暖かい室内に入ると、寒さに晒されていた指がぴりぴりと痛んだ。手袋を忘れてしまったことは家を出て、鍵を閉めた瞬間に気付いていた。けれどまた鍵を開けて部屋まで手袋だけを取りに戻って靴を履き直しまた鍵を閉めるという動作が直前まで室内で暖まっていた体温への過信も手伝ってひどく億劫に思えた。毎年、冬になると一度はこうした失敗をしている気がする。マフラーだとか、耳当てだとか。どうして冬は寒いのだろう。そんなことを、ふと真剣に考え始めて、直ぐにやめた。冬は寒いものだ。
 扉を開けると、部屋には誰もいなかった。けれどしっかり暖房がついているから、支部内のどこかには誰かいるのだろう。今日は小南と木崎の二人しか防衛任務は入っていないから、可愛い後輩たち――絶対に自分がそう思っていることを小南は頑として認めないけれど――が来ているとしたら訓練室の方か。それならば栞もそちらにいるのかもしれない。お腹が空いていたけれど、おやつの管理は栞がしているので今日の分のそれがどこにあるのか小南にはわからない。適当に漁って、うっかり明日のしかも陽太郎の分になど手を付けてしまおうものなら余計な騒ぎが起こるのは明らかだ。ただでさえ小南は自分の分のおやつを横取りされることに我慢がならない性分であることが周知の事実となっているので、そんな自分が他人の分を影でこっそり横取りしたなどということがあってはならないのだ。
 脱いだコートとマフラーをソファの背に放り出す。いつもなら支部内にあてがわれている自室に置きに行くのだが、誰も見ていないのをいいことに勝手に振る舞う。何よりもう少しこの部屋の暖かさにしがみついていたかった。物置になったソファとは別の一人掛け用に腰を下ろす。かじかんでいた両手を握って目を閉じる。静かな部屋の外側から、近付いて来る一人分の足音。何となく、誰の物かわかる気がして、小南は自分の中で賭け事をする。もしも相手がこの部屋に用事があって入ってきたら、やって来たばかりの小南に気付いて声を掛けてくるだろう。そして想像通りの人物か判明するまではじっと目を閉じて動かないでいる。頭に思い浮かべている人物はたった一人、今更撤回は出来ない。
 ギイ、と扉を引く音とパコパコと間の抜けたスリッパの底が床を踏みしめる音。それから――ぼりぼりと何か齧っている音に小南の眉間にしわが寄る。こんなの、声を聴くまでもない雄弁な正解の音だ。

「お、随分と大人しいな小南」
「――ひとりで騒ぎまわる方がおかしいでしょ」
「でも小南はひとりで騒ぐでしょ。自分の分のおやつがないときとか」
「迅みたいにいっつもぼんち揚げ持ち歩いてるわけじゃないから必死にもなるのよ!」
「ふーん」

 やはりやって来たのは迅だった。玉狛支部に住み込んでいるのだから、防衛任務がない日に支部で居合わせてもなんの不思議もないのだが、格好がボーダーで活動する際の――それすら普段着と言ってしまえばその通りなのだが――もので、ベルトにぶらさげたホルダーにもしっかりとトリガーが収まっているのを見て小南はおや、と首を傾げる。トリガーを使うだけなら、設定した服装へと変換されるのだからきっちり身なりを整える必要はないはずだ。だから迅は、これから出掛けるのだろう。恐らく、本部でランク戦をするために。

「――また太刀川とやるの?」
「まあねー。太刀川さんくらいしか平日の昼間にランク戦しようよって誘いかけて乗ってくれる人がいないんだよね」
「みんな学校があるもの。太刀川だって受けちゃダメなんじゃないの?」
「さあ? 大学生って暇なんじゃない? レイジさんとかはそうでもなさげだけど」
「アイツ成績ヤバいって忍田本部長が言ってなかった?」
「だとしてもほら、責任は太刀川さんにあるから」
「冷たい奴め」

