※オトメディア8月号ネタバレ含
※恋人設定



 ぼろぼろと零れ落ちてくる涙は、いつか無意識の内に迎えていた初恋を思い出させた。あの時、自分の手にすら余る涙を抱き締めて許してくれた女の子はもうなるの隣にいないのだからこの涙は自分で拭うしかない。簡単なことだ。泣きたくないなら笑えばいい。何か楽しいことを思い出して。今日の夕飯がグラタンなことを想像して。けれど何故だろう、目の前にいるヒロが驚いた顔でこちらを見ている姿を涙でぼやける瞳に映すと、なるの涙は次から次へと溢れてくる。公園のベンチに座っているなると、彼女の前に立ち尽くしているヒロの身長差は大きく俯いてしまえば簡単にその視線から逃れることが出来る。それがヒロを戸惑わせることもわかっている。それでも両手で視界に蓋をして、ヒロに見られていることを忘れて。もう一度楽しいこと全てを思い出せば次に顔を上げる時にはきっと笑える。心の内で自分をそう奮い立たせても、同じように自分の心が返事をする。この悲しい気持ちに向き合わない限り、楽しい気持ちなんて思いだせはしないだろうと。
 夕方の公園は人通りが少なくて、泣いている姿を大勢の人に見られずに済むことに微かの安堵を得る。それから、仕事が忙しいヒロと折角こうして会えたのに顔を見た途端泣き出してしまった自分が恥ずかしかった。俯きながら、膝に乗せた荷物が指の隙間から覗いてなるはまた悲しい気持ちを思い出す。そしてこの悲しさが今まで感じたことがない類のものであることにまたきつく目を閉じた。悲しい――それよりも怖いと言い表す方が正しい感情を、しかしなるは正確に名付けることができなかった。
 ヒロに会えるのが嬉しくて、待ち合わせ時間よりもずっと早くに家を出た。長く待ちぼうけていてもそれがばれるとヒロに心配されてしまうことを知っていたから、途中寄り道をした本屋の袋が僅かな風で音を立てる。ヒロのインタビューが載っているからと普段ならば購入しない男性アイドルを特集している雑誌など買ってみたりして。完全に浮かれていたのだなと数時間と経っていない過去の自分のことをぼんやりと思い出している。誰かと会う前に余計な買い物をするなんて、効率的じゃない。友だちと一緒に時間を潰せていたのなら、雑誌を買う前のなるを叱ってくれただろうか。そうしたら、買うにしても今日じゃなくてまた次本屋に立ち寄ったときにと先延ばしにして、公園に着いてからヒロを待つ間にと買った雑誌を開くこともなかっただろう。どうせ泣くにしたって、ヒロを目の前にしてではなく、彼を困らせることなく笑って言葉を交わして隣を歩きだせたかもしれない。過去の一点を修正して派生するもしもに想いを廻らせて、なるは漸く顔を上げてヒロの顔を見つめる。眼鏡を掛けているヒロの、フレームと前髪に隠れてもわかる心配そうな顔は、ステージで輝く時には決して見せない普通の男の子の顔だった。

「なるちゃん大丈夫? 何かあったの?」
「――ヒロさん」
「うん、何?」
「ヒロさんは、私が普通だから、手が届くから、好きだって言ってくれたんですか?」
「……誰が言ったの、そんなこと」
「……ヒロさん」
「え、」
「ヒロさん、ヒロさんじゃないけど、ヒロさんが言ったんです」
「……なるちゃん、もしかして俺のインタビュー読んだの?」

