泳ぐ満月は鷹揚と漂っていた。ひしめく様は所狭しと大海の億分の一もないのだろう、水槽を窮屈と思わせるのに。
 それでも、きっと自分よりは。住まう場所で、こうと生まれたからにはあるべき姿で漂う姿は立派だろう。触れてはいけない水槽に、鼻の先がくっつくほど近付いてクラゲを見つめているそふぃの横で、レオナは水槽の表面に映る自分の姿を見ていた。表層の、その奥を。
 並び立つ二人の後ろを、賑やかに子どもたちが駆け抜けていく。兄弟だろうか、小さな少年の手を引くやはり小さな少年。薄暗いホールでも迷わずに指を差して道をゆく。二人ならば、成程迷わないだろうとレオナは遠ざかって行く背中を見送った。順路通りなら、次は館内最大の水槽があるホールで沢山の魚が泳いでいるはずだ。記憶が確かなら、その水槽にはサメも一緒に泳いでいて初めて見たときは他の小さなお魚さんが食べられてしまうのではとひどく気を揉んだものだ。館内の薄暗さと水槽からの青色が注がれた中でもわかるほど顔を青くしたレオナを救いだしてくれたのは、元気な双子の姉のドロシーだった。先ほど駆けて行った子どもたちのように、レオナの手を引いてここの魚たちはみんな仲良しだから大丈夫なのだと明るい方へ明るい方へとレオナを連れて行ってくれた。
 昔家族と――記憶の中で一緒にいるのはいつだってドロシーばかりだけれど――やってきた水族館へ、レオナは他人であるそふぃとこうしてまたやってきている。プリパラと、学校と、らぁらの自宅がある商店街。二人が顔を合わせる場所は数えて挙げてみてもこの三つだけで、最後に至ってはすぐ傍にレオナとドロシーの自宅もあるけれどそふぃが商店街にやってくる目的はいつだってらぁらとの用事があるときだけだから、間違えのないようにしっかりと細かく分けておかなければならない。知り合う前から知っていた、アイドルとしての完璧を憧れていた。ステージの上で凛と立つクールな姿に、レオナはきっと自分とは違う気質だと割り切りながら素直に感嘆していたのだ。こうして二人きりで出掛けるようになるなんて考えもしない。そふぃが本当は極端に体力がなさ過ぎて、図書室でも屋外の芝生の上でも構わず眠ってしまうファンシーな人だとは知らなかった。知ってからも、彼女が素晴らしいアイドルであることには変わりはないし、寧ろずっと身近に感じられて好ましいことをレオナは具体的に言葉にすることは恥ずかしくて出来ないまでも確かに思っているのであった。

「クラゲ、いっぱいいる〜」
「はい、いっぱいいます」
「きれ〜〜」

 水族館に入ってから、そふぃは現れる水槽とその中を泳ぐ魚たち全てに感嘆の声を上げていたけれど、このクラゲコーナーに入ってからは水槽の前にずっと立ち尽くしたまま上から下、下から上へと漂っているクラゲに魅入られていた。水色や桃色など色合いも様々なクラゲが集められている水の中を覗き込むその眼差しはきらきらと無邪気な幼子のように輝いていて、それと同時にひどく真剣な眼差しであるらしかった。
 他人に合わせることを苦痛だとは思わない。それは他人の幸せを心から願えるレオナの天性の気質であったし、それを引き出して漂着させたのは間違いなく我先にと走って行く双子の姉のドロシーの影響である。今までドロシー以外の人と二人きりで行動することはあっても、それはいつだってレオナの意思とは無縁の場所からやってくる流れに巻き込まれるような形でしかなく、その流れを切り裂いてドロシーが現れればレオナの手は彼女によって掴まれ彼女が作り出す彼女にとって正しい流れに乗るのが彼の世界だった。それは強制や窮屈といった感覚とは違う、双子だからこそぴったりとはまり続けてきた二人きりの世界だ。
 今朝の、此処に来る前のドロシーとのやり取りを思い出して、レオナの表情はついつい沈んだものとなってしまう。初めてそふぃとプリチケをパキッたときも随分へそを曲げられてしまった。だから今回も、レオナがそふぃと二人で出掛けるなどと言い出したらドロシーは機嫌を悪くしてしまうのではと尻込みしている内に、前日の夜になるまで打ち明けることが出来なかった。案の定、ドロシーはどうしてと怒り出してしまったし、レオナは彼女の糾弾してくるどうしてがそふぃと二人で出掛けることに関してなのか、ギリギリになるまで隠し事のように打ち明けられなかったことに対してなのか見抜くことが出来ずに終始ごめんねと謝り続けた。誘ってくれたのはそふぃの方からだったけれど、レオナはそれを特別に自分だから誘われたのだとは思わなかったし、それでも声を掛けられたことを素直に嬉しいと思っていた。その喜びは、いくらドロシーへの罪悪感が本物だとしても彼女へと伝わってしまうらしい。もういいとドロシーが布団を頭まで被って眠ってしまうまで、それでもレオナはそれじゃあそふぃと出掛けるのはやめると言わなかったし言うつもりもなかった。おやすみの代わりにごめんねと呟いた夜の眠りは、何故だかいつも浅いのだ。
 翌朝、ドロシーはレオナが起きても布団を被ったまま、くぐもった声で何度も「レオナの馬鹿」と繰り返していた。その度に彼女の方へ顔を向けて短い謝罪を返しながら着替えを終えると、毎日ドロシーと相談して何を着ようか色違いの服ばかり着ていたことを今更意識して、このまま出掛けてしまってはドロシーは今日何の服を着ればいいのかわからないのではないかと思ったけれど、そんなことをわざわざ声に出して彼女を起こそうとすれば益々怒らせてしまうことがレオナにはわかっていた。
 大丈夫、ドロシーは私と違って決断力があるからと自身に言い聞かせて、レオナは朝食を食べてから家を出た。彼女は今頃どうしているだろう。不貞腐れて、部屋に閉じこもってなどしていなければいいのだけれど。此処に来るまでに歩いた道は、とても気持ちのいい青空で外に出ないなんて勿体ない。水族館の暗がりの中で、レオナはついついそんなことを思ってしまう。

