頁を捲ると、はらりと床に何かが落ちた。修がそれを拾い上げると、何かの漫画のキャラクターなのかマスコットなのか犬の形をした薄い紙の栞だった。それを見て、修は「悪いことをしたのかな」と、ここにいない制服姿の木虎に想いを馳せ、呟いた。


 その本屋は閉店時間間際で、検索機能のあるPCを客に向けて設置するほどの規模もなく、少ない店員は閉店準備に勤しんでおりいかにもさっさと立ち去らない修を歓迎していない空気がひしひしと感じられた。被害妄想の類だろうと修は思うけれど、忙しなく動き回りながら修に捕まってはくれない割に何かをしている風には見えないのだから、目当ての本を探して貰うのならば日を改めて出直して来た方がいいのかもしれないと見切りをつけた。
 平日の夕方から割り振られた防衛任務は、ただひたすら本部に待機するだけで終わった。それは幸いなことだったけれど、任務が終わる頃には中学生の修が外を出歩くにはギリギリの時間帯で、玉狛支部に顔を出すことは出来そうになかった。千佳に自分の任務が無事終わったことと、もしもまだ支部にいるのなら帰りは必ず誰かに送ってもらうよう言いつける旨のメールを送り本部を後にした。
 普段通り真っ直ぐ帰るつもりで歩いていると、通り過ぎようとした本屋の前でたった今買い物を終えて自動ドアから出てきた客とぶつかりそうになりそれを避けた。そのせいで一度も緩めないでいた歩調が乱れ、つい足を止めて目の前にあるのが本屋だと気が付いた。そうなると、そういえば欲しかった新刊が出ているはずだと気付いたり、お気に入りの作家は最近チェックを怠っているけれど何か書いているのだろうかと気になってくる。ポケットから仕舞ったばかりの携帯を再び取り出して時間を確認すると、まだ多少の余裕があったので修はその本屋に入った。

「珍しいわね、こんな場所で」

 何も買わずに店を出ようとしていた修の背中に、名前も呼ばずに――しかし修に話し掛けているとはっきりとわかる――声がかかった。

「木虎」
「任務だったの?」
「うん。木虎は?」
「私は広報の仕事だったの。本部にはちょっと寄ったけどね」
「そっか。お疲れ様」

 振り返れば、制服姿の木虎が立っていた。初めて見たときとは違い、コートを着ていなかった。昼間は暖かったけれど、もう夜だ。寒いのではないかと思ったが、店内ではそれほどでもないので修は何も聞かないでおいた。ボーダー本部にほど近い本屋だったので、玉狛所属の修を見かけたことで木虎は彼が任務だったと予想をつけたのだが、修の方はそういえば自分は木虎の行動を予測するのに役立つ彼女に付いての情報を何も持っていないなと、自分たちの共通点であるボーダー隊員であること以外口にすることは叶わなかった。本部で嵐山隊の誰も見かけていなかったけれど、そもそもA級隊員である木虎とB級でしかも隊をまだ組んでいない支部所属の修とでは接触する機会がある方が稀だった。それでも何故か、顔を合わせれば会釈ではなく会話を選ぶ親しみを繋いだ曖昧さを修も木虎も持て余している。友人とはとても呼べないが、顔見知りというほど疎遠でもない。同い年というステータスは世界中、日本中、三門市内、特別にするにはあまりにも頼りない気がするのだけれどどうだろう。
 木虎は修に「何も買わないの」と尋ね、小脇に抱えていたこの本屋のロゴが入った紙袋を胸の前で片手で抱え直して見せた。それに修が頷くと、自然と二人で並んで出口に向かって歩き出す。店員たちの安心したような視線が注がれて、木虎が「正直すぎるわ」と眉を顰めた。時刻はまだ閉店を迎えていなかった。
 店を出て、自動ドアが反応しないよう数歩分移動してから木虎は足を止めてまた「何も買わなかったの」と若干時間を経過させた質問をした。修は正直に欲しかった本があったのだけれど、店員に探して貰う手間をかけるのが申し訳なかったからまた今度来ようと思っていることを打ち明けた。予想はしていたけれど、途端に木虎は何を言っているのかわからないと言いたげに眉ではなく表情全体を顰めた。まだ店は開いているのだから、確実に買う気があるものならば探して貰えばよかったのにと言いたいのだろう。それは修もわかっているのだけれど、今日はたまたま店員の空気が露骨すぎたせいで出鼻を挫かれてしまった。別に申し訳ないとか、遠慮しているつもりはないから肩を落とすこともないと思っている。どうせ今日買ったところで帰ってから直ぐ読み始められるとも限らない。最近は任務と玉狛支部での訓練で休みはほぼ埋まっているし、余裕があるならば高校に進学する前に遊真の勉強をできるだけ見てやりたいとも思っている。
 修の組み立てられた予定など知る由もない木虎は、修よりも口惜しげに明かりのついた店内を睨んでいる。

