電話の向こうは随分賑やかだと、ヒロは駅のホームで必死に耳を澄ます。通話相手のなるは、自分の周囲よりも今話しているヒロの様子が気になるのか、「ヒロさん、随分賑やかな場所にいるんですね」とヒロと全く同じ感想を漏らす。「そっちも随分と――」周囲が騒がしいことに言及するのは非礼ではないようだと、ヒロが漸く喋り出そうとした矢先、ホームには電車が入ってきて、その騒音に紛れてなるの声がよく聞こえない。ヒロが喋ろうとしていたから、黙って続きを待っているのかもしれないけれど、自分の声もよく聞こえなかった。電車から降りてきた客と、我先にと乗り込もうとする客の間を器用にすり抜けながら、ヒロは人の流れに逆らってホームの端に移動する。本当はヒロも今到着した電車に乗って仕事から帰ろうとしていたのだが、電車の中では通話が出来ないのだから仕方ない。一本くらい見送っても次の電車話すぐ来るのだからと喧騒に背を向けて、なるに会話が一時途切れてしまったことを詫びる。 大抵の人間が、こういうとき電車に乗り込む方を優先することをヒロは理解しているし、自分がそれを出来ない人間だとも思っていないのだ。 ごめん、電車来たから掛け直す。 それくらい、簡単に言える。ただ今回は相手がなるだったので、ヒロは自分の中に特例を設けているのだ。それを、恋による盲目と呼ぶも、なるへの盲目と呼ぶも勝手だけれど、ヒロ自身振り回されているという自覚はあれどもそれが恋になのかなるになのかは今一つ判然としていない。 「なるちゃん、随分賑やかな場所にいるよね?」 途切れてしまった言葉をもう一度言い直した。疑問符を付けたのは、なるの周囲は大抵彼女とその友人たちが集まれば華やかに賑々しいからで、尋ねたのは普段とは違ってというニュアンスを察して欲しかったからだ。そして大抵、ヒロの遠回しな含みはなるには届かないのだが。 『ヒロさんは今駅ですか?』 こんな風に、時にはヒロの質問を飛び越えて次の会話に映ってしまうこともある。もしかしたら、ヒロの質問になるは電話の向こうで頷いたのかもしれない。賑やかな場所にいると聞かれて、はい、そうですよと頷いて自分の回答は終了。次の会話に移行するという流れはなるだったらありえなくもない。きっと元気よく頷いたのだろう。想像して、可愛いなあと頬が緩むけれど結局ヒロはなるがどこにいるかはわからずじまいである。 しかしなるに自分の質問への答えがはっきりと貰えなかったからといって、意趣返しに彼女の質問に焦らした答えを用意しようとも思わない。素直ななるを相手に、意地悪をするのは直接顔を見てその反応を窺えるときに限られている。それでも、頬を膨らませる程度のものに留めている。笑って欲しいと思うことと、幸せでいて欲しいと思うことと、泣かないで欲しいと思うことはどれもちょっとずつ意味が違っていて、ヒロはなるが涙目になって膨らませた頬をつつく記憶に幸せを思い出す。そしてふと、もう随分と長い間なるに触れていない気がしてきた。 「――なるちゃんに会いたいな」 思わず呟いてしまった本音は、ヒロとなる、どちらの周囲の喧騒もかき消してはくれなかった。とっくに電車が出発してしまった駅は、先程までの騒々しさは残っていない。 なるの質問にも答えていなかったことに気付いて、「あ、僕は今駅にいるよ。これから帰る所なんだ」と言い募ったのは、如何にも会いたいという気持ちを恥ずかしがっているように聞こえてしまうだろうかと不安になった。本音だし、訂正する気もないのだ。ただ、自重のできない男だと思われるのは不本意だった。 ――不本意! この期に及んで取り繕いたいのだろうかと、ヒロは体裁という意識に頭を抱えたくなる。格好つけたいのは、仕事柄だろうか。男だからだろうか。後者なら、なるや、基本的に彼女の味方であるその友人たちに指を差されてもだって仕方がないじゃないかと言葉で負けても気持ちだけは強く持てるのだけれど。 