※麟児←修←烏丸っぽい



 とある人物についての情報がゼロである相手に、その人は本当に素晴らしい人だったと理解して貰うのは難しい。間違いのない言葉を選びたかった。けれど自分の内側に存在する言葉では足りないこともわかっていた。だから修は口を噤む。余計な言葉で、思い出の人を欠けさせてしまわないようにといつだって細心の注意を払っている。
 三雲修にとって雨取麟児はとても大切な人間だった。いなくなったという事実を受け入れることに時間を掛けることはできなかった。託されていた願いを実行しなければならなかったから。その代わり、修はずっと避けていたように思う。いなくなってしまった麟児が今どうしているかを想像することを――。



 玉狛支部へ向かう道のりはとても静かだった。徐々に警戒区域に近付いているのと同じであるから、それは当然ともいえよう。修は隣を歩く烏丸の歩調を意識して、前に出過ぎないように、置いていかれないようにと、任務中でもないのに真剣な顔つきをしている。
 学校帰り、支部に寄る前に夕飯の材料を買って来てほしいとメールが入ったのは昼休みのことで――今日は金曜日で土日は支部に泊まり込むことになっていた――、宇佐美からのメールは修と千佳、そして烏丸宛てになっていた。携帯を持たない遊真は、受験が近い中不明瞭な彼の学力を測るための小テストが放課後に行われることになっていたし、本部での訓練もあったので千佳に残ってもらい一緒に本部まで向かうようにと言い聞かせてから修は烏丸と待ち合わせて買い物をしてから一緒に支部へ向かうことになった。
 思えば並んで歩く機会は殆どなかった。支部の訓練室からリビングとの往復程度であろうか。外を出歩いたことはなかったかもしれない。そうでなくとも、大抵修の隣にいるのは遊真か千佳であって、烏丸と並んで歩くようなシチュエーションというものがそもそも修には思いつかなかった。
 しかしボーダーに入隊してからというもの、修は年上の人と接する機会が格段に増えた。並んで歩くこともあった。迅のように玉狛支部の直接的な先輩でなくとも、本部に顔を出していると嵐山や風間といった年長者に声を掛けられることがある。そんなとき、修は大抵意味もなく恐縮し、急ぎの用がなければ彼等に促されるまま立ち話をしたり、自販機に向かって飲み物を奢ってもらいそこからまた談笑できるスペースに移動したりする。そのとき、自分はどんな歩幅で歩いていたかを参考にしようとしても、どうしてか一向に思い出せなかった。道幅が広すぎるせいだろうかと、顔を烏丸がいる方とは反対に向ける。その拍子にお互い両手に持っていたスーパーの袋がぶつかってしまい、修は慌てて謝り間の距離を取った。

「大丈夫か?」
「はい! すいません…」
「いや、いい。気にするな」

 烏丸の感情が読みにくい表情から紡がれる言葉をそのまま受け取り修は頭を下げる。気にするなと首を振り前を向く烏丸は修に淡白なのではなく、寧ろ理解を深めるからこそ適切で、最低限の言葉を使っている。修の謙虚さは時に度が過ぎて場を停滞させる。そのことを修は一部冷静な判断力で理解するのに、それが言葉に焦りを生んで冷や汗を助長し余計な謝罪を吐き出してしまう。修を可愛がっている師匠としては、できるだけ穏やかに弟子と対峙していたいのだ。勿論、そんな必死な感情を悟られるわけにはいかない。
 修は会話が途切れたことを引き際と察知して前を向く。慌て過ぎて喉が渇いて来た。落ち着かなくてはと瞬きの途中でキツク目を瞑る。足を止めるわけにはいかないので、実際には数秒もなかっただろうけれど。



 不意に記憶が過去に飛んだ。
 あの日、修は麟児の隣を歩いていた。そう思っていたけれど、無意識に見上げる視線を維持しているのは半歩ほど彼の後ろを歩いていたのかもしれない。目的地を知らされていようがいまいが、修は麟児に先導を委ねることに一切の不安を覚えていなかった。だからきっと、麟児と歩くときは彼に引っ張られるように歩いていた。
 家庭教師という役柄が生んだ安心感なのか、修のイメージする二十歳で大学生という大人なのか子どもなのか判じがたい、しかしやけに華やいだ印象の層からは想像もつかなかった落ち着いた人柄を、修はどこまでも信じていた。麟児という人間の絶対性、憧れと好意。だが麟児のようになりたいではなく、麟児の傍にいたいと願っていたことに気付く頃、修の傍に彼の人はいなかった。修は麟児のようにはなれないから、何度も泥に塗れ傷だらけになり指を差され嗤われながら千佳を守ることだけに奔走した。笑うことも泣くことも上手く出来なくなっていた。目まぐるしい日々は、十五歳という少年には本来過酷過ぎた。教えて貰うには、優秀な修の家庭教師はいなくなってしまったのだから仕方がなかった。
 修は麟児について語ることを避けてきた。その資格がないとすら思い込んでいる。喪失を悼むのは家族の役目と特権である。千佳が泣かないのなら自分も泣くべきではなかったし、千佳が思い出に微笑まないのなら自分も振り返るべきではない。それが修のルールになった。

『話をすると思い出が消えちまうよ』

 だから、まわりの方だけ話すのだ。何かで読んだ言葉。麟児が自分の家庭教師だったこと、千佳の兄であるということ。千佳を守ろうとしていたこと。自分に何かあったら千佳を頼むと修に告げていたこと。それだけだ。修が麟児について語れることなんて。二人きりのときに起こったこと、話したこと。学校の勉強には関係ないことも色々と教わったけれど、二人きり、或いは千佳も交えて出掛けたこともあるけれど。その全ては語る為に修の口から出ることはないだろう。
 それは、麟児を救いにいこうなんて希望を得る前に、積み上げる思い出が生れない現実に直面した修がそうするべきと己に強いたから。

「――修?」

 名前を呼ばれる。その声は、当然回想の中に住む人の声ではなかった。視線を向けると、怪訝な表情で此方を見つめている烏丸と目が合った。本格的に警戒区域に近付いているのだから、いくら警報が鳴っていない上に非番だからといってぼんやりと歩いていては危ないという叱責だった。修は麟児の思い出に微睡んでいた為、いつものように慌てふためいた態度ではなく神妙に頭を下げて「すいません」と謝罪した。そのことに、烏丸は驚いたのか目を見張ったけれど、何事かと尋ねて来ることはしなかった。
 玉狛支部には、あと少しで着く。



 修の内側に誰かがいることを烏丸は知っている。それが恐らく修よりも、自分よりも年上であるということも。初対面の時はとある事情でA級を目指している三人として紹介された彼等の事情とやらを、幾分時間が過ぎてから烏丸たちは聞かされた。かいつまんだ情報からは千佳の為の道のりのようにばかり響く事情だった。けれど、修が大切になるにつけて気付かないわけにはいかなくなる。助けたいと願っているのは千佳だけではないことに。遊真の態度が、露骨に救出対象への思い入れはほぼ皆無であくまで自分は修と千佳の手伝いをしたいと思っているという点に留まっていたから余計に目についたのかもしれない。千佳の願いは、修の願いとして続いているのだと。
 修はその人について語らなかった。宇佐美や小南が千佳にお兄さんや友だちはどんな人だったのかと尋ねても答えるのは当然ながら彼女だけだった。千佳の兄についてそれなりに交流があったと打ち明けたきり、修はどんな思い出も積極的に語ろうと口を開かない。時折、千佳が思い出の補足を求めるように修を見遣ったときにだけ、彼は控えめに言葉を紡いだ。それだけで、烏丸には修にとって彼の人との思い出がどれだけ大切なものかを思い知らされた。大切な思い出だから、外に出したくないのだと。子どものような執着心が、普段遊真や千佳に対する面倒見のよさで知られている修の内側に存在していることに烏丸は少なからず驚いたのだ。そして会ったこともない、(残酷な予想だとしても)この先一生会うこともないかもしれない雨取千佳の兄に嫉妬した。
 烏丸が修と出会ったとき、十五歳という幼さの最中で彼の世界は既に完成しようとしていた。千佳を守る為に身の丈に合わない振る舞いをする修。そんな彼を助け、吸い寄せられるように寄り添い始めた遊真。遊真に至っては修と出会ってからの日数など烏丸と大差ない筈なのに、いずれ三雲隊と呼ばれるであろう三人は不思議な程にワンセットだった。そしてそんな、小さな二人に挟まれている修のずっと奥深くにその人はいる。烏丸には到底触れることの叶わない思い出。それ故に絶対的な存在となれる人。

『麟児さん』

 修が、慎重に発する思い出の人の名前を、烏丸は上手く記憶できた例がないしきっとこれからも変わらないだろう。まるで知らない言葉のように響くものだから。わざとかもしれない。本当はいやになるほど刻まれているのに聞こえないふりをしている。そんなことをする理由がないととぼけるだけ虚しくなるだけだった。
 大切に紡がれた名前が、しかし報われることがあるだろうか。それは行方不明者の生死に関わらず、現在ここにいないという事実にのみ則って考えた上での疑問。いないから大切にするのだろう。けれどいもしない人を大切にしすぎて、霞んでいくなんて馬鹿げている。思い出ではなく、現実として目の前にいる修がいつ麟児に浚われてしまうのではないかと危ぶむなんて。
 足りない筈がないと思いたかった。遊真がいて千佳がいて、烏丸を含め彼等を大切に思う先輩がいて。本部にだって、修によくしてくれる人間は多数いる。きっかけが麟児の消失にあったとして、その後手に入れた絆だけで何が足りないというのだろう。
 一定の充足が、誰かの不在を諦める理由にはならないことくらい、家族を大切に思っている烏丸には実の所わかっている。それでも稚拙な屁理屈を練り上げて修を自分たちの傍に引き寄せたいと考えてしまうことはわがままではない。わがままだとしても、それは愛と呼ばれていいはずだった。可愛い弟子に幸せになってもらいたい。費やした時間と努力に見合う対価を得てもらいたい。その為に修を導いてやれるのは、今この場にいない誰かではなく自分なのだと、烏丸は強く信じることでこれ以上の雑念を封じ込めた。



 烏丸といるときに麟児のことを思い出してしまうのは、家庭教師と戦いの師匠という差はあれども師事している立場の類似が懐かしさを誘うからかもしれない。教わるという行為は、自分の知らなかったことに気付かされることでもある。難しい言葉を使っているわけではないのに、烏丸の言葉が修を少しずつ成長させる糸口に繋がっていく。それはとても新鮮で、嬉しくて、感謝してもしきれないほどだった。
 それに比べれば、元から勤勉である修に対して麟児は特別教え甲斐を感じてはいなかっただろう。他者の手を煩わせることを好まない修からすればそれはいいことだ。それでも修は麟児を自分よりも大きな人間として、その背中を追いかけたいと思っていた。導くように掬われた手を気恥ずかしくも離したくないと思っていた。その特別に付ける名前を、修はまだ知らないけれど。
 ふと烏丸ならば、いなくなってしまった人を偲ぶ自分の想いの名前を知っているだろうかと、こっそりと彼の横顔を見上げた。それは迂闊な期待だと、修は慌てて口を噤む。
 玉狛支部の建物が見えてきた。特徴的な、水の中に建つ建物。修にとって多くの時間を過ごすことになった場所。麟児が訪ねて来てくれた自室ではない場所。それが今の修の日常だった。いつか麟児を取り戻したときには過去になるかもしれない場所。そんな未来は思い描けないままだけれど、それは自分の弱さのせいだと思うことにした。
 それでも修は、この場所が――人が、嫌いではないのだ。




20140613