「――どんな本だったの?」

 質問は、修の消極性を――非はないはずなのに――咎めたくなる気持ちにガス抜きをするためだった。単純に、修のパーソナルな趣向に興味が働いた部分もある。ただ知った所でどうなるものでもないことは承知だった。
 修は特に疑問も感じないのか、木虎の質問に馬鹿みたいに丁寧に――作家の名前とか、或いはタイトルだけ答えれば良いものを、わざわざ既存の作品名まで並べてみたり、出版社だったり表紙の雰囲気を説明したりしながら――答えた。木虎は修の答えに「あらまあ」といった具合に瞬いて――修には普通の瞬きにしか見えなかったけれど――、抱えていた紙袋を修の胸元に押し付けると、反射的に彼がそれを抱えるのを確認してから自分の学生鞄の中をまさぐり始めた。何をしているんだと、半ば呆けて見守っていると木虎は鞄の中から取り出した物を修が抱えている紙袋の上から押し付けた。

「私、丁度持ってるから貸してあげるわ」
「――え?」
「それでしょ? 三雲くんが欲しかった本」
「えっと、」
「もしかして、読みたい本は買って読みたい人?」
「いや、別に……図書館とかも使うけど」
「じゃあ問題ないわね。一応、二週間くらいが目安でいいかしら」
「あっ、うん、ありがとう…」
「歯切れが悪いのね」
「ごめん」
「謝らないでよ」

 「一応、中身確認してね」と言いながら、修の腕から紙袋を引き取る。修が述べた本らしきそれは今さっきまでいた本屋とは別の店のモスグリーンのブックカバーで覆われていて、修は慎重にタイトルを確認し、今度はできるだけ歯切れよく「ありがとう」と礼を言った。期間も、それだけあれば読み終わるはずだった。連絡先は知らないけれど、その時期に意識していれば本部で顔を見ることもあるだろう。何なら面倒をかけてしまうけれど迅に頼んで嵐山に連絡してもらい木虎を呼び出してもらえばいい。
 返すまでの段取りが確実に取れると判断すれば、修は余計な固辞はせずに――それは木虎を怒らせるし、実際感謝もしているから――その本を自分の鞄に仕舞った。間違っても折ってしまわぬように注意しながら。

「じゃあ、借りるな」
「ええ。気にしないで。私はもう読み終わってるから」
「……どうだった?」
「――ネタバレはしないわ」
「それもそうか」
「ええ」

 無意識に呼吸が軽くなって、お互いわかりにくくも和やかな空気だった。「それじゃあ帰りましょうか」と荷物を持ち直した木虎に、修は送っていくと申し出るかどうか悩んだけれど先手を打たれて「あなたも早く帰りなさいね」と釘を刺されてしまったので自分の家路を急ぐことにした。お先にと雑踏に紛れて行く木虎の背筋は、忙しない夜の空気には不釣り合いなほど真っ直ぐだった。


 そんなことがあったのが丁度一週間前だった。
 あの日、木虎は修に「自分はもう読み終わっているから」とこの本を貸してくれた。修がまだ半分にも差し掛かっていないページから滑り落ちた栞を見つめながら、果たしてあの言葉は本当だったのかどうか考えてみる。栞を挟んだページからいっきに最後まで読み終わったのかもしれないし、読み終わった後に使用していた栞を適当なページに挟んだのかもしれない。けれど読み終わった本を、学校へ行き放課後には広報の仕事が入っている日に持ち歩くだろうか。いやいや学校で読み終わったのかもしれない。そもそも木虎には嘘を吐いてまで自分に本を貸してくれる理由がない筈だった。だから修は木虎の純粋な心遣いに無粋な真似をしたくなくて、真実を詳らかにする必要もないだろうと新刊の発売日を調べようとは思わないし、この栞についても自分で用意したものを使っている以上無くさないよう別のページに挟み直してしまうのがいいだろう。
 しかしこれは、何と言おうか。
 修は指先を動かすことができない。指先どころか、身体も。今何処か動かせば、途端に体中がむず痒くてたまらなくなる。それは背中にぞわぞわと這い上がる、寒気に似た――しかし寒気では決してない――感覚が教えてくれる。勘違いだろう。だからこの感覚は自意識過剰も甚だしい、恥ずべきことだ。他人から受けた心遣いを詮索するなんて人として不誠実だ。どれだけ自分を詰っても、一度思い浮かべてしまったもしもを打ち払うのは難しい。
 残り一週間。修は絶対にこの本を読み終える。それから木虎に礼儀として直接会い本を返す。そのときに、聞かれない限りは最低限の感想で留めよう。ネタバレはしないように気を付ける。間違っても木虎はまだこの本を読み終えてないという前提を設けてしまわないように。
 深呼吸をする。気持ちを落ち着けて、読書に戻る。真相がどうであれ、修は木虎の厚意に感謝している。そのことだけは、改めて伝え直そう。くどすぎると怒られるかもしれないけれど、それでも。



20140530