「私も、ヒロさんに会いたいですよ」 そう答えてくれたなるの声は、随分近くから聞こえたような気がした。 きっとヒロさんは知らないだろうけど。 なるが人並みに惚気話を始める時、或いは締め括る時によく使う言葉だった。べるは息を吐く。楽しそうに語ってくれたのに、その、ヒロは知らないだろうけれどという一文はどうしてかなるを物寂しく見せていた。 なるはヒロが大好きなのね。 そう、べるは何度もなるの気持ちを確認してきた。言葉に出して、問い質すのではなく、二人の関係を友人として非常に近い場所から見守っていればわかることだった。祝福を根底に、でも私はなるとの距離を見直す必要はないのよねと執拗に確かめたい時期があって、それがやきもちということに気付いたのは、あんやいとが既に付き合っているヒロからなるを守るように背中に隠している現場に出くわした時だった。成程、とべるは目が覚める気がした。なるがヒロに独占されてしまうなんて、それはとても我慢できないことだわと心底思った。ちょっとだけつついて慌てさせてやりたい。意地悪だろうか。それはヒロに判断して貰う。大好きななるを傷付けないようにと――ヒロのことだって好きだけれど友情は恋愛と同じ土台でないことが悔しいのだから――、邪魔はしていないつもりだ。 ヒロはなるを大切にしていて、なるもヒロを大切にしていた。けれどどうしても、想いだけでは目に見えて掛ける感情の比重が違って見えるらしい。当事者であっても、信じていても、不思議なことに。 なるはそれを、自分がそそっかしいからだと思っている。自分からヒロに目に見えた世話を焼いてやれないからだと。べるは気にしなくていいと思っている。なるが転びそうになったところを受け止めたり、なるが背伸びしても届かない棚の上の資料を軽々と取ってあげたり、帰り道は決まってなるを自宅まで送り届けたり、うっかりするとすぐヒロがなるの頭を撫でてしまったりすることは、なるが、一方的にヒロからの愛情を享受して何も返していないということにはならないはずだ。でなければ、ヒロは何もなるに与えなくていい。勿論、見返りがあるから好意的になるのではない。いつだって好意が行動の先に立つ。けれどそれでいてヒロはなるが好きなのだから好きにやらせておけばいいのだ。なるがちょこんと傍に駆け寄って抱き着くだけで、荷物持ちなどいくらでもやってくれそうな男がヒロなのだから。 「きっとヒロさんは知らないだろうけど、私、ヒロさんのことすっごい好きで――」 「ええ」 「お仕事頑張ってるの、格好いいなあって……」 「ええ」 「でも同じくらい寂しくって、会いたいなあって思うの、べるちゃん、私わがままだと思う?」 「いいえ?」 エーデルローズのラウンジで、なるがぽつりぽつり慎重に吐き出す言葉に、べるはひとつひとつ相槌を打つ。 きっと、ヒロは知らないだろうけれど。なるが、恋愛感情を加味して、それが特別であることを意識して、その上で昔と変わらない、いつ好かれたのかもはっきりとはしないけれど嫌われてもいなかったはずの友だちだった頃のようにヒロの負担にならない自分でいられているだろうかと悩んでいること。それでも、なるにとってヒロはもうかけがえのない大切な男性になっていること。 自惚れられては困るけれど。 紅茶のカップに口を付けながら、べるはここ数週間仕事で忙しいとエーデルローズにも殆ど顔を出さず、なるともなかなか連絡が取れないでいるヒロの顔を思い浮かべる。自惚れられては困るけれど、自覚がないのもいけない。べるがなるをエーデルローズに連れ込むのは、決まってヒロが仕事で顔を出さないと予測がつく日で、それは気兼ねなく友だちを独り占めしたい密やかでいて露骨な親しみからくるものだったが、その親しみはいつだってなるの幸せを願って止まない。 