時計はとっくに日付が変わっている時刻だった。
 エレベーターの扉が閉じた瞬間、ぎりぎりまで浮かべていた微笑み共々一切の表情が削ぎ落ちたのがわかる。そこには疲労も辟易も嫌悪も憤懣もない。完全に無表情で立ち尽くすWの隣で、Vはほっと息を吐く。極東チャンピオンとしての顔を完全に作り物で固めてしまった兄のマネージャーとして動き回ることに、初めは不安を覚えていたVだったがトロンに命令された仕事である以上できる範囲でなんて中途半端は許されない。目が回るような忙しさに時間は足早に過ぎ去って行き気付けばマネージャー業にも随分と慣れていた。Wのいっそ過剰なのではと思えるほどの紳士的な振る舞いの添え物のように微笑むことにも。人間は適応するものなのだ。そう、ふと思い描いてもいなかった日常の中に自分が取り残されていることに愕然とするたびに、己を納得させようと言い聞かせる。
 ――けれど、それならば何故。
 異世界の研究をしていた父が帰って来なくなって、呆然と自分とWが知らない大人に手を引かれて遠ざかって行くのを見つめていたVを何度も振り返った。やっぱり連れて行かないでくれと駆け出してくれないかという期待は裏切られ、離れたくないと願うWとVの足は黙々と前へ進み続ける。放り込まれた孤児院で、兄と自分は適応しなかったのだとVは今でも思っている。父が、兄がいつか迎えに来てくれることを諦めなかった。自分たちには家族がいるのだと、本来孤児院に来るべき理由など持っていないのだと頑なに信じつづけていた。何も失っていないと自身を鼓舞するための妄執は、きっと他の子どもたちにはさぞ傲慢に映ったに違いない。
 そうして再会した家族と、父の復讐の為に立ち回る日々に希望は満ちていてはくれなくて、ただ望みを捨てたくはないからいつかを思い描いてばかりいる。これも、不適応。それでいいじゃないか。家族が一緒にいられるなら。Vの結論は、いつもここで終わる。
 エレベーターが指定した階に到着する。ゆっくりと開いていく扉の隙間からすり抜けるように降りていくWに続いてVもエレベーターを後にする。今日のWはチャンピオンとして挑戦者とのデュエルと端から勝つと見込まれてこの日の試合が組まると同時にセッティングされていた祝勝会でスポンサーや彼のファンだというご令嬢たちの相手をするだけで――その“だけ”という振る舞いにWもVも随分と神経をすり減らしているのだけれども――トロンから特別指示を受けてはいなかった。それでも報告はするべきだろう。アニメを見ているなら、Vにでもいい。けれどもう夜も遅いから寝ているかな。そんなことをVが考えている間に、Wはどんどん廊下を歩いて行ってしまう。よほど疲れているのだろう。彼はどうやらこのまま自室に戻ってしまうらしかった。
「W兄様――!」
「あ?」
 取りつく島もないような、Vの言葉などまるで興味がない冷めた声に身体が強張る。それでも、まだこの声はWの耳に届いていて、彼はその度に足を止めてくれる。もう少し前なら、振り向いてくれた。それよりもっと前なら、小さな弟に目線を合わせるように屈んでくれた。優しい記憶を振り返れば、きっといつまでもキリがないのだ。
「あ……お疲れ様でした。あの、おやすみなさい」
「……ああ」
 他に言葉が思いつかなくて、労いと挨拶だけを伝えてそれ以上は何も言えなかった。家族の前では隠されない気性の荒さとは裏腹に、Wの部屋の扉を開ける音はとても静かで、彼は消えるようにその扉を閉めた。廊下に立ち尽くしてその姿を見つめていたVは、やはりトロンかVに今日の――もはや昨日の――仕事が滞りなく済んだことを報告するべきなのか決められずにいる。
「――V?」
「……V兄様」
 ぐずぐずしていると、VがVの視線が向いていた方とは逆から歩いてきた。トロンと一緒にいたのだろうか、もともと家族の前でも不必要に寛がない人だったけれども深夜にも関わらず気を張っているのが声のトーンからわかった。けれどもそれがいつも通りのような気がして、Vにはまたわからないことが増えていく。Wだけでなく、自分もだいぶ疲れているようだと緩く被りを振った。
「Wはどうした」
「もうお休みになりました。かなり疲れていたようなので」
「――わかった。何も問題がなかったのなら、トロンへの報告はいいからVももう休みなさい」
「はい、兄様」
 労りだろうか、夜が明ければまた働くべきトロンの駒への配置指示だろうか。そんなことを考えてしまう自分が嫌いだった。
「おやすみ、V」
「おやすみなさい、V兄様」
 先程Wにも告げた言葉だ。眠る前の、大切な挨拶。また明日、おはようと言い合う為の、夜と朝の区切り。
 けれど僕たちの夜に朝は来るのだろうか。夜更けの暗闇に包まれながら抱くVの恐れを打ち消してくれる幸せな家族は、今はどこにもいなかった。


20150411


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