川べりの音だ。水が行く。辿れば海にも出るだろう。進める足は、それでも大海へは向かわなかった。上り坂、険しかろうに気丈にも、歯を食いしばって彼は行く。すれ違う人には、上がる息を気取られぬよう。自尊心ではない、ただ内側に堪っていくだけの痛みも疲労も、他人に見せるようなものではないと心底わりきっている。それなのに、他人の荷物を引き受けることすら疑問に思いもしないで、今日もひとり帰路に就く。両脇を固めるちびっ子たちとは、つい先ほど分かれ道を迎えたばかりだった。見送りと称して隣に立った、果たして限度はどこまでか。あと数メートル、数歩、目印を定めてはいやでもやはりを繰り返し、もう随分と歩いてきてしまった。

「――迅さん?」
「何かな?」
「いえ、もうここまででも大丈夫ですよ。家、近いです」
「知っているよ、けれども最近物騒だから」
「ぼく、男ですよ。まあ、襲われたら、弱いかもしれません」
「あはは、それもそうだ」

 暗がりの、人の悪意の物騒を説くならば、送ってあげるべきは修ではなく、つい先ほど控えめに手を振り別れた少女の方だった。それくらいはわかっているのだ。未来を見て、彼女は大丈夫だよなんて言おうものなら彼だって大丈夫なのだ。嘘くらい、いくらでも吐けた。見抜かれても、動じはしない。受け流して、自分の主張に引き寄せる程度の駆け引きは容易だった。もっとも、今、迅の隣を歩いている修には、そんな構えた姿勢など必要なかった。純朴さと憧憬に塗れて、迅を疑うことのない少年。だからできるだけ、迅もまた彼に対して誠意を持って相対したいとは思っている。それに実行が伴うか、それは未来視のサイドエフェクトを持ったとしてもわからない。
 橋を渡る。夕暮れに烏が飛んで、鳴き声がどこか寂しかった。伸びる影を踏んづけて、少年はやはり迅よりも小さい。並ぶ影は、重なる予兆すら見せないまま。この橋を渡り終えたらきっと、それじゃあと別れを切り出そう。決めて、迅は自分の歩幅を初めて意識した。現金なこと、あと数十秒の二人きり、惜しめども距離も時間も減る一方だ。

「あの、橋の袂あたりでお別れかな」
「え?」
「過保護はいけないと、怒られたばかりだから」
「はあ、空閑ですか?」
「いや小南に、メガネくんのこと。遊真に過保護なのは、寧ろ小南の方だな」
「仲が良くて、羨ましいです」
「京介とは上手くいってない?」
「そ、そういうわけじゃないです!」

 からかいは、やり手ばかりが楽しい。慌てて身振り手振りで迅の言葉を否定しようとする修の幼いこと。それでいて、自分を守られるべき存在だとは認めていない。弱さは自覚しているはずなのに、それでも。子どもなんだから、大人に甘えられる内に目一杯甘えておきなさいと撫でてやれないのは、迅の過去か、向ける想いのやましさか。どちらにせよ、せめて、導いてやりたかったのかもしれない。
 修を任された、烏丸のことを思う。やる気のないかんばせに、しかし与えられた役目はきっちりこなすから心配はしていない。初めての後輩に、もう少しはしゃいでもいいのではと、思わないことはないけれども。それでもまあ、上手くやっているのだろう。先輩と後輩、休憩時間の彼等はとても朗らかに、楽しそうだった。取りついだのは自分だというのに、危うく羨望の念を抱きそうになる程度には、皆が皆。
 夕日が傾ぐ。太陽が家々の屋根に遮られて落ちて行く。夜が近い。一番星を見つけてはしゃぐ年頃はとうに過ぎ、夜に怯えず道も迷わない。
 不意に足が止まった。隣にあった気配が遠ざかった。だから、先に足を止めたのは修の方で、迅は釣られてしまっただけだと理解する。

「メガネくん?」
「え、あ、あの…、夕日、沈んじゃいますね」
「うん。冬は日の入りが早い。これから益々冷え込むかもしれないな」
「そうですね、本当に…早いですね」

 ぼんやりと、修は橋の上から沈んでいく夕日を見る。冬の朱は、寒々しく白けた空にやけに伸びて映えていた。吐き出す息の白さが、暖を求めて早く早くと歩を急かすはずなのに、修はじっと視線を空に向けている。
 迅が夕日を見たのは、修が示した視線の先を辿った一度だけ。それからは、ただじっと年下の少年の横顔を見つめていた。居心地が悪そうに見えるのは、熱烈な視線のせいだけではないのだろう。止めてしまった歩みを再び動かすことは難儀だった。別れを明示した即座の停止は勘繰られるだろうか。そんな修の不安を、迅は見透かしているようで、顔も動かせやしない。

「夜が来ますね」
「そうだね」
「そうしたら、朝は来るでしょうか」
「来るだろうとも」
「そうでしょうか」
「ああ、きっとね」

 日が沈み、夜が来て月が昇る。月が沈めばまた太陽が昇り朝が来る。当たり前のサイクルを尋ねる修の言葉はさぞ幼稚に響くだろう。だとしても、そうでもしなければ修は迅の顔を見ることすらできないのだ。きっかけがなければ、近付くことすらありえなかった人を、彼は隣にいて戸惑ってばかりいる。
 それでもまだ、日が沈み、橋の袂で手を振って、さようならと唱えても。また明日を祈れるならば、しかと己の脚で歩くこともできるだろう。

「それでは迅さん、また明日」
「おお、気を付けて帰れよメガネくん」

 下げる頭の親しみを、振り返らない憶病を、逃げ足にならないよう、慎重に運ばれる足の一歩を。その全てを尊びながら、迅も歩き出す。
 冬の黄昏、寒風が無防備な首筋を撫ぜる。明日は来る、標の一番星は見えずとも。見える未来が違わぬならば、明日はこの橋を越えても尚、あの少年の隣を歩けるだろうかと思案する迅の影は徐々に暗がりに溶けて行く。
 夜が来る。朝を迎える、その為に。



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彼の優しい背中が永遠でありますよう
Title by『彼女の為に泣いた』








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