背中に圧し掛かられた重圧と、地面に突っ伏した衝撃が襲ってくるまでにさほど間は開かなかった。情けなく踏ん張ることもできずに地に倒れた修の背中に乗っかったままの緑川は「先輩もっと頑張ってよ〜」と文句をつけてくる。修の傍に遊真がいなかったことが良かったのか悪かったのか。遊真がいなければ特に自分に話し掛けてくるような人もいないだろうという油断があったことは間違いないのだが、しかしいくら周囲を警戒していたとしても場所がボーダー本部内であれば戦闘態勢を取るわけにもいかないのだから結果は変わらなかっただろう。三雲修という人間は、不思議な縁を引っ張ってくる天才であったが本人は面白いほどその事実に気付いていない。気付いていないから手元にある手札として他人を加えるという発想に至らずに、いつの間にか近くにいる所謂すごい人に分類される誰かに引き寄せた修本人すら戸惑っているというのが現状だった。そんな修を面白いと駆け寄ってきた緑川もまた、ボーダー内では実力者として視線を集める存在ではあるけれど。近頃では修ほどではないなと謙遜を覚え始めるほど――事実、それは謙遜ではない部分もある――、彼の周囲には退屈なときが存在しないのだ。 「遊真先輩は?」 とはいえ、緑川の目下最大の目標は遊真にリベンジを果たすことなので修を捕まえたからといっても目当ての人物の所在を尋ねることを忘れてはならない。C級の訓練スケジュールなどとうの昔に短期間で駆け抜けた緑川の――ただでさえあまり賢くない――頭からは余計な情報として削除されてしまっている。そもそもA級の自分をぼこぼこにした遊真にC級の訓練がどうして必要になるのか。修だってそう思うはずだと詰め寄ってみたこともあるが、そのとき修は冷や汗をかきながらもただ「それは空閑が決めたことだから」と言うに留めた。 緑川が修を辱めたとき、遊真が割り込んできたのは緑川に言わせればそれは修の為だとしか思えなかった。実力に合わぬ窮屈な場に身を置いている遊真の行動原理は「三雲修」によって解明できるものだと。けれどいざその論理で当事者に突撃してみれば本人たちは淡々と個人の主義に則ってばかり行動していると主張してくるのだから、緑川には不思議で仕方がない。それが面白くもあるのだけれど。 「空閑なら今日は来てないよ」 「え? じゃあ三雲先輩何でいるんですか?」 「な、何でって……。おつかいだよ。会議に出てる林藤支部長の忘れ物を届けに来たんだ」 「へー、大変ですね」 「そうでもないよ」 緑川はどうしても修の隣に遊真がいないと落ち着かないのか、今日は来ていないと言われたからもしきりに周囲を見渡している。修が置いてきたつもりでも、心配のあまり尾行して来ているかもしれないではないか。ざっと確認してみたものの、遊真らしき気配は感じ取れなかったが疑いはまだ晴れない。非番の日に忘れ物を届けるために本部に駆り出されるなんて緑川からすれば予定外の労働をさせられていると大差ないのだが、彼の「大変ですね」に答えた修の「そうでもない」が心からの言葉であることははっきりと理解できた。真面目だと感心する。損も沢山してきただろうなと、そして修自身は損をしたなどと微塵も思っていなさそうだなと、緑川は少しだけ悲しくなった。 「三雲先輩は長生きできなそうで、オレ心配だな」 埃を払う仕草を見せながら、緑川はようやく倒れ込んでいた修の上から退いた。なかなか際どい体勢でいたものだと周囲をもう一度見渡すが、人の気配はなかった。やはり遊真は本当に本部には来ていないようだとようやく信じる気になってくる。緑川が修と二人きりの時間を持続させることは状況次第では簡単なことで、けれど存外まだ体験したことがないことでもあった。 緑川の言葉を、修は実力不足を指摘する言葉と受け止める。長生きできないということは、弱いから生き残れないという意味だと。緑川としてはそこまで弱肉強食な世界に生きているつもりもないので――三門市が特異的に物騒な環境にあることは理解していたとしても――、修に対して鈍いという心象を付け加えておくことにする。 「ぼくが弱いのは事実だから――。でもできるだけ長生きできるように頑張るよ」 「三雲先輩が弱いっていう話じゃなくて、三雲先輩にあんぱんまんみたいに身を削って目の前で困っている人を助けられる術があったら今頃跡形もなく消えてるだろうなって意味で言ったんです」 それから、「頑張る」ではなく「頑張っている」と言って欲しい。詳細は知らないけれど、何やら修や遊真に事情があって日々修行に邁進していることを緑川は知っていた。天才と括られる緑川に、修の遅達なペースの成長はただもどかしいものではあるが、周囲の人間の反応を観察している限りでは停滞しているわけではないらしい。ならば言葉は正しく使うべきだと、学業の成績は壊滅的な緑川ですら思ってしまう。 「緑川は正直なんだな」 「ムカつきました?」 「いや? 別に……」 「三雲先輩も、正直なんですね」 無関心が滲み出ているとは噛みつかないけれど、謙虚な身勝手は隣人を孤独にする。けれど同じように身勝手で道を定める人間ならば或いは、ただただ親しみで道を共にできるのだろうか。並んで歩く姿に友情を見た、修と遊真の姿を思い出しながら緑川は拗ねたように唇を突きだした。 初対面に緑川がやらかした事件のときからも常々思っているが、修はもう少し自分に対して怒るべきなのだ。目を見て、叱って、言い含めて、緑川が頷いたら笑って頭を撫でるくらいのことをしてくれてもいいはずなのだ。だって緑川は修になら叱られてもよくて、だから無茶な突撃だってしてみるし、遠慮ない物言いをしてみたりもするのだから。 「三雲先輩もうちょっとオレに興味持ってくださいよ〜!」 「え、え? あ、模擬戦とか、参考にさせて貰ってるよ?」 「そうじゃなくて!」 しかもそれは参考にしてもタイプの違いによっては分析されるだけで修自身の身に馴染む技術としては役立たずな可能性があるではないか。 緑川が言っているのはもっと一般的な後輩を可愛がる先輩の像をであり、或いはたった一人を慈しむ特別の感情なのである。 「オレ、三雲先輩のこと気になってるんで、同じように先輩に気にして貰いたいんですよね!」 「――そうなんだ?」 「これだからな〜」 お手上げだと頭の後ろで手を組んでぶうぶうと文句を言い続ける緑川に、鈍い修が返せる効果的な言葉などあるはずもなく。能力と戦歴から見ても実力が物をいうボーダー内で自分が緑川に先輩面して提供できるものなどないだろうと思考の畑がそもそも違っている修にできることは、年相応に子どもらしい素直な一面を曝け出している彼の無防備な頭を撫でてやることくらいだった。 20140623 |