ヒロが目を覚ますと、どうやらなるは席を外しているようだった。その不在に青褪めるほど彼女に寄りかかっているつもりもないが、媒介がいない、自分が本来いるべきではない場所に一人取り残されているという状況はどうしたって居心地が悪かった。うたた寝に覚醒しきらない頭でも(あるいは鼻でも)、ここがなるの自宅であることはその幸せの香りで直ぐに理解した。
 なるの家に招かれるのはもう珍しくもなくて、初めは本当に偶然に(後に何度か意図的なこじつけによって)遭遇したなるを自宅まで送り届けるようになって、そのお礼に上がっていくようにと誘われたのだとヒロは記憶している。彼女の両親は大切に育ててきた娘が突然年上の男を招き入れて来ても外見から漂う鷹揚とした態度を崩すことなくヒロを迎え入れてくれた。その時、ヒロはもう幾分か下心を持ってなるの隣を歩いていたものだから、若干の居心地の悪さを覚えたのだけれど(特になるの父親に対しては)、最低限の礼節は崩さずに突然の訪問客として及第点は取れたはずだと思っている。なるの母親である詩夢には初対面で「彼氏さん?」と瞳を輝かせて聞かれてしまったがなるが困ったように違うと否定してしまったので、ヒロはあくまでなるのお友だちとしてしかこの家の敷居を跨げないのである。それでいて、年頃の男女の友情を疑わずにいられるなるの両親の優しい眼差しは娘に対する一滴の濁りもない愛情で満ちていて、その密度は他人であるヒロですら巻き込んで傷付けてはならないという義務感に似た感情を抱かせるほどだった。要するに、なんとなしの関係に甘んじて居座ることは彩瀬という家族に対する背徳行為なのではと感じるようになったのである。
 そんなヒロの強迫観念を、コウジは曖昧な微笑みで受け流すし(彼女がいるは、女の子たちから曲の依頼を受ければ歌詞まで考える癖に恋愛相談の役に立つことが殆どない)、可愛い後輩だと思っていた女の子二人から同時に告白されて以来返事を出せないでいるカヅキには「俺にその手の話を振るな!」と逃げられた(女心なんて微塵も理解できないくせに人の背中を押すことだけは上手い)。好意だけは確かなのに、友だちのフリをして勝ち得てしまった好きな子の両親の信頼というものの強度は如何程だろうか。誠実に悩んでみても、ヒロは答えを出さないまま今日も今日とてなるの自宅に道に迷うことなく足を運び歓迎の言葉と共にリビングに通される。挙句の果てには両親がそれぞれ仕事で出掛けるから留守番をよろしくねと(あれは間違いなくなるだけでなくヒロにも向けられていた)言葉を残し、何の憂いも見せずにと玄関を出て行った。なると一緒に見送りまでしてしまったヒロは、ただでさえなるに男として認識されているか怪しくて告白への二の足を踏んでいるというのにまさか彼女の両親にまで警戒に値する男という性を認識されていないのではと頭が痛くなった。
 リビングのソファでうんうん唸っているヒロにお茶を出し、なるはどうしたんですかと彼の眉間の皺を人差し指でつついた。ソファに身を沈めているヒロと、お茶を運んできたトレイを抱えながら彼の顔を覗き込むなるの顔の高さは普段とは違い同じ、或いはなるの方が高い位置にありその変化にヒロは戸惑い、近過ぎる無邪気さの証拠たる笑みを象る唇がやけに蠱惑的に映ったことをまるで他人事のように眺めた。
 ――キス、したい、とか。
 妄想は自由だけれども、それでも。ヒロは普通の男の子だから、妄想に囚われながらそれでも好きな子に対して嫌われてしまう恐怖に慄いているのだ。嘗て泥の中で見栄えよく作り上げた絶対アイドルのように格好よさと輝きだけでヒロが作られていたら、女の子の家に入り込んだ時点で勝率を見込んでキスすることだってできたのかもしれない。けれどそれでは何もかもが夢物語で、アイドルはステージの上にいるべきで、そのままでは普通の男の子に帰れない。そうして結局、唇だけを塞いで心が手に入らないならヒロはいつまでも寂しい。

「疲れているなら、ちょっと眠った方がいいですよ」

 帰った方がいいと言われないことが嬉しい。その後「今日は天気がいいですから!」とよくわからない文脈に繋がって行くのだが、瞼を閉じながら、ヒロはなるのことを好きだなあと思いながらうとうとと船を漕ぎ始めていた。頭痛は、なるが彼の眉間に触れた瞬間にどこかへ消えてしまったけれど、なるが隣に腰を下ろした気配に安心して、他人様の家だということは理解しているのに襲ってくる眠りの波に抗えなかった。


