臥炎キョウヤの危機は、冬の初めにやって来た。
 二人で向き合って座る食卓で、ロウガが家を出て行くと言い出した。ロウガの言う家が、ただの建物の問題ではなく、臥炎の名の元に与えられる庇護の全てを指していることに、彼の発する都合の悪い言葉には全てとぼけたフリをして流してきたキョウヤにもはっきりとわかった。
 ――僕がロウガを失うの? どうして? ここはこんなに満ち足りているのに?
 呆然と食事の手を止めるキョウヤに、ロウガは「そんな顔をするな」と言いながら、卓上に並んだ食事を口に放り込んでいく。突拍子のないことを言った自覚がまるでない。腹立たしくなるほど平然とした態度に、キョウヤはどう文句を言っていいものか考える。引き留めたいという願望が最重要で、あとは切り捨てるべきだともわかっている。ロウガの、キョウヤが彼のことをどう想っているかに対して無頓着であることはこの際。
 ――どうしてそんなこと言うの?
 思った以上に情けない声で尋ねると、ロウガは決まっているだろうと言いたげに、口の中の物を咀嚼してから答えた。
 ――高校が、行きたい高校が見つかった。正確には大学なんだが、まあその為にまずは高校をというところだな。
 確かにロウガは、進路を決める時期だ。それでもギリギリではあるだろう。大抵の生徒は夏休みを前に希望を出す。ロウガの希望は、夏休み前まで、今通っている中学から一番近い(つまりこの家からもっとも通いやすい場所にある)高校だった。やりたいことも特になく、或いはあったとしてもそれは高校を選ぶ材料ではないのだと、キョウヤは思っていた。彼にとっても、高校はどこを選ぼうと大した差を持った場所ではなかった。ただ便利に過ごせるかどうか、選べる立場にいることを自覚して選んだ。同じ資格を、キョウヤはロウガに与えているつもりだった。兄弟のように育ってきた友だちだ。キョウヤにとってロウガは家族であり、血の繋がった、今キョウヤが持っている(世間一般で彼を裕福と呼ばせるための)地盤を与えてくれた両親よりもずっと特別な人間だった。
 ――一年前のこと、まだ怒ってるの?
 それなら何度だって謝るから。ロウガは目を丸くして、何故そうなるのかわからないという顔をした。お互いにとって古傷となった一年前(始まりはもっと以前にあるけれども)の出来事、キョウヤの元に降ってきた特別な力を使って本気で世界を変えようと思っていたこと、ロウガにもその力を与えて、自分がお願いすれば本気で着いてきてくれると思っていたこと。友だちだから、その言葉に甘えて、その言葉が擦り切れて崩れ去るまで勘違いをやめられなかったこと。沢山の人に迷惑をかけたこと。怒っているのなら、何度だって謝るから。
 謝るから。そう繰り返すと、ロウガは今度は困ったように眉を下げた。そういうことじゃないだろう? 尋ねられたけれど、どういうことかわからない。だから手当たり次第に言葉を投げかけるしかないのだ。どれか一つでも、ロウガを引き留めるに足る言葉にぶつかることを信じて。
 ――奨学金でやっていけそうなんだ。色々、充実していてな。寮もある。
 そう、ロウガは成績が良かった。奨学金のひとつやふたつ、審査ラインを軽くクリアするだろう。でもそんなもの貰わなくていいはずだ。例えキョウヤと血が繋がっていなくても、彼がロウガを臥炎の人間だと扱っている限り、何の不自由もあるはずがない。
 その学校のパンフレットがあるから後で見て(欲しいと言いたかったのか、見てみればいいと言いたかったのかはわからない)というロウガの言葉に被せてキョウヤは尋ねる。
 ――どうして寮なの?
 ここから通えない学校に、そもそもどうして視野を広げてしまったの? 睨む気力が削がれていく。思い通りにならないこと、不満をぶつけられること、気にいらなければ穏やかな笑みの狭間に不機嫌を挟み込んで相手を委縮させてきた。ロウガには通じないだろうけれど、通じないとわかってても自分の不機嫌を知らさなければと思うのに(だってロウガはキョウヤに優しいから)、キョウヤはもうロウガの言葉に穴を探して、否定することでしか自分の正しさを示せない。キョウヤだから、そんな理由ではもうロウガは外の世界を拒んではくれないのだ。
 ――現実的に生きたいんだ。
 じゃあ今ロウガはどんなふうに生きているんだろう。そんな曖昧な言葉じゃ、何もわからない。ここで暮らしていくことが、どうして現実的じゃないとなるのか。安定している、不便はない、満ち足りているはずだろう。
 ――お前の力を借りて生きるのは、違うんだ。
 違わない。即座に飛び出した言葉に、ロウガは困っていた顔から傷付いた顔をした。自分はどんな顔をしているのだろう。キョウヤには鏡がないからわからない。ロウガの瞳に映っているであろう自分は、今は遠すぎて見えなかった。
 ――俺はもう、お前のものではないんだ。
 当たり前だ。そう思うから、そう思っていなかった頃を悔いているから、こうして今を暮らしているんじゃないのか。
 ――それはお前の理屈だ。俺のじゃない。
 取りつく島もなかった。
 ――ロウガは僕が嫌いだったの?
 だから、とうとう。高校進学を機に僕を切り捨てて行くのか。俯いたキョウヤに、それでもロウガがゆっくりとそういうことではないと首を振るのがわかった。けれどそれはキョウヤを安心させる材料にはならない。ロウガの意見は、翻らないのだから。
 ――もう決めたんだ。
 静かに、確固たる決意を感じさせる落ち着いた声だった。年下とも思えない、キョウヤの好きな、ロウガの声だった。
 もう決めた。どんなふうに? その決断を、果たして僕を理由に一瞬でも迷ってくれたのだろうか。キョウヤは何一つ言葉にできない。
 ――どうして?
 結局、わからないのは動機なのだ。ロウガの言葉は、キョウヤを納得させるだけの威力を、核心を、差し出そうとはしていない。
 ――どうしても、だ。もう決めた、そういうことだ。
 ロウガは遂には困り果てて、キョウヤの顔を見ずに視線をテーブルに落とした。持っていた箸も、椀も置いて、それでも拳だけはテーブルの上に残して。
 ――悪いとは思っている。
 小さく呟かれた声に、キョウヤはロウガが今にも泣き出しそうになるのを堪えていると気付く。滅多なことでは泣かないロウガ。意思の強い、頑固なロウガ。真面目で、自分の所作をキョウヤと比べて粗雑だと言いながら乱暴者にもなれなかったロウガ。キョウヤに拾われてしまったからこそ、強さにばかり固執してしまったロウガ。少しずつ移ろったとして、何も捨てて来なかった、根っこは決して変わることのないキョウヤの大切なロウガ。できるだけ他者を排して暮らしたいと願ってきた。ずっとロウガだけが友だちだった。沢山の愛嬌を振りまいて来たけれど、振り返ればキョウヤが唯一の特別を贈ったのは彼だった。
 それを今、失おうとしている。
 ――何が? 何が悪いの?
 愕然と、キョウヤはロウガを見る。どうして、今になって、あの時じゃなくて、今なんだろう。
 ――お前の世界に、ずっと住んでいられなくて。
 声は震えていた。言葉の最後は掠れていた。けれど聞こえてしまった。食卓という、親密な空間が、はっきりとロウガのトドメの言葉をキョウヤの耳に届けてしまった。
 ロウガは、キョウヤの作り上げた世界から出て行きたいのだ。二人きりを息苦しく思い始めたのだ。絶望がひたひたとキョウヤの背中に忍び寄り、でも仕方がないだろうと彼を責め立てる。そうだろうか、仕方ないのだろうか、僕が悪いのだろうか、そうかもしれない、いつだって、僕が、僕の世界は――――狭い。それでも、狭くても、ロウガがいれば、ロウガがいることがこの部屋の(世界の)価値だったのに。ロウガにとっても、そうであると思っていたのに。見苦しい期待がぐずぐずと朽ちて行くのを、どうしても引き止めたかった。
 ――駄目だよ。
 やっとの思いで、もう反論ではなく、ただの反対の意を伝えるだけの言葉を口にした。
 ――ひとりでなんて、無理に決まってるよ。僕は、許さない。
 ロウガは捨てられた子犬のようは瞳で(スラム街で屯していたときでさえそんな顔はしていなかった)キョウヤを見た。疎通することを諦めることが、二人の断絶であるかのように。
 けれど泣きたかったのは、捨てられていくのは、キョウヤなのだ。いつだって、外から招き入れたロウガだけが外に出て行ける。キョウヤの世界の中心がキョウヤ自身で在る以上、どこまで行っても彼は内側にしかいられないということ。
 昔、キョウヤは新しい世界を作ろうとした。けれど今、キョウヤは時間を撒き戻してしまいたかった。どこまで戻せばいいだろう。この幸せな、二人だけの世界が壊れる前に? それとも、壊れる不安とも無縁な世界が生れる前に。そうしてロウガと出会った事実させ消してしまえたら。それが無駄な妄想に過ぎないことをキョウヤは知っているけれど。今更ロウガがいない自分の世界が滞りなく回って行くことを認めたくもないくせに。
 今更。そう、今更なのだ。ロウガのいない世界など知らないし考えられない。それなのに、ロウガはここを出て行くという。キョウヤはここを失うのだという。
 ――もう、駄目かもしれない。
 キョウヤの懇願は、ロウガのトドメの言葉よりもずっと小さくて、小さ過ぎて。ロウガの耳に届くことはなかった。



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せめて自分で選んだと言わせてほしい
Title by『ダボスへ』


※江國香織の「神様のボート」パロディです。


20141105


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