自宅の電話が突然鳴りだしたことに、なるはびくりと肩を震わせた。それから、電話が鳴っているということは、受話器を取り上げなければならないということだと反射で理解するよりも先に、電話はそもそも突然鳴るものだと彼女自身を納得させてから立ち上がらなければならなかった。手にしていたカーペットクリーナーをその場に残して――なるがソファやカーペットの上をころころと走らせていたそれを、興味深そうに眺めていた飼い猫のブルーに、触っちゃダメだよと通じるかはわからない注意をしてから――、駆け足で「はーい」と返事をしながら電話の元へと向かった。取ろうとする意思があるのに、出遅れた為に留守番電話のメッセージが再生されてしまうと、なるはその電話を途中で取り上げていいものかどうかひどく悩んでしまうので、あと数回呼び出し音が繰り返される前に、なるは目一杯腕を伸ばした。

「はい、彩瀬です」

 ぎりぎりセーフ。自動音声に切り替わる前に、きちんと応対できた。ひとり得心顔で背後を振り返れば、カーペットクリーナーをブルーが前足でつつこうとしているところだった。くっついたゴミがそのままで――量は多くないけれど、換毛期を迎えたブルーの毛を逃さず回収するのは結構な重労働だ――、何より粘着テープにその小さな足が貼りついてしまっては大変だ(だってべたべたする)、なるは咄嗟に「ばっちい!」と声に出していた。突然のことに、先程電話が鳴りだした時のなるのように驚いたブルーは「どうしたの?」と尋ねるようになるの方を見て「もしかして、呼んだ?」と彼女の方に向かって歩いてくる。その姿は、直前まで人間のなるにはただの掃除用品に過ぎないクリーナーを、首を方々に回しては覗き込んでいた生き物とは思えない貫禄すらあった。

『――ばっちい?』

 愛猫への賞賛の言葉は、ぴったりと耳に当てた受話器から聞こえてきた声によって、なるの喉の奥へと留め置かれた。そういえば、もう電話を取っているのに随分素っ頓狂な声を上げてしまった。恥ずかしい。声の主はきっと、怒ってはいないだろうけれど。たった一言、耳に届いただけでなるには予想がつく。彼はとても優しい人だから。

「ヒロさん!」
『うん、そうだよ』

 名前を呼んだだけで、電話を掛けてきた相手が名乗るより先に当ててみせたのだとわかってくれる。「なあに?」ではなく「そうだよ」と返してくれる。会話のピースがぴったりと組み合わさっていく満足感。
 けれどいつもならスマポに連絡をくれるはずなのに。もしかしたら、家の電話にヒロから連絡が入るのは初めてではないか。そう思うと、もっとドキドキして、慎重に、意気込んで受話器を取ればよかった、後悔。電話は突然鳴るものだけれど。足首にブルーがすり寄ってくる。膝を曲げて、なるはその背をゆっくりと撫でてやる。電話機の周辺は掃除を終えた場所なのに、またブルーの毛が僅かに落ちたのが見えた。 ――やり直し。がっくりと頭を垂れそうになるけれど、今日は一日オフで時間があるのだしいいだろうと思い直す。しっかり掃除をするということは、しっかりしている感じがして格好いい。おかしな日本語だけれど、なるはそう思っている。

『先にスマポにも電話したんだけどね、繋がらなかったからこっちに掛けたんだ。今、大丈夫?』
「電池がなくなっちゃったんで、部屋で充電してるんですよ〜。あ、そういえば電源切ったままだったかもしれません」
『そっか。何にもないならいいんだ。それでね、なるちゃん、急で申し訳ないんだけど――』