だからべるは待っている。なるが来るからとはりきって紅茶の用意をしてくれたおとはが調べ物を終えて戻ってくるのを。あの世界で一番ではないかもしれない、けれどべるの世界ではトップクラスの幸せ者に躍り出た、エーデルローズの男子のリーダー様がいつ頃帰って来るか。今日で一段落するはずだとは、リーダー同士の予定を打ち合わせたときに一応聞き出している。 なるが弱気になっているのは、ヒロとなかなか会うことが出来なかったせいだ。だから明日にでも会いに行けばいい。そう、お互いをせっついてやればいいとはわかっている。今日は仕事終わりで疲れているかもしれない。なるだってそう思うだろう。 だがしかし。疲労を理由に妥協をしない、それが蓮城寺べるである。寂しさに揺れた愛の為、人は恐れず立ち上がらなければならない。 「――なる」 「なあに?」 「あなた、ヒロを迎えに行ってらっしゃい」 「え、」 「会いたいなら、会いに行けばいいのよ。居場所なんてすぐに聞き出せるんだから」 「――でも」 「会いたいと思える相手がいるって、素敵なことよ」 「…………」 「手放さずに、飛び込まなきゃ」 「――うん」 「よろしい」 べるの静かな鼓舞に、しっかりとなるは頷く。ぱたぱたと足音を立てながら、おとはが嬉しそうに頬を上気させながら此方へ駆け寄ってくるのが見えた。 ターゲットは、どうやら帰ってこようとしているらしい。 擦れ違ったらどうしようって、そればっかり考えていた。 なるは、駅のホームでヒロの背中に張り付いたままほっと胸を撫で下ろしている。 仕事が忙しいからと、ヒロと会えない日が続くことは別に珍しくなかった。だからなるはその度に寂しいと思っていた。メールも電話も、どこからが恋人としての礼節を守っているのか線引きがわからずに他愛ない挨拶くらいしか喋ることができなくて、段々と自分からボタンを押すこともできなくなっていく。ぷっつりと途切れてしまう前にヒロが帰ってきてくれれば問題はないのだ。そこで迷いのスタート地点は毎度巻き戻される。寂しさも同じように、ヒロに会えば消えてくれる。 好きな人に会いたいと思うのは当たり前のことだとなるは思っていた。だって思うことは片想いの頃から自由だった。声に出して、相手を操作しようとしてはそれはもうなるにとって我儘に映る。なるは相手が思い通りにならないという理由で腹を立てたことも悲しんだこともない。そもそも相手が自分に都合よく動いてくれたらという発想の元で生きていないのだ。 だから恋人であるヒロに、自分を好きでいていてくれる以外に何を期待して良いのかわからないまま、なるは寂しいと思い続けてきた。ヒロはきっと知らないだろうけれど。なるが、ヒロをどんなふうに愛しているかなんて。 ――会いたいと思える相手がいるって、素敵なことよ。 べるの言葉が蘇る。素敵なことは、許されるということだろうか。なるは難しいことはわからない。だから頭の中で情報の処理が追いつかないと混乱して、泣きそうになる。ヒロに会えなくて寂しくて、すごく会いたいと思った。だからこうして会いに来たことは、許されるのだろうか。答えはきっと、ヒロの背中に押し付けた顔を上げて、彼の表情を窺えば知れることだ。いつもみたいに、笑ってくれるだろうか。 ああでも、ちょっとだけ、長いこと会えなかった寂しさが抜けていく様子がヒロさんにも見つけられたらいいのに。 またわがままだと、なるは回す腕にぎゅっと力を込める。ヒロが最後に仕事で立ち寄った場所から使用する駅と降りる駅は、べるが調べてくれた。ヒロがその仕事場を後にした時間をおとははわざわざ相手に電話して確認してくれていて、ヒロが降りて来るであろう駅で待っていた方が確実な気がしたけれど、それでは時間が余りすぎるとべるに付き添われて駅の改札の向こうに放り込まれた。