
「俺は何だか、ひどく疲れた」
「そう、僕は何だか、とても楽しい」

 反対だね、キョウヤが本当に言葉通り楽しそうだったから、ロウガはたぶん、疲れたの反対は楽しいではないという意見を言いそびれた。いつだって自分の意見は、彼にとっては見当違いなものなのだろうと思うと何も言う気になれなかった。文脈を漁るのは、いつもどうしてか難しい。
 夜更けにベッドを抜け出して、朝を共に迎えることが出来なくても構わない。その直前までロウガに刻んだ自分が確かであることをキョウヤは知っている。ロウガを以前よりずっと好き勝手に暴くようになってから、キョウヤは何だかとても楽しいのだ。ロウガがひどく疲れていても。やってくる夜明けに背を向けて、夜に閉じこもるように部屋を後にしていても、次の夜にキョウヤはまたロウガを繋げばそれで済むと信じて疑わないのだ。
 飼い犬に愛情を注ぐように、愛撫して抱き締めて好きだと囁いて。けれどそれが愛玩だと見抜けてしまう賢さを捨てられなかった狼が、それでも自分の元を離れない理由が何であるのか。人間であるキョウヤはまだ理解することが出来ない。恐らくは、これからも。
 全てを飼い慣らせると信じているその傲慢が折れる日まで、キョウヤはロウガの首に拘束の輪をかけ続ける。それすらも、本当は最初から繋げていなかったのかもしれないと、全てを失うまで、ずっと。



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じょうずにくるった歯車が私を呼ぶので
Title by『√A』


20141002


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