※ヒロ→(←)なる+べる



 午後の日差しだ。寝過ぎたと、ヒロが起き上がるのと同時に腹の虫が鳴った。昨晩は、もう日付が今日に変わった深夜に帰宅して、そのまま力尽きてベッドに重たい足を引きずってどうにか辿り着いた所で記憶が途切れている。伸びをして、身体をほぐすと睡眠は充分とれたようで、意識もはっきりとしてきた。そのままシャワーを浴びて、歯を磨き、洗濯機を回す。軽く部屋の掃除をして、溜まっていた郵便物を整理。やるべき作業をこなしている内は、寝起きになった腹も大人しくしている。こういうところは、よくよく調整された身体だと、ヒロは自身に感心してしまう。二回目に空腹を告げる音が鳴ったのは丁度洗濯物を干し終えて作業がひと段落したと息を吐いたときだった。軽く外で何か食べてこようと、上着を羽織って変装用の眼鏡をかける。正直家で一日中ゆっくりしていたかったが、だからこそ掃除し終えたばかりの部屋で、洗い物を生み出す料理をする気にはなれなかった。準備を終えて、玄関の扉を開けようとした瞬間、ヒロのスマホが震えた。取り出してみると、メールが一通なるから届いていた。驚いて、手にしていたスマホを一瞬落としそうになって慌てて持ち直す。なるとのメール自体は珍しくもなくて驚くほどのことではないのに、届くと予想していなかったタイミングで不意打ちを食らったかのようにばくばくと心臓が脈打つ。内容はきっと他愛ない雑談だろうけれど、表示された彩瀬なるという四文字に浸って、ヒロはなかなかメールの本文まで辿り着けないでいる。自宅で良かった。誰か知人にでも見られていたら、呆れられていただろう。なる本人を前にしていないメールですらもこんなに一喜一憂しているから、未だに告白に漕ぎ着ける気配すらないのだろうと。
 ――大きなお世話だよ!
 精一杯の強がりを心の中で唱えることで意を決し、ヒロは漸くメールを開いた。文面を読み込むよりも、使われている絵文字の色が飛び込んできて、なるの軽やかな口調をありありと脳内再生させた。
 内容は想像通り他愛ない雰囲気で、けれど全く要件としての形がないものでもなかった。べるからヒロが暫く忙しさから解放されると聞いているので近い内に以前借りたCDを返したいので都合のいいときに会えないかという、ヒロにとっては大変都合のいい、幸せな誘い文句が綴られている。貸したCDが、自分たちのアルバムであるという点が若干気恥ずかしさを誘うのだが――なるの前でCDのジャケットや雑誌の表紙を飾っている自分と目が合うと、ヒロは思いの外ぎょっとしてしまう――、なるが自分に興味を持ってくれていたのでつい「貸そうか?」と言ってそのとき発売されたばかりのアルバムを貸したのだ。後日、べるから「そこはプレゼントするところでしょ!!」と仁王立ちされた挙句に彼は正座をさせられたことは未だにちょっと苦い思い出である。
 なるの方から深い意味はなくても会いたいという文面のメールが届いたことに数十秒ほど感動を噛み締めて、それからどう返信すべきかを考える。いつでもいいよは偽りのない本音だが、優しいというよりも優柔不断に思われるのではないか。心意気としての今からでもいいは相手の都合を考慮していないし、明日というのもやはり突然すぎるかもしれない。ヒロ自身、心の準備というものが必要だ。
 心の準備。それは、とても重要なもので、厄介で、邪魔くさいものだとヒロは眉を顰めてしまう。なるを好きになるまでは、気分次第で気儘になるの前に顔を出せていた。偶然の遭遇に、笑顔を浮かべるなんてわけなかった。優しい言葉だけで、なるの笑顔を他人事のように眺めては何も思わないまま手を振ってわかれていた。そういった、知り合い程度として交わしてきた言動の全てがいつからかヒロの手から零れ落ちて行ってしまったから、今のヒロはとても不自由だ。なるの前で、自然体でいられない。それはとても格好悪いことのようにヒロには思えた。嫌う必要がないと心の片隅で理解しているのが、せめてもの救いだった。
 玄関に座り込んで、結局明日以降の午後ならいつでも大丈夫だという微妙な指定文句で返信した。午後からとしたのは、用事があったとしても午前中に済ませてしまえば長い時間なると一緒にいられるのではという打算があるから。もっとも、なるの爛漫さからすれば、用事だけ済ませてそれではと頭を下げて手を振って立ち去ってしまう可能性も大いにあるわけで、ヒロの心は当日まで休まることがないのだろう。たった一通返信しただけでやけに疲れてしまった。肩を落としていると、けれどいい加減出掛けろと急かすようにまたお腹が鳴った。やはり、随分空気を読んで黙っていてくれたものだと感心した。
 ヒロから、明日以降の午後ならいつでもいいという返信を受け取ったなるは悩んでいる。両手でスマポを持ちながら、右へ左へと行ったり来たりしている。そんな彼女をダイニングキッチンで洗い物をしているべるは心配と呆れを含んだ眼差しで一瞥した。それはたぶん、なるだけでなくヒロに対しても向けられたものだ。ヒロに借りたものがあるから、そろそろ返したいのだけれどなかなか会う機会がないと相談されたべるは――彼女が今洗っているのはこのとき使っていたティーカップである――、それなら今日からヒロは暫く仕事がオフになっているはずだから誘い出しなさいとけしかけたのである。これは勿論、なるのためだ。ヒロの密やかな恋路を助けてやろうと思ってのことではない(はず)。疑うことを知らないなるは、己の思考との葛藤を誤魔化すように咳払いしたべるに素直に礼を言うと早速ヒロにメールを送った。ヒロのことだからなるからメールが来たら直ぐに返信するはずだというべるの予想は外れて、最初の返信が届くまでに30分ほどかかった。

