※捏造注意


 鳩原が一人で住まうアパートの、日当たりの悪いコンクリートの階段が嫌いだった。雨の日には昼間から真っ暗で、氷見はいつか親元を離れて一人暮らしをするときが来ても絶対にこんな物件は選ばないと固く決めている。できるならエレベーターがついているマンションの方がいい。このままボーダーで二宮隊のオペレーターを続けていれば、大学生になる頃にはさほど親に負担を掛けずに自分の理想の一人暮らしを体現するのもそう難しいことではないだろう。進路のことなど、ほぼ空白に近い時期の気楽さで氷見は資金面の問題だけでまず大雑把な未来を描く。
 辿り着いた扉のドアノブに手をかけると案の定鍵は掛かっていなくて、氷見はまた眉を顰めこのアパートは好きではないという不満を募らせる。何なら自分はいつかオートロックの部屋を選ぼうといった具合に。

「――鳩原先輩、氷見です」

 玄関にはくたびれたスニーカーが端に寄せる形で置いてあり、一人暮らしのくせに何故自分の履く靴を端に寄せてしまうのか氷見は理解に苦しむ。訪ねてくる人だってきっとそうはいないだろうに。氷見だって、好き好んでこの部屋を訪れているかと聞かれれば断じて否と即答するだろう。いつまでも来ない返事にしびれを切らして、靴を脱いで勝手に部屋へと上り込む。
 薄暗い外の階段とは裏腹に、このアパートは部屋に日が当たりすぎると思う。結果リビングから隣接して外へ面している鳩原の寝室の窓に掛けられたカーテンは長いこと閉めたままになっていることがざらにあり、それほど親密でもない他人の寝室に踏み込んでそのカーテンを引きちぎる勢いで開けることも、氷見がこの部屋へ通うようになってから数回繰り返される光景となってしまった。
 ――別に良いのに。
 部屋の主が、何度もせっせと部屋を改めていく彼女に掛けてきた言葉がありありと思い出される。うんざりする、幻滅だ。消えてしまうような幻想だって抱いていなかったけれど、反面教師にだってしたくないのだ。氷見はいつだって「別に良いのに」を無視する。一人暮らしの最低限の清潔を、一人暮らしの部屋に他人を招き入れられる最低限の清潔に書き換えようと氷見は躍起になっていた。そんな様を同じ二宮隊の先輩である犬飼が見たらきっと笑っただろう。氷見らしくない、或いは氷見らしいと指差して。
 氷見がリビングを覗くと、部屋の主である鳩原はリビングの中央に置かれた――一人暮らしの部屋に置くには聊か立派過ぎるような――ベッドソファで丸くなって眠っていた。氷見は自然、物音を立てないよう慎重になる。
 鳩原がこのソファに身体を投げるとき、大抵はそのままうとうとと微睡んで眠ってしまうことが多かった。それは氷見がいてもいなくても変わらない彼女の身体に馴染みきった習慣というもので、きちんとベッドで眠るべきだとか風邪をひかないよう窓を閉めて、毛布やブランケットを掛けてから眠った方がいいといった親切に響く忠言すら差し出せるものではない。鳩原がひとりで身に着けた習慣は、いつも氷見を突き放す。
 部屋の中に湿っぽい空気が満ちている。外は今にも雨が降り出しそうな曇り空で、氷見はつい鳩原が丸くなっているソファを通り過ぎてベランダを覗く。どうやら洗濯物は干していないようだ。ほっと息を吐いて、顔を顰める。干しっぱなしになっていたとしても、別に取り込んでやるつもりはなかった。