 ぼんやりとしていると、庭に面している窓にひょっこりとなるの姿が映った。いつもは閉まっているブラインドが上がっていた。

「――なるちゃん」

 窓際まで歩いていって、呼んだ。なるはホースを持って庭に水を撒いている。陽の光に、葉に落ちた雫が光っていて少し眩しい。ちょこちょこと自分の元へやってくるなるに、ヒロは寝覚めの、外行きの鎧が緩んでいる隙間から自身が満たされていくのを感じる。なるの自宅は彼女のお城、その中に紛れ込んだヒロの優先順位は客人としての畏まった距離感が縮まればそれだけ低くなると思っていた。宿題、洗い物、水遣り、掃除、その他諸々。それとなさを装えばそれだけ接近の動機は告げなくて済むけれど、最優先される確率も下がるのだ。
 勇気を出して告白すれば、日常的にこんな博打に身を投じる必要はないのだろう。けれど恋の話はどれもこれも簡単なものではないのだ。

「ヒロさん、疲れとれましたか?」
「うん、ありがとう。ごめんね、せっかく招いてくれたのに居眠りなんてして」
「いいえ! ヒロさんが元気になるのが一番ですから!」
「一番」
「……ヒロさん?」
「元気じゃない俺も、なるちゃんの一番になりたいよ」

 寝惚けている。ヒロは自分でそう思う。若しくはまだ夢を見ている。あまり甘くも都合よくもない夢だけれど、いつもなるを好きだと自覚している間付き纏う手にしてもいないものを失うことへの得体のしれない恐怖だとか、二の足を踏む弱気な気持ちがまるで顔を出してこないのだからこれは夢だろう。
 ――なるちゃんの一番になりたいなあ。
 本音と願望が、声になってなるの耳に届いていることもヒロにはよくわかっていない。なるは何度も首を左右に傾げ直してから、それでももう自分の失恋にも気付けなかった頃の彼女ではないから、頬が熱くなるのを抑えることはできなかった。恥じらいなのか喜びなのか、戸惑いだけだと言えば嘘になるから咄嗟に俯く。ヒロは僅かに開いた窓に体を預けて、どうやらまた船を漕ぎ始めている。そんなに疲れているのだろうかという心配と、とんでもない発言をしたまま眠ってしまうなんてという腹立たしさがぐるぐると渦巻いて結局頬を膨らませるしか出来ない。わかりやすい抗議も、見えていなければ受け取ってもらえないのだからいつもは笑ってなるのご機嫌をうかがうヒロも今は何の反応も示してくれない。そのことが、なるを心許ない気持ちにさせた。こんな所にまでやってきて、見失われてはどうすればいいのだと。
 自分勝手だと言われても、なるも必死なのだから仕方ない。恋は人の気持ちを想像で膨らませた瞬間に自惚れという羞恥心が湧いてきてとても耐えられるものではないのだ。どれだけ何気なく、親密に装って迎え入れてもヒロにとっては好きな女の子の自宅という攻略難度最高位の城塞へ招くということは、前日の夜(或いは数日も前)から彼を緊張の海に陥れていることなど、なるは全く気付いていないのだ。

「私も、ヒロさんの一番に、なりたいな〜?」

 小声で呟いてみた本音に、やはりヒロは目を閉じたまま反応してくれないのでなるは溜息を吐いてからホースを構えて、ヒロの顔に水をかけたら流石に目を覚ますだろうかと悪戯心を起こして、けれど直ぐに反対方向に向けてノズルを押した。サアアア、と水が弧を描いて太陽の光を受けて小さな虹を作った。単純ななるはその虹を見て、まるで私を応援しているみたいと陽気になってしまう。
 首だけでヒロを振り返ると、彼は器用にも腕を組んで窓に寄り掛かり立ったまま本当に眠っている様だった。少なくともこの無防備さは、人も場所も選ばず晒している姿ではないだろうと思うことにして、なるは部屋に戻ろうと作業を終えた。口元には、いつもの無防備さとは違う、女の子の、恋に翻弄されながらもそのときめきの甘さへの喜びを乗せた笑みが浮かぶ。
 ヒロが目覚めたら、「私の一番になりたいってどういう意味ですか?」と聞いてみよう。彼はきっと驚くだろうし、焦るだろう。覚えていないかもしれない。それでもなるはヒロの一番になりたい。なるの願いを知らずに眠りの船を漕ぐヒロは、折角訪れた美味しい展開に気付けないまま。目覚めれば、逃れようのない悪意なき糾弾に窮地に立たされるだろう。備えも決意もなく腹を決める時が来るかもしれない。
 それでもやっぱりヒロは、なるの一番になりたい。夢の中でも、そう思う。ご両親への報告は怠らない予定だから、どうか許してくれますように。生真面目も考えものだと呆れたように、ヒロが訪ねてくると息を潜めてじっとしていることが多いこの家の飼い猫が、リビングのどこかで鳴いている。




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ゆめいろチーク
Title by『魔女』



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