「ねえべるちゃん、明日以降ならいつでもいいって、いつって言えばいいんだろう?」
「いつでもいいって言ってるなら、いつでもいいんじゃないの?」
「それがわからないから聞いてるのに〜!」

 先程から似たようなやりとりを何度も繰り返している。カレンダーとメールを交互に見遣り「明日は急すぎるかな?」「でもこの日じゃなきゃダメってわけでもないし……」などとぶつぶつ悩んでいる。そもそもCDを返してそれでさよならならば1分もあれば済んでしまう用事だ。すると今度は「どこかでお茶とかしてお礼した方が?」などと新しく悩みの種を増やしている。
 ――まあ、お茶してあげたらヒロは喜ぶでしょうけどね。
 アドバイスはしないまま、べるは肩を竦める。なるの気持ちがはっきりと好意としてヒロに向かっていない現状では、べるは二人に対してできるだけ公平でいたかった。しかし今回ばかりは、目の前で頭を抱えて眉を下げるなるの姿があまりに可愛い――否、不憫だったので、口を挟むことにする。勿論、ヒロを不利にするような内容ではないのだから許されるだろうという自信は持っている。

「明日でいいんじゃない? なる、明日も暇なんでしょう? だったら、用事が立て込んでない方が何かと臨機応変に対応できるんじゃないかしら」
「――そっか、直接会ってから決めればいいんだよね!」
「あまり間を置いて待たせるのも、ヒロが可哀想だしね」
「……? 遅刻はしないよ?」
「うふふ、そうしてあげて。あなたが遅刻すると、ヒロは何かあったのかと心配のし過ぎで胃に穴が開いちゃうかもしれないもの」
「!?」

 二人の会話は正確には噛み合っていなかったが、べるにはそのちぐはぐが楽しかった。ヒロはきっとこの素直さに苦戦するだろう。彼自身はもう攻略されているというのに。
 なるは、べるが手元に視線を戻したことで会話はこれ以上続かないと察したらしい。ヒロの胃に穴が開くという物騒な事態の可能性に疑問を感じながらも頼りになる彼女のアドバイスに従って、明日でもいいだろうかとヒロに再度メールを送る。今度の返信は、一通目よりもずっと早く届いた。

「――、ヒロさん、明日大丈夫だって!」
「そう、良かったわね。焦らされなくて」
「? うん! 待ち合わせ場所は――プリズムストーンの前にしよっと」

 今度は迷わず、なるも場所と時間の指定を返信する。その様子を、洗い物を終えたべるは眺めている。べる自身、異性とこんな風にやり取りして外で会う約束をしたことがないので、詳しいことなどわからない。けれど借りたCD一枚、共通の知人であるべるを前にして彼女を介そうとか、偶然会えたらいいなくらいの軽い気持ちでエーデルローズに遊びにきたりしないで、会おうという意思を持って連絡を取ること。それだって一種の好意のように思えてならない。自覚があるかどうかはまた別の話だけれど。
 だからべるも悩んでいる。明日は何を着て行こうかなと楽しそうに悩んでいるなるの隣に立って、微笑みながら真剣に悩んでいる。こんな風になるがヒロとのやりとりで真剣に悩みながら言葉を選んでいることだとか。借りていたCDも、結局レンタルでは返さなくてはいけないからと自分でも購入したこと。今日、そのCDの感想を聞かされながらやけにヒロの話題が多いような気がしたことなどを、ヒロに教えてあげるのは彼への肩入れになってしまうかどうか、悩んでいる。




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待ち合わせなら明るい場所で
Title by『さよならの惑星』



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