雛壇に飾られた雛人形を間近に見るのは初めてのことだった。それはヒロの実家が格別貧しかったこととは関係がなく、ひな祭りが女の子の節句だからだろう(尤も、男の子の節句に飾られる兜もヒロは間近でよくよく眺めたことも飾ったこともないのだけれど)。
 物珍しさについ見入ってしまっていると、ヒロの隣にやってきたなるが「可愛いでしょう」と誇らしげに胸を張った。綺麗に飾られたこの雛人形たちは、なるのものだった。お雛様とお内裏様を初め三人官女や五人囃子、右大臣や左大臣まで揃った、それは立派なものなのだろうとヒロは頷く。ただ可愛いかどうかは、自信を持って頷けななかった。立派で、綺麗だと思う。なるの両親が、可愛い一人娘の健やかな成長を願って、真剣に、幸せな気持ちで選んだはずだ。大切に扱われてきたことが、人形を見る以前に人形を見つめるなるの表情を見ればわかる。雛人形を飾る為の赤い敷物が、誇らしげに映えていた。

「大事にしてるんだね」

 やたらと真剣に見入ってしまったのだから、雛人形について何か言わなければと思った。ソファに腰を下ろして、なるが淹れてくれた紅茶を飲みながら、しかし元々人形というものに触れて来なかった自分には綺麗や凄いと言ったありきたりの――恐らく立派に飾り付けられている雛人形を見れば毎度抱くであろう程度の――言葉しか浮かんでこなかった。なので結局、言葉はなるに向かっていく。
 なるは精一杯背伸びしながら、雪洞の位置を修正していた。ヒロへ返事をするときだけ一度彼の方を振り向いて「勿論」と頷いて、また雛壇の方へ向き直ってしまう。あっさりと自分から外されてしまった視線に、ヒロは僅かばかりしゅんとしてしまう。寂しいとか悲しいとか、大袈裟に感情を動員するほどではないけれど道端で「あっ」と蹴躓く感覚に似ている。
 彩瀬家のリビングに、なるが生まれてから毎年この時期に同じ場所に飾られている雛人形。その半月ほどの期間は彼女の年齢分の回数を重ねていても一年の内からすれば僅かな日数だ。それは数カ月前に飾ったクリスマスツリーにも似た限定的な彩りで、他人の家にあるそれを目撃できるタイミングで訪れることができるということは恵まれたことなのだろう。相手の日々の内側にいることを望んでいる限りにおいては。そしてヒロは、なるの内側にいることを望む者として今日こうして彼女の家にいることを幸福だと思う。
 クリスマスツリーと違って、雛人形には特別な持ち主がいる。購入したのは両親だとしても、祭りの主役になれるのは姉妹がいない限りはその家の娘一人なのだから。だから雛人形が飾ってあるというだけで、いつもは彩瀬家の家族三人の空気が満ちているリビングの中でなるの気配が色濃く浮かび上がっている気がするのだ。

「さて、今年もそろそろ見納めですかね」

 ひとしきり眺め、手入れし、万全の格好になった雛人形を見上げて、なるは寂しげに眼を細めた。その表情は背を向けられているヒロには見えなかったが、声のトーンから名残惜しく思っていることは簡単に察せられる。だが励ましの言葉はあえて省略して、ヒロは手にしたカップを置いてソファから立ち上がる。これからが働き時である。彼は今日、なるが雛人形を片付ける手伝いをする為にこの家に呼ばれたのだから。

「えへへ、手伝ってもらっちゃってすいません」
「いいよ。ちょっと珍しいし、暇だったしね」
「ありがとうございます」

 いつもは一緒に片付けてくれる両親が生憎仕事で朝早く出掛けなければならない上に暫く仕事が忙しい。それでも雛人形を片付ける時間が全くないということもないだろう。ただその為だけに時間を開けてもらうのが申し訳なくて、なるが自分で片付けるからと手を挙げたのだ。そして最初は一人でこなすつもりだものの、細々とした装飾品や人形を傷めないよう全てきっちりとそれぞれが入っていた箱に納めてしまう作業が思いの外時間が掛かってしまうのではと気が付いた。なるはあまり、掃除や後片付けの手際はよくないのだ。
 そのことを、前日のなるの誕生日パーティーで聞いたヒロはそれじゃあと手伝いを申し出た。本気と社交辞令が混ざり合って、下心よりは親切心が勝っていたと思いたい。いいんですかと素直に瞳を輝かせるなるに、遅れて平均的な片付け能力があれば問題ない筈だよなと一抹の不安が過ぎったけれど撤回はしなかった。
 3月3日のなるの誕生日、彼女の友人たちをはじめヒロやカヅキたちも集まってパーディーをした。プレゼントを渡して、料理やお菓子を食べて、感極まったなるが歌って踊ってプリズムジャンプを跳んだりした。その時間は本当に楽しかったけれど、当然のように主役がひとりぼっちになる瞬間は殆どなくて、ヒロは落ち着いてなるにおめでとうも言えなかった。プレゼントを渡すときに一応は祝いの文句を告げたけれど、欲を言えば二人きりになりたかったというのが正直な本音だった。
 だから翌日にでも、こうしてなるの家にお邪魔して二人でいられるのではという可能性に素直に飛びついてしまったのだが、がっつき過ぎだろうか。今日ここに来るまでに最悪自分以外にも手伝いに誰か呼ばれているかもしれないと冷静さを心がけてきたけれど、いざ来てみればやって来たのはヒロ一人だけとのことだった。
 なるが運んできた箱に、間違えのないよう、飾った際に取りだされた箱へとしっかり納めていく。彼女の誕生日である昨日がひな祭りであったことは知っているが、当日が過ぎればそそくさと片付けなければならないのは大変だと、ヒロは黙々と手を動かす。なるも慣れているのか、直前の名残惜しさとは裏腹に脇道に逸れることなくそっとお雛様をしまっているところだった。

