その日、珍しく目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ましたなるが真っ先に口にした言葉は「おはよう」ではなく「ありがとう」でした。天窓から差し込む朝日が、この一日の始まりを祝福してくれているように彼女には思えたのです。
 制服に着替えてからリビングに降りると、両親はなるがやってくるのを今か今かと待っていたといわんばかりに微笑みながら彼女を抱き締めてくれました。その抱擁の優しさに、なるはうとうとと眠気すら誘われるようでしたが何せ起きたばかりですので、学校に遅刻しないよう時間を気にしながらも両親と一緒に朝食を摂ります。フレンチトーストとスクランブルエッグ、ウインナーにサラダと牛乳。同じメニューが三つ並んだ食卓の上に、しかしなるの席にだけは真っ赤な苺の入った小さい椀が置いてあり、彼女はその意味を理解していたのでまたしても「ありがとう」とお礼を言うと、瑞々しいその果実を口の中に放り込んだのでした。


 学校に行くと、まず委員長のあんに教室に入るそうそう抱き締められて、それから呆れたような顔をしながらもなるが来るのを待っていたいとが歩み寄ってきました。二人とも、同じ言葉をなるに贈り、なるはやっぱり「ありがとう」と言います。それから、放課後は一緒にプリズムストーンに行こうと約束をしました。今日はべるやわかな、おとはも来ることになっているからと。そしてあんは、「とびっきりのスイーツを用意してあるから楽しみにしててね!」腕に力こぶを作るポーズで気合いの入りようを示すと朝のHRが始まる時間だと自分の席に戻って行きました。いともなるを促しながら、あんの行動に倣います。
 その日、学校いる間なるは色々な人から口々に、しかし同様の言葉を貰いました。なるはその度に笑いながら「ありがとう」と返しました。勿論お世辞ではなく、心から、そう行って貰えることが嬉しかったから。今日がどんな日であるか知っている人は、去年までは両親と数名の友人くらいのものでしたが、今年はどういうわけかなるのことを知らなかったはずの、或いはなるがよく知らない人までもこの日の意味を知っているようなのです。その理由がなるにはわからなくて、不思議ではありましたが(彼女がプリズムショーを通じて一種の有名人となってしまったことは当人に自覚されていないので)、厚意はありがたく頂戴しようということでさして気にしませんでした。
 放課後になりました。プリズムストーンに着くと、入り口には本日の営業時間変更のお知らせという貼り紙が貼ってありました。いつもよりも開店時間が短く、あと少しで閉店ではないかと驚きながら、COOさんやオーナーに何かあったのかと慌てて店内に入り尋ねると、これからハッピーレインとべるローズの面々でパーティーを開くから、今日は特別に店を閉めるとのことでした。それがなるの為であることは明らかで、彼女は胸が塞がるような、嫌な感情ではないのですが、喜びとして処理しきれない想いが溢れだしてぽろぽろと泣き出してしまいました。あんやいとは大慌てで一生懸命なるをあやします。悲しい涙ではないので、なるは大丈夫だと笑いながら、しかし涙は止まりません。そんな最中にべるローズの面々が到着して、本日何度目かわからない言葉をなるに贈りました。「ありがとう」と返しながらも泣いているなるの顔を見て三人は面食らったように瞳を見開いて、彼女を抱き締めてくれました。両親とも、あんやいととも違うぬくもりに、漸くなるの涙は止まりました。
 それから始まったパーティーは、あんが作ってくれたスイーツとお煎餅、おとはが淹れてくれる紅茶でいつも通りのお茶会のようではありましたが、みんながなるに柔らかな視線を向けて、沢山の贈り物をくれました。こんなに沢山持って帰れるだろうかと心配するなるを余所に、べるが得意げな笑みで「荷物持ちを手配してあるわ」とスマショを取り出します。ですが数秒操作していたと思うと、眉を寄せて「呆れた」と溜息を吐きました。

「ごめんね、なる。主役に頼むのも申し訳ないのだけれどおつかいを頼まれてくれないかしら」

 べるにしては珍しく、無邪気な悪戯っ子のような笑みで言いました。なるは今日、この場にいるみんなにとても良くして貰っていたので、おつかいくらいお安い御用だと頷きました。もっとも、あんといとは苦そうな顔、おとはとわかながきらり瞳を輝かせていたことは気になりましたけれど。


 プリズムストーンを出たなるは駅の方へ向かいます。べるに頼まれたおつかいは、駅のすぐそばにある花屋さんに行って花を選んでくるというもの。買ってくるのではなく、選ぶのよとべるは念を押しました。選ぶだけで、買わないのかとなるは尋ねましたが、その必要はないとべるは始終意見を変えなかったので、行けばわかるのだろうとなるはひとり駅までの道を歩いています。
 今日は本当に幸せな一日でした。優しい人たちに囲まれていることを改めて知りました。今日は残念ながら会えないからと、コウジやカヅキもなるにメールをくれていたのです。そのひとつひとつに、なるはやはり「ありがとう」と返信しました。そしてふと、なるの頭の中にはひとりの男の子の姿が浮かんでいました。そういえば、今日は彼に会うことは出来ないのだろうかと。
 その男の子のことを考え始めてからは足取りがふわふわして、真っ直ぐ目的地までの道を歩いて来たのかどうかも定かではありませんでした。しかしきちんとおつかいを頼まれた花屋さんに着いたことに気付くと、なるは指令通り花を選ぼうと売り物の花たちを眺めます。自分の好きなものを選んでいいのだろうか、もうチューリップが売られているのかと花を見るのに夢中になって、そのまま横にずれようとしたところ何かにぶつかってしまいました。もしかしたら、ずっとなるの隣にいたのかもしれません。慌てて謝ろうと見上げると、なんとそれはなるもよく知っている人物でした。それどころか、直前まで会えないのか、会えたらいいなとすら思っていた男の子だったのです。

