「暑いね」
 呟きへの答えは「夏ですから」だった。吹きだす汗を拭うのに、首をべたりと触ってしまうのは、長年季節を問わず巻かれていたマフラーの所為なのだろう。北海道以外の場所で夏を迎えたことのない吹雪には、東京の、容赦ない夏の日差しに熱せられたコンクリートはまさに地獄のような暑さだった。
「でも、悪くないでしょう? 新しいこと、知らなかったこと、自分の外側にあったものに触れるっていう感じ、私好きなんです」
 楽しそうな声がする。春奈らしい考え方だ。怯えるよりも先に飛び込んでしまう勇ましさ。お転婆、そんな言葉は、きっと吹雪の憶病よりずっと素晴らしい意味で世界に響いている。
「ねえ、春奈さ――」
 伸ばした手が空を切る。ゆらゆらと視界が揺れて、一瞬眩暈を起こしたのかと思った。直ぐ傍にいると思った春奈は、いつの間にか吹雪よりずっと前を歩いていた。
「吹雪さーん? 置いてっちゃいますよー!」
 立ち止まったのは坂道の途中で、見下ろす様に此方を振り返る春奈の顔は逆光でよく見えなかった。笑っている、声が、それだけを手繰り吹雪はぼんやりと彼女を見上げる。ゆらゆらと揺れている。陽炎のように。
「春奈さん、消えちゃいそうだよ」
「えー? 聞こえませんー!」
「暑いの、やっぱりやだなあ」
「ねえ吹雪さーん、」
「消えるんじゃなくて、そもそもあの春奈さん幻覚だったりして」
「アイスでも食べて行きますかー?」
「そうだね、うん、そうしたいかな」
 会話ではなく、もはや独り言だった。蜃気楼のように、暑さにそぐわない――吹雪は暑さが好きではなく、春奈は好きだったから、その正反対の感情の所為でそう感じてしまう――快活さで風景に浮かぶ春奈の輪郭を失わないように手を伸ばす。面白がった春奈が、「何ですかー?」と手を伸ばし返す。触れ合う筈もない、何せ距離がありすぎる。それでも吹雪は満足だった。
 暑い夏の日のことだ。蜃気楼のように揺れて、溶けてしまいそうだった。けれどお互い空に伸ばしたこの手がぴったりと寄り添い合う心のように思えてしまったのは、もしかしたら妄想の類かもしれない。それでも吹雪は満足だった。とても満足だった。

20141101


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