「――どうしたの?」
「えっ」
「顔、悲しそう〜」
「ご、ごめんなさい! 私、つい考え事を……!」
「謝らないで〜。私こそごめんなさい、クラゲさんに夢中になりすぎちゃった……」
「いっぱいいますもんね! 見入っちゃいます……」
「うん、それにとってもきれ〜〜」

 いつの間に水槽から目を離したのか、レオナの方を向いたそふぃは元気がないように見える彼の顔をもっとよく見ようと近付こうとする。途端に躓いて倒れ込んでくるそふぃを抱きとめて、丁度二人がいた水槽を覗こうとやってきた人波に押し出されるようにして移動する。
 もっとクラゲを見ていたかっただろうかと腕の中のそふぃの様子を窺うも、彼女はレオナに支えられる形で特に未練あるように振り向くこともなかったのでそのまま進んでしまった。次は、クラゲが入れられている水槽よりもずっと大きな水槽がある。客たちは水槽直ぐ傍に集まっていて、ここの目玉でもあるサメが近付いて来ると俄かに歓声が上がった。人混みをかき分けて最前列に出る気力と体力がない二人は、後ろからぼんやりとその光景を眺めていた。そふぃは体力がないから、丁度いい休憩かもしれないと思いながら。

「……今日、楽しくなかった?」
「……どうして?」
「何となく、あんまり楽しそうに見えなかったから……」
「そんなことないです!」
「――ごめんね」

 表情はいつものように柔らかいまま。けれど言葉からは悲しみが伝わって来てレオナは何とかそふぃの言葉を否定しようとするも上手くいかない。元々自分の考えをはっきりと主張することは苦手だった。けれど意見そのものがないわけではないのだ。
 ただどうしても、自分がここでそふぃと二人で水族館を見て回っていることを楽しむならば、ドロシーも同じように楽しい時間を過ごしていて欲しいと願ってしまう。それはどうしても断ち切ることのできないレオナの願いだった。

「あ、あの、私本当に今日は、そふぃさんに誘って貰えたときからずっと、嬉しかったんです!」
「――?」
「だ、だから、私が嬉しかったから、でもだったら、ドロシーにも同じくらい幸せな気持ちになって欲しいなって、今頃どうしてるかなって気になっちゃって……ごめんなさい! ごめんなさい!」
「なんだ〜、退屈だから怒ってたんじゃないんだ〜」
「お、怒ってなんか……!」
「良かった〜、あのね、さっきピンクのクラゲさんがいたの」
「そういえば……」
「何だかあなたみたいだな〜って思いながら、見てたの」
「え……」
「私、ピンク、好きだなあ――」
「ええ!?」

 その告白は、レオナを好きと打ち明けているものではないけれど。シャイなレオナには照れるなと言う方が無理なくらいの、ストレートな例え話だった。
 どう返答したらいいのかとレオナがまごついている内に、そふぃは「ぷしゅ〜〜」と力尽きてしまった。その身体を支えながら、レオナは片手で絶対に赤くなっている頬に触れてみる。
 ――どうしよう、二人きりってすごく恥ずかしいよお!
 今この場にいない片割れに念を送ってみても届くまい。届いたとしても「知らないよそんなの!」と一蹴されてしまうだろう。けれど伝えずにはいられないのだ。そふぃを前にしたとき、彼女の素直な言葉を聞いたとき、こうして力尽きた彼女を支えようとして触れたとき、むずむずと胸が疼いてしまう、もっと二人で話してみたいのに、離れていなくちゃと思ってしまう感覚。いざ近付いてしまえば溢れる喜びと、どうしていいのかわからずに途方に暮れてしまう焦りと。
 そふぃといると次々に湧き上がってくる矛盾した想いについて、ドロシーなら教えてくれるのではないかと、レオナはついそんなことを考えてしまう。

「わ……私はパープル、す、好きです……」

 そふぃに聞こえませんようにと注意しながら絞り出した囁きは、レオナの望みとは裏腹に彼女の「ありがと〜」という返事によって彼を立派な茹蛸にしてしまったのであった。
 こんな気持ちを、ドロシーもわかってくれたらいいのに!
 レオナの双子の姉への愛情は深い。しかしこればっかりは、他人とは――まして双子の姉でさえ――分かち合うことのできない特別な感情なのだと彼が知るのは、もう少し先の話になるのだろう。



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満ち足りた月が笑うので
20150401




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