すれ違っても、べるとおとはが残ってヒロを見つけたら電話で呼び戻してくれる算段にはなっていた。そして実際、電車の本数と人混みを考えれば彼女たちに助けてもらうことになるだろうと、なるは自分とヒロの運命に、さほど期待はしていなかった。 でも、会えた。 期待はしていなかったけれど、自分もきちんとヒロを探そうと久しぶりになる通話ボタンを押した。発信記録から呼び出す番号は随分と下に追いやられていて、一瞬なるの気持ちが翳った。大丈夫、こうして一番上に来たもんと己を励まして耳に当てたスマポは無機質な呼び出し音になるの気持ちが下降気味になる直前に繋がった。ヒロは仕事終わりだというのに明るい声で応えてくれた。それが、相手がなるだったからだと自惚れたくて――実際その通りである――、なるも自然と弾んだ声を出していた。ただどうやらヒロも駅にいるらしく、二人の周囲はがやがやと騒がしくなるは自分の声とヒロの声、どりらが聞き取りづらいのかわからないほどだった。 『そっちも随分と――』 賑やかなところにいるんですねという質問に、切りかえそうとしていたのだろう。だがヒロの声は、聞き取れなくなったのではなく途切れてしまった。 ――ホームに電車が参ります。 アナウンスが、駅のスピーカーとスマポの両方から流れて来て、なるははっと顔を上げる。ヒロがいる。このホームにいる。そう思い、きょろきょろと辺りを見渡す。なるがもっと小さかったら、きっと親とはぐれてしまったのかと心配されていただろう。それくらい必死な顔をしていたはずだ。 ホームに滑り込んできた電車のドアが開いて、人間が吐き出されては吸い込まれていく。改札へ向かう人の流れを必死にかいくぐって、ヒロがこの電車を待っていたのなら、もしかして乗り込んだ方がいいのだろうかと迷うのと、ホームの端へと歩いていく探していた背中を見つけたのはほぼ同時で、一瞬混乱してなるの足はもたついてしまった。 電車のドアが閉まる。ヒロは耳に携帯を当てたまま、動き出した電車には目もくれない。 ――私と通話してたから! なるもスマポを耳に当て直して、駆け出す。人が多いので、速足よりちょっとスピードが出る程度の進み。けれど確実に距離は縮まっている。 『なるちゃん、随分賑やかな場所にいるよね?』 ――ヒロさんのちょっと後ろにいるんです、はい、ええ、ここは賑やかですね。ああでもよくわかりません、心臓、うるさくって! 気ばかり急いて、言葉は一つも出てこなかった。振り向かないかな、いや振り向かないでいい。そんな期待を浮かべては打ち消して現実がここにあることを一歩ずつ確かめていく。 『――なるちゃんに会いたいな』 囁かれたヒロの本音に、なるは寂しさに張りつめていた身体が途端に安心して溶けてしまいそうになる。 ――会いたいと思える相手がいるって、素敵なことよ。 またべるの言葉が蘇る。 ――ねえべるちゃん、会いたいって思ってた人が同じように私に会いたいと思ってくれてたことを、素敵以上の言葉で表すなら何て言えばいいんだろう? なるにはわからない。難しいことを考え過ぎると、混乱で涙が滲む。今もそうだった。けれど、たぶん、いやきっとこれは――。 「私も、ヒロさんに会いたいですよ」 会いたかったですよ。いつだって、会いたいんですよ。きっと、ヒロさんは知らないだろうけど。でもそれで、構わないのだ。全てを伝えきることが出来ないのが人で、それでも好きという想いを渡し合えたから、こうして触れることも出来るのだと、それだけでなるは、世界中の何番目かに幸せで、満ち足りていると思えたから。 久しぶりに飛びついた背中からは、懐かしく、大好きな匂いがした。 ――――――――――― わたしが生きていくための恋だ Title by『春告げチーリン』 るうかすさんへ。 10/20 Happy Birthday!! |