 なるを心配したヒロは、膝を折り彼女の顔を覗き込んでくる。垂れ下がってしまった眉を、いつものように上げて欲しくて。笑って欲しくて。けれどもしも泣いてしまうなら、その理由を教えて欲しくて。しかしなるが打ち明けてくれた理由は、予想外にヒロの心を凍りつかせるものだった。彼女の言い草では、まるでヒロがなるをお手軽な存在として捉えているニュアンスがありありと含まれていた。もしもそんなふざけた考えを彼女に吹き込んだ輩がいるのなら――苛烈に湧き上がった怒りは、膝の上にあったなるの両手を握った瞬間に触れた袋と、その持ち手の隙間から覗く見覚えのある表紙の雑誌を視界に収めると同時に頭の中がさあっと冷えていく心地がした。
 先日、独占ロングインタビューを受けた際の記事が載っている雑誌をヒロは先日マネージャーからサンプルとして受け取っていたので見間違いではなかった。なるはヒロのことを好きだと言ってくれるしその気持ちを微塵も疑ってこなかったけれど、ヒロの追っかけではないので雑誌や出演するテレビ番組への興味はそれほど持っていないと思っていた。ヒロ自身、本物が目の前にいるのだし、いなくても会いたくなればアイドルとしての自分を探すのではなく恋人としての自分を頼って欲しいと願っていたから一向に構わなかったのだが、何故今回に限ってなるは自分のインタビューが載っている雑誌を購入したのだろう。疑問に思ったけれど、これでなるの涙の理由が一つ紐解けた。それでも、泣くようなことはないだろうにとヒロまで悲しくなってしまうことに変わりはないのだけれど。

 ――恋愛ですか? そうですね、いや、流石に初恋くらいしましたよ。僕とはあまりにも身分が違う女の子で、諦めちゃったんですけど。確かに、自由恋愛の時代ですけど……そういう意味じゃなくて、住む世界が違うって表現は今でもするでしょ? そんな感じです。当人同士が気にしなくても、周囲からすれば似つかわしくないって指差されたりするじゃないですか。それで悲しい想いをするくらいならって思って。今ですか? それは秘密です。

 朧気だが、インタビューの質問が恋愛関連に及んだ際、このような受け答えをした記憶がある。アイドルとして、ファンを失望させないように。速水ヒロとして、自分を殺さないように。そして以前なるに打ち明けた失恋話を具体的に思い出話として披露したのは、それが本当に思い出となったからのつもりだった。普通の男の子には手が届かない女の子を諦めざるを得なかったから、次は普通の女の子を好きになろうと思ったわけじゃない。手が届く距離にいた手頃な女の子としてなるを選んだわけじゃない。なるが不安に感じることなんて、ヒロの過去には一つもないはずだ。その確信が、ヒロの、なるを好きになったという真実への潔白だった。

「なるちゃん」
「――はい」
「なるちゃんが好きだよ」
「……はい」
「もしなるちゃんが、その本に載ってる俺の言葉に傷付いたなら、それでも。それでも、確かにキミに打ち明けた失恋がくても絶対になるちゃんを好きになったと断言できないかもしれない。だってそうやって積み重ねてきた過去の俺が一つになって今ここにいて、たった一人なるちゃんを選んだんだから。だから、過去のことに目を逸らして、嘘を吐いて、キミだけが特別だよなんて言わないし、言えない」
「――わかってますよ」
「うん、ありがとう。でも信じて欲しいんだ。俺は、今まで生きてきて一番、なるちゃんが好きだよ。そしてそれを、過去に出会ったどんな女の子にも揺るがされたりしない。勿論、これからだって」
「本当ですか?」
「うん。だから、泣かないでくれると嬉しいな」
「えへへ、泣いてないですよ。ヒロさんのこと待ちくたびれて、あくびしただけですよ」

 ヒロの真剣な表情と言葉を疑い続けるなんてことはなるには出来なくて。なるの小さな両手を包むヒロの掌の熱と、籠められた力がいつの間にか彼女の涙をすっかり止めてしまっていた。
 真っ直ぐ過ぎるほどの言葉を貰い、泣き虫だった直前の自分を笑って誤魔化す。言い訳にもなりきらない言葉を、戯れの方へと引き寄せてくれるヒロの安堵の笑顔に、なるの頬には引っ込んだばかりの涙が最後に一滴流れて落ちた。それが悲しみの名残ではなく、ただの有り触れた普通の女の子が手にする幸せの涙だということを、なるはヒロが手を握っていてくれたから理解できたような気がする。

「ヒロさん、私のこと、絶対諦めないでくださいね」

 今日初めて見たなるの笑顔とお願いに、ヒロは迷うことなく頷いた。諦めるはずがない。ありのままの自分に、ありのまま出会ってくれた大切な女の子。彩瀬なるは、速水ヒロの最愛の女の子なのだから。



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天使が泣いちゃった
Title by『春告げチーリン』





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