「――ヒロさん!」
「なるちゃん?」
「はい! 私です!」
「えっ、プリズムストーンでパーティーしてるんじゃなかったの?」
「? 何で知ってるんですか?」
「さっきべるが…」
「あっ、私もべるちゃんにおつかいを頼まれたんです! 花を選んでらっしゃいって」
「花を?」
「不思議ですよね? 買わなくていいから、選んでらっしゃいって」

 なるの言葉に、その男の子――ヒロは何かを察したのか照れたように頬を掻いて、それから「じゃあ自分はここでなるちゃんのおつかいを見ているよ」と一歩下がり、店前のスペースを譲るような格好になりました。幸い、他にお客さんもいなかったので、なるは思う存分その花屋にある沢山のお花を眺めては真剣に唸り、褒め、迷いながらも最後には枝売りされている桃の花を選びました。

「……それでいいの?」
「はい! だって今日はひな祭りですし、ひな祭りといったら桃の花ですよね?」
「そっちで選んじゃったのか…」

 「なるちゃんらしいけれど」と肩を竦めるヒロに、なるは何かおかしかっただろうかと瞬きで訴えるも明瞭な答えは貰えません。確かに今日はひな祭りですが、なるにとっては、そしてヒロにとってはもっと別の意味合いを持つ日なのです。だからこそ、なるは今日何度も「ありがとう」と言っているのだし、周囲のみんなも同じ言葉をなるに贈り続けているのですから。
 けれどなるは「花を選ぶ」というおつかいを果たしたつもりでおりますし、桃の花がつけている薄桃色の花はその色合いと小ささで以て非常になるに似合っているようにヒロには思えました。なので、なるの手からその枝を受け取ると、「どうしたんですか?」と尋ねる彼女に得意のウインクひとつで誤魔化してヒロは会計を済ませてしまいました。流石に、ラッピングを頼む時間は有りません。これ以上ここになるを引き留めてしまっては、ヒロは彼女を大切にしている友人たちの機嫌をいたく損なってしまうことを知っています。
 なるが選んだ花を、ヒロが買ってしまったことに気付くと、なるは慌てだしました。まさかおねだりしているように見えてしまったのだろうかと、それならばお金を払おうとするもお財布を店に忘れてしまっていました。もしかしたら単に自分の為に買ったのかもしれないけれど、それならば自分の手から浚う必要はないだろうにとも。混乱しきりななるに、ヒロは買ったばかりの桃の枝を差し出して、王子様のような笑顔を湛えて言いました。

「お誕生日おめでとう、なるちゃん」

 突然のことに、なるは花を受け取ることも、お決まりの「ありがとう」を返すこともできません。ぱちぱちと瞬いて、それから自分のほっぺを抓ってみました。痛かったものの、どうにも現実味がありません。ヒロが自分の誕生日を知っていて、祝ってくれている事実がまるで夢のことのように思えました。
 こんな風でしたから、なるはべるの言っていた荷物持ちがヒロであることだとか、その彼がなるの誕生日プレゼントに予定していた花束の花をどうするか何時間も花屋の前で悩んでいたことだとか、そのことに呆れたべるが受け取る本人に選ばせればハズレはしないだろうと踏んでなるをけしかけたことだとか、とても察せるはずがないのでした。

「――なるちゃん?」

 花を受け取ろうとしないなるを見つめるヒロの瞳に不安げな色が混じるのを見たとき、なるは漸く今この瞬間が夢でないことを知りました。そしてやっぱり、処理しきれない喜びの渦が勝手に彼女の大きな二つの瞳からぽろぽろと涙になって溢れてくるのです。
 けれどなるは、ヒロが慌ててハンカチを取り出すよりも先に笑顔を作り、彼が差し出していた桃の花を受け取りました。この日に相応しいからと自身で選んだその花に不満などあるはずもありません。眦に残る涙を心配しているヒロに、それよりも今日を祝ってくれたお礼を述べなければとなるは口を開きました。
 今日何度も繰り返した言葉です。間違えたはずがありません。なるはそう思っています。しかしなるは浮かれていましたし、現実と理解しつつもふわふわとした夢心地でいたことは間違いないのです。会えないのかなあと思っていたヒロと、仕組まれていたとはいえ本人は偶然と思っている以上は素敵な廻り合わせだと信じて疑いませんでした。だけどきっと、きちんとお礼を言えたはずです。何と言ったかは実はよく覚えていませんが、「ありがとう」と言うつもりではいたのです。ヒロが、なるの言葉に硬直して、それから見たこともないくらい顔を真っ赤にしてしまったことは気になるけれども、それでも。
 今日が彩瀬なるにとって最高の誕生日であったことは、もはや疑いようのないことでした。



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2014.0303 Happy Birthday!!


きらきらひかる僕らの星よ
Title by『春告げチーリン』





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