 申し訳ないことは、きっとないですよ! そう口を挟みそうになるのを、なるは唇をぎゅっと引き結ぶことでどうにか堪えた。ヒロの丁寧な低姿勢はときどきなるをむっとさせる。なるだって、似たようなことをきっと日常生活の中で、仲の良い相手に言っているのだろう。思い出せない例えは、もしかしたらヒロも、定型文じみた、口癖の類で前置きにへりくだった態度を持ってきているのかもしれない。こういう考え方は、意地の悪い考え方だ。今度は、なるは彼女自身に対してむっとする。なるの「むっ」は「イラッ」ではなく「おや?」とニアリーイコール、首を傾げるほど不思議ではないけれど、見過ごすにはどうしてかなあと会話や動作の躓きのきっかけになってしまう。
 ――どうしてかなあ、ヒロさん、申し訳ないんだけどなんて言わないで、あのねって、それだけで私に聞かせたいこと全部、話してくれないのかなあ?
 受話器はワイヤレス。けれどなるは空いている手の指で古い受話器のコードに指を通して回す様に、宙をぐるぐると人差し指でかき回す。けれどいくらヒロの控えめな態度にむっとしてしまったからといって、彼の言葉に耳を傾けないということはできない。なるは耳にずっと当てている受話器から、とても素敵な言葉が届けられると言わんばかり、両手でしっかりとそれを持ち直した。

『なるちゃんちの方の駅の傍にね、新しく喫茶店が出来て、今そこにいるんだけど。紅茶とか……コーヒーもだけど、ケーキとかお茶菓子もいっぱいあって楽しいよ』
「わあ! 素敵!」
『それでね、もしよかったら今から来ない? ごちそうするよ?』
「――行きます! ええっと……、でも、うーー!」
『? 何か予定あった?』
「違います! そのですね、ヒロさんに、ご馳走になりに行くんじゃないですから!」
『――……会いに来てくれるの?』
「はい! 声を聴いたら、何だかとってもヒロさんに会いたくなりました!」

 受話器を持つ手に、ぎゅっと力を込める。ほら思った通り、とても素敵なお誘いをいただいたでしょう? まだ足元にいるブルーに微笑みかける。会いたい人に、会いにきてと言われる喜び! なるはその場でくるりと一回転した。驚いたブルーが巻き込まれないよう素早く離れていく。驚かせてごめんね、とウインクする。背けられた顔は、「惚気ないでよ!」と怒っているようだった。

『転ばないように、気を付けておいでね』
「大丈夫ですよ!」

 子ども扱いしないで下さいと訴えて――なるのこの主張がヒロに聞き入れられた例はなく、これは子ども扱いではなく特別扱いだということを、ヒロが恥じらって伝えない所為だ――、それから二言三言、詳しい場所を教えて貰ってからなるは電話を切った。「それじゃあ待ってるね」というヒロの言葉から、彼が通話の終了ボタンを押すまで十秒くらい間があって、なるはしっかりその間を待ってから受話器を置いた。
 それからは、まず慌てて自室に戻り充電器に繋いだままのスマポの電源を入れて、確かにヒロからの着信が三回、メールが一通届いているのを確認して、鞄に放り込む。洗面所で身嗜みをチェックして、着替えている時間はないかと時計を見て、それから掃除の途中だったことを思い出した。

「あーー、どうしよう……」

 クリーナーのゴミを取ったテープをびりびりと破いてゴミ箱に放り込みながら、なるはブルーの姿を探す。ブルーはダイニングキッチンの椅子の上で、大きく欠伸をしているところだった。

「そこでじっとしてて、なんて無理だろうなあ」

 ケースにクリーナーを仕舞って、なるは衣服にゴミやブルーの毛が付いていないかどうか確かめる。ブルーはなるの要求などわかりませんといった風に優雅に尻尾を揺らしている。

「あのね、ブルー。私、これからちょっと出掛けて来るね」

 にゃあ、タイミングよくブルーが鳴く。気持ちよく、なるを送り出すように。

「帰ってきたら、お掃除の続きするから、できたらあんまり毛、落とさないでね!」

 にゃあ〜、今度は低い鳴き声だった。無理を言うなと、なるを咎めているように。

「ヒロさんからお誘いって珍しいから、楽しみなんだー!」

 今度はブルーは鳴かず、もう組んだ前足の上に頭を乗せて無視を決め込んだ。なるの惚気には興味がないというように。
 ブルーが人間だったら、そしてなるの友人たちと似たような思考回路をしていたら、そもそもなるの自宅寄りの駅で喫茶店に入っていること自体が怪しいのではくらいの指摘はしていたかもしれない。どちらにせよ、なるを笑顔にしてしまうことには変わりないので、幸せならたぶん、それでいいのだろう。
 掃除はまた明日にでも、頑張ればいいのだから。



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天使は浚われたよ。とても幸せそうに、この部屋を出ていったよ。





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