かかずらうことを避けようと思った。顔向けできないことをしてしまったから。口を噤むことがどれだけ卑怯なことかわかっていたはずなのに、重たい石を胃に沈めたように言葉も身体も日増しにこれまで身を置いていた日の当たる世界から遠ざかる。そうして、言うべき言葉すら飲み込んで逃げたのだ。井戸の底に引っ込んでしまった矢二郎と、夷川の屋敷に住まう海星。井戸のかたわらで牛丼を食べる矢三郎と語らう矢二郎と、矢三郎にだけは頑なに姿を見せようとしない海星。海星もまた、矢二郎の潜む井戸へ出掛けていく。矢二郎ほど、語る言葉は多くないけれど。伯父一家、また親が決めた元許嫁という縁を持たずとも、海星は下鴨一家を父や兄の様には憎たらしく思うことも蔑むこともできなかった。そうするだけのしこりは幼い海星にあるはずもなかったのだ。

「――やっぱり、狸には戻らないの?」

 返事はわかっている。もう何度も尋ねたし、考えた。矢二郎が狸から蛙になって日陰者として生きることをやめるということは、死者が生き返らないことと同じくらい当然のことなのだろう。それは勿論彼自身にとって。海星は、彼よりももっと残酷な真実を知っている海星にはその当然が歪んでいることを説き伏せることもできるのだろう。けれど言わないのだ。それは、矢二郎と海星の心に死を以て影を落とした下鴨総一郎の顔から自分を気に入ってくれていた矢二郎たちの母の顔を経て矢三郎の顔に行き着き、言える筈がないと下を向く。
 見知らぬ人たちが悩みや愚痴を落としていくという井戸の底、物言わぬ聞き手に徹する蛙に向けて吐露する言葉を海星は持たなかった。誰よりも真実の傍にいて傍観者のふりをする。けれど海星のそれは、結局あくまでふりでしかなかった。中途半端な心遣いと罪悪感。

「生きづらい世の中だからね」

 井戸の底で穏やかな声が響く。それが先程の自分の問いへの答えだと、海星は咄嗟に理解できなかった。ゆっくりと矢二郎の言葉を咀嚼して、彼からは見えていないとわかっている安心感から口元を緩めた。浮かんだのは、自虐的な笑みだった。


20140504


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