何もない――予定とか、記憶に残るような出来事とか、片付けておいた方がいいだろうかと気にかかる些細な家事や宿題でさえない――午後のことだった。ヒロがなるの家に遊びに来ませんかという招き文句に陽気に誘いだされて、なる曰く両親に宅配便と新聞の集金が来るはずだからと任された留守番の加勢を頼まれたのは今からほんの一時間ほど前のことだ。
 昼食はお互い済ませたあとで、洗い物も客人を招く準備も終わっていたリビングに通されてソファに腰を下ろしたヒロのすることといえば実際特に何もなかった。なるはヒロの隣に、しかしソファにではなくローテーブルとの間の床に直に腰を下ろして参考書やノートを広げている。中間テストが近いのだと唇を尖らせるなるに、それならば果たして自分は呼ばれた意味はあるのだろうかとヒロも唇を尖らせた。それからどちらかともなく笑いだして、なるの「ヒロさんが居てくれると落ち着くんです」という殺し文句に、照れた表情を悟られないように肩を竦めてそれならばなるが真面目に勉強できるかどうかを見守っていてあげようと大仰な物言いで彼女の小さな背中に視線を送った。
 現在なるをてこずらせている問題集の科目である数学がを彼女が苦手としていることは知っている。しかしそれ以外にもテーブルの上に取り組む教科以外のノートやプリントを開いてしまうところが――本人は次にやる予定の物を出してあるのだと言い張る――集中力を妨げているのではないか。より集中力を妨げるテレビをつけることもできないヒロは近くのラックに入っていた本日の新聞を読んでいる。眼鏡をかけて新聞を広げたヒロを肩越しに一瞥したなるは「お父さんみたい!」と無邪気に笑い彼を凹ませたことなど気付く由もない。
 ――俺がなるちゃんのお父さんだったら、自分たちの留守中に娘に下心を持った男を家に上げるなんて言語道断だと叱っているところだよ。
 なるに対してこんな保護者ぶった思考を働かせることは難しくはない。それは愛情に似ているけれど、ヒロはまだなるに対して愛情の手前の熱情でもたついている。例えばヒロがなるに対して庇護欲に結びつく愛情だけで想っていたのならば招かれた時点でべるにも誘いの声を掛けていただろう。二人きりよりも大勢の方が彼女は楽しめるはずだとか、そういった理由で。けれど実際のヒロは誰かに連絡を入れるどころか寧ろ邪魔が入りませんようにと別段信じているわけでもない神様に祈ってみたりもした。そのときの空は快晴だった。
 読み込むわけでもなく新聞を捲りながら、なるの気配を掴んでおくことも忘れない。こんなに近くにいるのに――足を組もうとすればきっとなるを蹴っ飛ばしてしまうであろう距離――神経質だろうか。何もない、静かな部屋でしかし思考だけは絶えず動き続けているヒロとは対照的になるは問題を解いていたペンを止め、振り向いてどこまでも朗らかに微笑んだ。

「……ポップンキャンディーロケット」
「と、ときめきメモリーリーフ」
「ファイアストームバーニングソードブレイカ―!!」
「か、覚醒オープンマイフラワー」
「私のメルヘンドリームシティ」
「い…い〜?」

 果たして勉強は区切りがついた上で手を止めたのだろうか。なるはそれについての言及をせずにヒロに何かして遊ぼうと話を振り、しかしゲームも二人で楽しんで読めそうな本もない。結局ただ時間を潰す為によく持ち出される「しりとり」という手段を用いることにした。しかしなるが「プリズムジャンプ縛り」を発動したせいで驚くほど間が開く。これでも最後の一文字が調音の場合はひとつ前の音を取るというルール改変をして滑らかになった方なのではあるがお互いそろそろ限界が近い。

「い、い、――ないですよ?」
「じゃあなるちゃんの負け」
「ううう!」

 勉強の息抜きのつもりだったのに、結局頭は休まらなかったらしい。なるはソファに上体を預けると何かを言おうとしたのかヒロの方を仰ぎ見て、それからきょとんと大きな瞳を何度も瞬かせた。
 ヒロの手には、いつの間にか自分の鞄から取り出したらしきタブレットが握られていた。

「ヒロさんそれ!」
「ん? この間買ったんだ。使う?」
「そうじゃなくて!しりとりにそれ使ったんですか?」
「? うん」
「わああああん!! ダメですよずるいです!」
「ご、ごめんね?」
「再戦を要求します!」

 なるの憤慨っぷりに、ヒロはつい気圧されて居住まいを正した。怖くはないけれど、機嫌を損ねた勢いで泣かれでもしたら途方にくれてしまうから。しりとり中自分の番の答えを告げる度にヒロの方を「どうだ!」と言わんばかりに何度も振り向いていたから気付いていて黙認していたのだとばかり思っていたタブレットの使用はやはり反則だったようだ。
 なるは頬を膨らませたままヒロを睨んでいる。上目遣いに怯んだのは、彼女の気迫ではなく彼の純情だ。再戦を挑んだものの、一方的に開戦するのではなくヒロの承諾と合図をじっと待っているなるはやはりいい子だ。そしてそこまで理解した上で、話を逸らそうと画策する自分は彼女よりほんの少しだけ大人なのだとヒロは思う。稚拙な恋の叶え方も知らない、のこのことなるの陣地に飛び込んでおきながら何の進展も促せない自分ではあるけれども。
 ヒロは数回タブレットを叩いて、指を滑らせる。目的の画面を開くと、それをなるの方へ向ける。

「ところでなるちゃん、俺たちの新曲のPVがサイトの方で公開されてるんだけど見る?」
「わあ! 見ます!」

 ふくれっ面から一転、満面の笑みでヒロの方に身を乗り出してくるなるに苦笑しながら、しかしヒロは一度渡そうとしていたタブレットを彼女の手が届かない高さに掲げる。子どもみたいな意地悪だと、我ながらに呆れる。けれどやはり不思議そうにヒロを真っ直ぐに見つめてくるなるの視界に自分が溢れているのだと想像することは楽しかった。

「ヒロさん?」
「これ見せたら、許してくれる?」
「え?」
「もう怒ってない?」
「むー、いいですよ! 実は、そんなに怒ってなかったんですよ!」

 ソファの上に勢いよく飛び乗って、なるはヒロに両手を伸ばす。まるで抱き締めて欲しがっているようで、だがその勘違いを実行するには命が幾つあっても足りないとヒロはなるの手の間にタブレットを持っていく。しっかりと彼女がそれを受け取ると手を離す。
 そんなに怒ってなかったのだと打ち明けるなるの言葉に、告げられなかったヒロの言葉は「知ってたけどね」というやはり意地の悪さが滲んでしまう類で、けれどなるのころころと変わる感情とそれに伴う表情の変化を可愛いと思っていることを打ち明けられない内はヒロは何度も沈黙を選ぶ。肝心の告白の言葉すら何度も飲み込む。
 いつか伝えるつもりではあるけれど、今はまだ時期尚早な気がするのだ。ヒロたちOVER THE RAINBOWの映像を見ながらはしゃいでいるなるを横目に見つめながら、言い訳ではなく絶対に手に入れたい彼女だからこその慎重さを発揮してヒロはそう判断している。

「わあ! ヒロさんここのジャンプとっても格好いいです!」

 画面を指差しながら輝く笑顔を向けてくるなるとの距離を詰めて、ヒロは彼女の手元を覗き込む。実物が目の前にいるのに、まるで別人を讃えるように格好いいと褒められてしまう自分が薄っぺらなタブレットの中で歌い踊っている。優劣がつくはずがないのだけれどと、ヒロは画面の中の自分に顔を顰めながらも鼻先を掠めるなるの香りにまたその純情を揺らしていた。
 少なくとも、テスト勉強よりは興味を持って貰えているようだと、暫くはなるの関心をタブレットの中に奪われてしまうことへの退屈をヒロは最大限ポジティブに考えることにした。コウジでもなくカヅキでもない。ヒロのことを格好いいと言ってくれたことは紛れもない事実なのだから。
 PVはなるの手によって繰り返し再生されている。ヒロは再度、大したものだと画面の中の自分を見つめ直した。



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