夜の散歩は危ないから。
 そこまで言葉を発して、ヒロは危ないから何だと言うのだろうと口を噤む。危ないから、やめた方がいいよとでも言いたかったのか。それは純粋に心配しているのだと相手に理解して貰えればいいのだが、どこか現実的な自衛面とはかけ離れた意味で相手を上から目線で侮っていやしないかと思われたらどうしようなどと思い始めてしまうと、ヒロはそれ以上何も言えなくなってしまう。
 なるが近頃夜の散歩が好きなのだと、いつもの咲く笑顔でヒロの隣を歩きながら教えてくれた。時間帯は丁度昼と夜の真ん中、夕方が一番濃いあたりだった。沈んでいく太陽の橙の光が眩しく、肩越しに見下ろせば自身の影がくっきりと浮かび上がっている。
 数十分前、なるが店長を務めるディアクラウンにべるのお供をする形で出掛けた。元気にやっているかどうか気になるの、そんな過保護な台詞を恥じらいなく言ってのけるべるは、きっとなるのことが大好きだ。今日は比較的早く帰れるかもしれないとエーデルローズの建物を出ようとしていたヒロに暇なら一緒に来なさいと引っ張られたとき、彼女はヒロも同じようになるを気に掛けていると信じて疑っていなかった。そして実際口実さえあれば喜んでなるの元へ赴くであろう彼はべるの突然の命令を寧ろ僥倖と捉えた。そしてそれぞれ忙しいまま久しぶりに顔を合わせる形となったなるは、店を訪ねてきた二人を大感激の笑顔で迎えてくれたのだ。
 べるは本当に顔を見に時間が空いたから立ち寄っただけで、この後またエーデルローズに戻っておとはやわかなとレッスン生たちの練習メニューについて話し合いがあるのだと、もう直ぐ仕事が終わるから一緒に帰ろうというなるの誘いを非常に申し訳ないけれどと断っていた。そして代わりに、ヒロになるを送って行くよう彼を残して帰って行った。呆気に取られたけれど、どうやらなるもヒロと二人で帰ることに不審も戸惑いも感じていないようだったので、彼女の仕事が終わるまでの残りの時間を、ヒロはディアクラウンの店内で変装用にかけていた伊達眼鏡を何度も落ち着きなくいじりながら、時折刺さる女性客の視線に堪えながら待った。

「どうして夜に歩くの?」
「うーん、たぶん、一番ゆっくりできる時間だから?」
「でも危ないよ、やっぱり」

 話の流れは、なるに話題の主導権を任せていればいつだって唐突に切り替わる。最近の好きなもので夜の散歩を挙げる前は、飼い猫のブルーの前脚がかぶれてしまい、病院に連れて行ったところ数日間エリザベスカラーという薬を塗った箇所を舐めないよう遮る器具をつけていなければならなくなったことを嘆いていた。
 勝手なイメージだが、なるは夜になれば家族とご飯を食べてお風呂に入って寝る。そんな健やかな生活をしているとばかり思っていた。夜に出歩くことが健やかではないのかと言われればそんなことはないのだが、ただやっぱり意外だし、危ない。悪質な人間に遭遇したら危ないし、年齢的に出歩ける時間帯は限られているし。身長の所為で実際の年齢よりも下に見られたら益々厄介なことになるだろうし。一人で、そんな暗い世界を出歩いて欲しくはなかった。何様目線のわがままなのか、ヒロにはわからない。そして傍目には心配しているように映るヒロの言葉は、なるの朗らかさの前にはしっかりと響かない。
 ヒロがなるのことを恋という感情でもって好きだと認識してから少しだけ時間が過ぎた。その間にヒロが何らかのアプローチを仕掛けて二人の関係が進展することもなければ後退することもない。だからヒロはなるに対して何かを強いる権利を持たない。ただひっそりと願うだけだ。彼女が今日も健やかでありますように! ついでに変な男に言い寄られたりしていませんように! なるの隣を歩く権利なんて顔見知りにさえなってしまえばばらまき状態なのだ。特別とは一体何ぞや? 首を傾げながら、ヒロは年上ぶって彼女の身の安全を憂いて忠言なんて可愛くもないものを送りつけている。