「――なんか意外だな」
「え?」
「なるちゃんのことだから、もうちょっとだけ飾っておきたいとか、片付ける前にもうちょっとだけ眺めてからとか、躊躇うんじゃないかなって思った」
「ええーー?」
「ごめんね、なんとなくそっちの方がなるちゃんっぽいなって」
「ううーー!」

 大事にしているようだったから猶更だと、素直に言ってしまうとなるは心外ではあるが心当たりがないわけではないのか、具体的な文句を言うこともできずに頬を膨らませて唸っている。

「ら、来年もまた飾るから、いいんです!」

 漸く絞り出した言葉は、確かにその通りだとヒロを納得させる内容で、ただ子どもっぽくそっぽを向いたままのなるが言うからどこか言い訳じみている。
 それからヒロは、今こうして片付けている人形たちが来年また彼女の手によって飾られるのだと想像しようとする。想像の中のなるは今目の前にいる姿のままで、一年後の姿なんてわかるはずもなかった。たった一年、大袈裟に変化することもないだろう。傍で過ごしていれば、もしかしたら変化らしい変化なんて気付かないことだってあるだろう。それでも、漠然とした不安はヒロの中に存在していて、自分と彼女は一年後どんな風に接しているのだろうなとど考えてしまう。接していれたらいい。出来れば、今より進展した関係で。それはたぶん、どうしたってヒロの努力次第なのだけれど。

「ねえヒロさん、」
「ん、なあに?」

 ヒロが考え込んでいる間に、なるの機嫌はあっさりと回復したらしい。ころころと変わる表情が魅力的ではあるけれど、ついつい苦笑してしまう。嗚呼可愛らしいなんて、振り回されている自分に。

「今年はひな祭り過ぎちゃいましたけど、来年同じようにこの子たちを飾ったら、ヒロさん見に来てくださいね」
「……うん。でもそれは、今日片付ける前に見るのと違うものなの?」
「違いますよ! だってクリスマス前に見るツリーとクリスマス後に見るツリーってやっぱり違うじゃないですか!」
「わかるような……わからないような……」
「雛人形っていつまでも飾って置けないし……。あっ、でもついでにまた片づけも手伝ってくれたら嬉しいです!」
「なるちゃん……」
「ち、違いますよ!? 手伝って貰うことが目当てじゃないですってば!」

 慌てて手を振りながら弁解するなるに、ヒロはわかっていると頷きながらも「本当かな〜?」とからかうこともやめられない。他意はなくとも、来年もこの場所にヒロがいることをなるも望んでくれているのだから、幸せに緩む頬を誤魔化すためにも場の空気が賑やかであってくれる方が好都合だ。耳がやけに熱いくて、赤くなっているであろうことに彼女が気付きませんように。

「――なるちゃん、」
「? はい?」
「お誕生日おめでとう」
「え? それは昨日ですよ?」
「うん、だけどなるちゃんの誕生日が昨日で本当によかったなって思ったから、もう一回」
「? うふふ、変なヒロさーん!」

 来年も同じように、なるの誕生日を祝おう。その翌日には、彼女の家に飾られている雛人形を一緒に片付けよう。そこにはちょっとだけ成長した彼女と自分がいて、そんなちょっとだけが、ヒロが望む限り積み重なって行けばいいと思う。
 会話に花を咲かせすぎたと、片づけを再開する。そのとき、なるが小声で呟いた言葉はヒロに向けたものではなかったけれど彼の耳にもしっかりと届いていた。

「雛人形、ひな祭りが終わったらすぐ片付けないとお嫁にいくのが遅れちゃうよ〜」

 迷信か言い伝えだろうか、女の子のお祭りのジンクスなどヒロは知らなかった。真に受けているのか呟いて手を動かすなるの眉は下がっている。自分がお嫁にいけない姿でも想像しているに違いない。
 ――でもその想像を打ち消すために、俺は何年後のなるちゃんを予約すればいいんだろう?
 たった今、来年の約束を交わしたことに浮かれているような身で。具体的なことなど何もわからない未来のことを、何と求めていけばいいのだろう。
 けれどこれだけは言えるだろう。

「なるちゃんは凄く可愛いお嫁さんになると思う」
「えっ、あ、ありがとうございます……」

 誰のお嫁さんになると思ったのか。それはまた来年、同じように持ち主の女の子の婚期を握っているらしい人形たちを片付けながら打ち明けられればいいなと、ヒロはお内裏様をしまった箱にふたを閉めた。
 来年まで、ごきげんよう。



―――――――――――

3/3、Happy Birthday!! 彩瀬なるちゃん

365日を数えたい
20150303




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -