※捏造



 コーヒーにはスティックシュガーを二本とミルクを二つ。折角豆に拘っても勿体ないと言われかねない甘いそれをマグカップの真ん中辺りまで注いで、スプーンでよくかき回してから差し出してくれた。熱いから気を付けるよう、毎度言われて、わかっているけれど素直に頷いておいた。猫舌ではないけれど、態度で示した方がわかりやすいだろうからと、何度もふうふうと息を吹きかけてからゆっくりとコーヒーを口に含む。一口目、下に広がる甘味と、溜飲に伴う僅かな苦味。あの人は、砂糖を掲げて首を傾げていた。「もう少し足すか?」というジェスチャーには首を振る。これ以上コーヒーの苦味から逃げてしまっては、それこそ端から何か別の甘いものを所望していればいいことになってしまう。師匠と同じものが飲みたいという背伸び。美味しいとは一度たりとも思ったことはなかったが、不味いとは思わない最底辺に齧りついていたかった。
 思うに、あの頃の自分はひどく幼かった。それから、あの人のことが、師匠である彼のことが、とても好きだったのだ。


 ボーダー本部にて、遠巻きに本部長である忍田の姿を見かけた太刀川の足は無意識に歩くことをやめていた。隣を歩いていた風間が訝しげに眉を顰めて急かしても、太刀川の足は動かない。どうしたことだと、彼の視線を辿っていて、風間は「なるほど」と頷いてから、あからさまに溜息を吐いてみせた。太刀川の腰に掛けられた孤月すらしょげ返っているように見えるのだから大概だ。用事があるのなら、声をかければいいだろうに。指摘しかけて、風間は口を噤んだ。

「世間話くらい、すればいいだろう」

 余計なお世話だろうが、言っておいた。この先、遠目に忍田を見つける度に立ち止まられていては堪ったものではないから。勿論、いつだって風間が彼の隣を歩いているわけではない。目に余る感傷に触れる機会が多いわけでもない。そもそもこれは、感傷なのだろうか。うっかり群れを外れて、別の群れに属してしまったばっかりに、顔を合わせる気まずさに怯える子どもの類ではないのか。この顔で、この身長で。
 風間の言葉に、太刀川は「そうだな」と頷いて、ようやく進行方向への歩みを再開させた。視線だけで忍田を追い駆けることに満足したわけではなく、単に対象がもう視界から外れてしまっただけのことだった。
 つまりこいつは、どうせ、次もまた同じことを繰り返す。


 視線が絡まないことに安堵した。そのくせわざわざ足を止めて、姿が見えなくなるまで見送った。他者の庇護が必要だった子どもではもうないのだ。あの人に振り返ってもらわなくても、生きていける。その為に必要な強さは手に入れている。アタッカー1位の称号を笠に着るつもりはないが誇らしく思ってもいいだろう。あの迅にだって、純粋な剣術の腕前では負けていないのだから。それでも、最強の冠は未だ忍田の元にあり、太刀川を釈然としない気持ちにさせる。手合わせを頼もうにも、隊員である太刀川に比べ忍田は忙しそうだった。ボーダーの命令系統もあって、他の隊員たちを纏めなくてはならない。師匠と弟子のよしみにかこつけるには、忍田から距離を置いたのは太刀川の方だった。
 不満があって離れたわけではない。そこそこ実力をつけて、近界民がこぞって三門市を襲撃した際に備えるという名目のもと、毎日のように他の隊員たちと手合わせをこなした。迅との成績が拮抗する中、それでも負けてはいないという自信があった。躓いたのは、迅の師匠でもある最上宗一の黒トリガーに選ばれなかったときくらいで。しかし選ばれなかった時点で取るべき道も決まっていたのだ。黒トリガーに適合し、S級隊員となった迅をこの孤月で打ち負かす。武器の性能の差で、勝負を諦めるつもりはなかった。その選択を、忍田も納得してくれていたように太刀川は記憶している。
 ではいつから、こんなに距離が開いてしまったのかと思い出そうとしても、実は具体的な契機は思い浮かばなかった。親離れをする子のようなものだったのか。けれどきっと忍田は自分という存在を惜しんではいないのだろう。それが寂しいのだ。身勝手と言われようと、子どもぶれないほどに齢を重ねても、太刀川にとって忍田は大人だったのだ。
 どんな経路を歩もうと、力を手にしたきっかけは近界民を討つためであり、そのためのボーダーだった。城戸の言っていることは何ら間違っておらず、その背中についていけることを誇らしく思う。最強の刃になれると、信じていたのだけれども。
 いつの間にか、敬愛した師匠は守ることと討つことを区別して、自分と立ち位置を異としていた。


 ボーダーA級隊員が精鋭であることは周知の事実である。だが逆に、少人数であるが故顔と名前が広まりやすいことと、上層部と顔を合わせる機会が多くなるということは雑用を押し付けられる可能性とイコールで繋がってしまうらしい。隊のランキングも1位、アタッカーとしても1位。そんな太刀川も、偶然通路で遭遇した沢村女史に忍田本部長に届けておいてと茶封筒を押し付けられてしまった。大きな段ボールを抱えながら颯爽と歩き去るスピードは、太刀川に呼び止める隙を与えないほどである。
 伝言ゲームではあるまいし、正誤性が問われることはないのだから、途中出くわす誰かに押し付けてしまえばいいだろう。そんな按配でいると、誰とも出くわさないまま本部長室の前まで辿り着いてしまうのだから不運だった。

『世間話くらい、すればいいだろう』

 ふいに、風間の言葉が耳に蘇った。その通りだと頷きながら、話せないのではなく、話題がないから話さないのだなんて言い訳は通じないだろうなと、目の前の黒い扉をノックした。入室を許可する返事は、随分と久しぶりに聞いた気がする、そんな声だった。

「これはまた、珍しい遣いっ走りだ」

 事の経緯を説明しながら預かった封筒を差し出すと、忍田は苦笑しながらそれを受け取った。デスクの上に置かれた様々な書類が、少しばかり太刀川を落胆させた。書類仕事なんて、どうして近界民と戦うボーダーに必要なんだと駄々をこねるほど社会の仕組みや、組織の役職を理解しないほど子どもではない。
 その書類から離れた場所に置かれたマグカップに目を留める。黒いカップだった。どこにでもありそうな、有り触れたデザインの物。じっとそのマグを見つめていると、忍田は太刀川の視線から何を感じ取ったのか、座っていた椅子から腰を上げた。

「駄賃に飲み物でも奢ろうか」
「コーヒーですか」
「ん?ああ、中身か。そうだよ」
「だったら淹れてくれればいいでしょうに」
「昔みたいに、そうしてやれればいいんだが…」

 部屋の隅に置かれたコーヒーメーカー。横には未使用と思しきマグカップが二つ並んでいる。大方客人用だろう。この部屋に、そう滅多に客人が来るとは思わないが。もしくは、洗い物を渋った際の予備か。
 太刀川の、さりげない提案に忍田は首を縦に振ってはくれなかった。じくりと痛み始める胸に、太刀川は立ち去るタイミングを窺うも、中途半端に相手を立たせてしまったから引っ込みがつかない。
 忍田は、そんな太刀川の、大の大人が見せるにはどこか不相応な落ち込みと焦りを無視する。直前まで処理していた書類を紛失しないようクリップで留めて、それからあっさりと彼の隣をすり抜けた。ついてこいと言うことなのだろう。飲み物を奢られることは決定事項のようだ。

「生憎、この部屋には砂糖もミルクもないんだ」

 穏やかな笑みを浮かべて、太刀川を見、そのまま部屋をさっさと出て行ってしまうから、彼はもうコーヒーなんてブラックでも飲めるようになったことを言いそびれた。
 けれど、まあ。目の前で実飲して弟子の成長を驚かせてやるのも悪くなかろうと、太刀川は急いで忍田を追いかけるために部屋を出る。自然、足取りは行きよりも軽くなっていた。



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さみしいというのは、さみしくなかったときが人生で一度でもあったということ。
Title by『にやり』







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