「夜って、静かじゃないですか」
「うん。住宅街とかだと、特にそうだろうね」
「すれ違う人の顔もよく見えないし、私と同年代の子たちとはすれ違うこともないし」
「うん」
「ヒロさんは、ちょっとでいいから一人になりたいとか、思ったりしません?」

 ゆっくりと、言いたいことを全て吐き出し終えたなるは丁度足元にあった小石を蹴り飛ばした。つま先にジャストミートしなかった小石は、正面ではなく横へ大きく飛んでいき電柱に当たって止まった。それを視線で追いかけて直ぐに追い越してしまってから、ヒロはなるへ返す言葉を探し始める。
 一人になりたいと思うことは、割とある。ヒロが一人でステージに立っていた頃はその頻度も高かった。一人になりたいと同時に、誰かを待つための部屋で明かりもつけずに寝転がって天井を眺めていたりもした。結局、一人よりも本当の自分をぶつけられる、見せられる相手を取り戻してヒロは今こうして生きている。
 目まぐるしく過ぎていく日々に、息を吐く瞬間は必要だ。けれどそれは、人目を憚るような振る舞いではないはずだった。もしもなるが、見知らぬ人たちに囲まれる忙しない日々に疲れてしまっていても。ちょっと顔を見る為だけに足を運んでくれる人だっていることを忘れて欲しくはない。

「でもやっぱり、夜に出歩くのはダメだよ」
「ダメですか」
「なるちゃんが、一人になりたいとかそんな寂しいことを考えながら、本当に一人で歩いてるなんて、嫌だよ」
「…………」
「なるちゃん?」
「なんだか照れちゃいますね」
「そう?」
「そうですよ」

 照れちゃうようなことを言っただろうか。尋ねるより早く、なるが小走りでヒロの先を行く。それは無意識になるの歩調に合わせていた歩幅をいつも通りに広げれば、あっさりと縮まった。
 そうしてまた隣を歩くヒロから、なるはこれ以上離れる気はないのかまたゆっくりと歩き出す。

「うふふ、何だか変です」
「何が?」
「だってまだ夕方なのに」
「夕方なのに?」

 二人揃って空を見渡せば、彼方から徐々に宵の紫紺が広がりつつある。それでも夕日に照らされてお互いの顔がはっきりと見えている内はまだ十分に夕方だった。

「ヒロさんと一緒に歩いてると、夜にお散歩しているときみたいにほっとします」

 相手を落ち着かせるオーラでも発しているんですか? にこにこと邪気なく見上げてくるなるに、ヒロは驚きで晒してしまった間の抜けた顔を隠すように眼鏡を直す。
 落ち着くと言われても、なると一緒に歩いている最中の当人はいつだって平静を心がけるばかりの男に過ぎないのだけれど。それでも、これは何か、彼女にとっての特別へのとっかかりくらいにはなるのではないだろうか。そう考えだすとやはり、ヒロの心臓はこれっぽっちも落ち着いてなどいられない。

「――じゃあ、俺と散歩しようよ」

 誘い文句は、現実的ではないのだろう。なるの気紛れな衝動の全てに付き合える筈がないのだから。
 だとしても。一人になりたいなんて寂しい願いを抱えて、なるに夜を歩いて欲しくないと願った自分の言葉を嘘にしない為に言わないわけにはいかなかったのだ。

「それってとってもハピなる!」

 ヒロの内心をどれほど見抜いてくれたのか、相変わらず彼をただ優しい人と思っているなるの笑顔からは今一つ読み解くことが出来ないまま。
 やっぱりいつかは、一緒にいて落ち着くようになる手前に、ヒロと同じように心臓がうるさくて仕方がないというくらいドキドキするようになって欲しい。
 東の空へすっかり沈んだ太陽が、直ぐに優しい夜を連れてくる。




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寂しいなんて言わせなかった
20150430



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