 実力派エリートを自称する迅の目印でもあった黒トリガーの風刃をどうしてか――何となく想像はつくけれど、迅がなあなあではっきりと説明しないので誰も深く追及はしていない――本部へと返上してしまってから、彼はこうして頻繁に本部へ足を運ぶ。
 ソロのA級隊員である迅はそのポジションを全て個人の戦績で確立しなければならないので、なかなかどうして防衛任務とランク戦の両立は大変なのかもしれない。既に顔が知れ渡っているから、誰も彼もが相手をしてくれるとは限らない。手合わせをして自身のレベルアップに繋げようという向上心のある者でなければ、迅のサイドエフェクトと聞き及んだだけの実力に物怖じして逃げて行ってしまう。結局最初から同等に近しい実力を持ち合わせたA級隊員を引っ掛けるのが手っ取り早い。その上迅との対戦に盛り上がりを見せる太刀川を捕まえられれば猶話は簡単になる。勝率から見ればポイントは現状維持から少々増えたり減ったりを繰り返すのみになっているが迅も楽しんでランク戦に臨んでいるように小南には映った。
 本部の規格から外れたトリガーを持つようになってから、小南も随分本部とは疎遠になってしまった。弱い奴が嫌いだから、ボーダーが組織としてその形態を大きくすればするだけ目につくようになるC級隊員やB級に上がっても彼女の目に弱っちいと映るものに無関心でいられる玉狛支部の居心地の良さに浸っていた。迅も、風刃の持ち主となってランク戦から外されてしまってからは上層部に呼び出されるとき以外それほど本部に足を運んではいなかった。何より風間あたりが迅が用事もないのに本部を出歩いていると何か企んでいるのではないかと邪推するらしい。困ったものだと肩を竦める迅に、きっと玉狛の誰もが暗躍ばかりしているからだと風間の肩を持っただろう。
 そんな迅が、近頃では随分と楽しそうに本部へ出かけていく。表向きには普段と変わらない飄々とした体を装っているけれど、見るものが見ればわかるのだ。無意識に鼻歌なんぞ歌っていることを迅はいつ頃気付くだろうか。友だちを家に招いてもてなしたがる子どものように、既に開封してしまったぼんち揚げとは別に未開封のぼんち揚げを持って行こうとしていたり。太刀川がぼんち揚げに迅ほどの愛着を持っているとは到底思えないけれど、彼なら食べるかと聞かれれば食べるだろう。

「あ、小南これあげるよ。今日のおやつな」
「あんたの食べかけのぼんち揚げが!?」
「だって今日のおやつもうないよ。陽太郎が全部食べた」
「はあああああ!?」

 部屋に入ってきたときから食べていたぼんち揚げの袋を差し出してくる迅に口先では憤慨しながら、小南は結局その袋を受け取る。中身に手を付ける前に、明かされた今日のおやつの行方に声を荒げる。他人の分を勝手に食べることになったら申し訳ないと棚を漁るのを自重していたのに、既に小南の分は他人の腹に収まった後だったらしい。
 今にも陽太郎をとっちめてやろうと走り出しかねない小南の頭を、「まあまあ」と彼女の怒りへの寄り添いが全く感じられない迅の手が撫でた。その手はまさかさっきまでぼんち揚げを摘まんでいた手ではなかろうなと振り払いたかったのに、迅に頭を撫でられるなんて子ども扱いを受けたことに驚いてしまって、小南は硬直したまま動けなかった。

「帰りになんか買って来てやるからさ」
「…………ぼんち揚げはいらないからね。何か甘いものにして」
「ん、実力派エリートに任せなさいって」
「あと!」
「うん?」
「太刀川にちゃんと勝ってきなさいよね!」
「そりゃあ勿論」
「ふん!」

 激励なんてするほど大一番に臨むわけでもないのに。恥ずかしくなってそっぽを向いた勢いで迅の手が頭から離れていく。ぐぐっと腕を上げて身体を伸ばしてから、迅は「それじゃあ」と手を振りながら部屋を出ていく。小南が「いってらっしゃい」と告げたときにはもうその姿は見えなくなっていた。
 防衛任務が終わる頃までに、何か甘いお土産を持って帰って来てくれればいいのだけれど。部屋の壁に掛けられた時計を見上げながら、迅が帰ってくる頃には日が傾いて一層寒さが増す時間帯だということに気が付いて、小南はマフラーくらい貸してやればよかっただろうかと放り出したままのそれを一瞥して小さな溜息を吐いた。



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切なくならないぎりぎりのところ
Title by『わたしのしるかぎりでは』






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