「鳩原先輩」

 返事はない。静まり返った薄暗い部屋で、どうしてか寝息すら聞こえない。
 晴れの日には目を細めるほどの鬱陶しい日差しが差し込んでいないせいかソファの上にはっきりとしない輪郭をぼやけさせている鳩原に氷見は彼女らしさを見る。二宮隊の狙撃手。我が弱いだとか流されやすいだとかとはまた別の場所で単にあまり目立たない人だ。自己主張は全くしないというのではないけれど、よほど譲れないことでなければどうでもいいと――流されやすいどころか、彼女は流す側の人間なのかもしれない。人を撃てないと頑なにその一点を崩せない人。嫌いではない。でもどうして、オペレーターとしての俯瞰を意識しなければ決して無防備に慕えない人。それが氷見にとっての鳩原だった。

「鳩原先輩」
「……ん」
 二度目の呼びかけに、鳩原が眉を寄せて身じろぐ。それから氷見はじっと彼女が起きるのを待っていた。何も言わず、換気のために窓を開ける。ベランダは雨で一面濡れていた。


 眠りから目覚めた鳩原は、勝手に部屋に上り込んでいた氷見を見ても何も言わなかった。僅かに目を見張りはしたが、氷見の説明など求めずにただ自分の部屋に上り込んでいるのが氷見であると認識できればそれで彼女の処理は終わる。へらりと笑いかけて「寝ちゃった」わかりきったことを伝えてくる鳩原に溜息こそ吐かなかったが苛立ちで息が詰まった。
 せめて「どうしたの」とか「何の用なの」とか、氷見に答えを求める言葉を用意して欲しかった。会話を楽しめる相手ではない。氷見も求めてこの部屋へやってくるのではない。きっと二人の間には会話よりも沈黙の方が多く存在してきた。それは気まずさとは違う。それでも氷見が気の済むように鳩原に向けて言葉を投げ続ければ、行き着く言葉は結局同じものになるのだろう。
 ――別に良いのに。
 鳩原には、二宮隊のオペレーターが氷見でなければならない理由も、こうして部屋を訪ねてくる後輩がいることも、違ってしまうのならばそれはそれで別に良いことなのだろう。氷見だって、別に、自分の世界の中で鳩原が収まっているポジションに別の人がいてくれたって構わないと思っている。

「お茶を淹れようかな」

 でもどうしようかな。ねえ、私は喉が渇いているのかな。そんなふわふわした、自分のことすらよくわからないといった声音で鳩原が呟くから、氷見のぐるぐると渦巻き下降するしか進路がない思考はぶつりと途切れる。

「亜季ちゃんも飲む?」

 客の為に淹れるのでない。

「大丈夫です」

 もてなされたかったわけではなく、けれど反射的に断ってしまったのはたぶん、むっとしたからだろう。

「そう」

 お茶を淹れに台所へ引っ込んでしまった鳩原が直前まで眠っていたソファに勝手に腰を下ろす。どうせ彼女は怒らない。当然のことながら、まだソファは温かかった。触れたこともない人の温もりが、そこにはあった。
 氷見は目を閉じて耳を澄ます。鳩原が水をやかんに水を注ぐ音。コンロに置いて火を点ける音。ひとり暮らしの部屋で発する音は同じ場所に二人収まって耳にするには響き過ぎる。だからやっぱり氷見はこの部屋が好きではない。鳩原の、鳩原の為だけの部屋。

「亜季ちゃん、紅茶にミルクって――」

 いつもと変わらないトーンが氷見の耳朶に触れる。優しくも冷たくもない、ただの鳩原の声だった。
 ――お茶、いらないって言ったじゃないですか。
 そう呆れて噛みつくよりも先に氷見は立ち上がり、鳩原を追って台所へと向かう。起きたばかりの、氷見の返事の内容も聞こえていないような鳩原に二人分のお茶を運ばせるなんて危険極まりないと思ったから。
 一向に気の休まらないこの部屋を、氷見はやはり好きではない。ただ決定的なはずのその感情が、この部屋から足を遠ざける理由にならないことが不思議で仕方がない。
 へらり。
 またしても締まりない笑みの鳩原を見つめながら、氷見は本当にわからないことばかりだと心中密かに溜息を吐いた。




私の箱庭
20150924






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