じんじんと熱を帯びている頬を擦る。読み逃したなあと笑う迅に、彼の頬を思いきり打ってしまった沢村は未だ呆然と尻もちをついている彼を見下ろしていた。

「――トリオン体だと思ってたわ……」

 声が震えていた。そんな悪いことをしたわけではないのだからと励ますべきか迷って、それではこちらが被害者のようだと考え直し、迅はただ笑みを絶やさないことにする。いつも通り沢村の尻に手を伸ばした自分が悪いのだ。迅としてはスキンシップのつもりのセクハラは慎重に相手を見極めて行っているつもりだ。勿論面識のない相手に突撃などできないし、迅を原因にして異性に嫌悪感を抱くほど潔癖な相手も相応しくない。痴漢とあだ名を付けられた時は流石に凹んだし、遠巻きに迅を見て年下の女の子を自分の背後に庇う年長の女性もいた(素晴らしい責任感だと迅は感心する)。そうまでして女性の尻を触りたいのかと言われると熱弁しがたいのだが、触ってもいいのなら触りたいし、駄目なんだろうけれど触りたいのが男の性だった。自分の持っている能力を、多少自堕落に使ってみてもいいだろうという遊び心も手伝って、彼の手癖の悪さは今の所直る気配を見せない。そんな中、沢村は頻繁に迅のセクハラの被害者に名を連ねる女性だった。多少付き合いが古くからあることと、年上であること。男性と女性という差で迅に怯まないこと、必要とあれば反撃も厭わないこと。諸々の条件をクリアして、迅にとって沢村はセクハラを差し引いても気安い女性だったのだ。基本的に、両手が塞がっている状態の沢村に背後から近づいて尻を触るのが迅のセクハラのセオリーだ。後から蹴りで逆襲されても反射的な攻撃でないそれは大したダメージにはならない。痛いことは痛いけれど、そうでなければへらへら笑いながら女性の尻なんぞ触れない。
 今日、迅が沢村の尻に手を伸ばしたときも、彼女は両手に荷物を持っていた。通路の曲がり角で立ち止まり、資料の挟まった分厚いファイルを抱き締めるように抱えていた。けれど、もっと大きな荷物でないと咄嗟に放り投げてしまうらしい。尻を触られるとほぼ同時に上がった悲鳴と手から滑り落ちたファイル、振り向きざまにお見舞いされたビンタは綺麗に迅の頬を捕えた。予想外の反撃に、迅はあっさり吹っ飛んだ。

「じ、迅くんも悪いんだからね、またそうやって人のお尻触って!」
「あー……、返す言葉もございません」
「ホント、そんなんじゃ本当に好きな人が出来たときに誤解されちゃうわよ……!」

 気まずさを誤魔化すように沢村はまくしたてる。落としたファイルの中身が散らばって、それを拾い集めながらの説教は本音だろうが真剣味にかけている。迅も床に座り込んだまま、手の届く範囲のプリントを拾って彼女の方に差し出す。受け取る為にあっさりと迅との距離を詰めてしまう彼女は、今しがた尻を触られたばかりだということをわかっているのだろうか。そんな彼女だから、性懲りもなくセクハラに及んでしまうのだけれど。
 ――本当に好きな人が出来たときに誤解されちゃうわよ。
 沢村の言葉を、脳に記憶した彼女の声で何度も繰り返す。「ありがとう」と沢村が迅の手から資料を受け取ったとき、彼は無意識に俯いていた。
 ――沢村さんは、おれに好きな人がいないと思うんだ。
 確かに、好きな人がいるならば対象を絞っているとはいえ傍目には無差別に見えるセクハラを他者の目があるかもしれない場で行うことは出来ないだろう。迅の日常はボーダーという組織に埋まっているのだから。ここでセクハラなどという悪行に及べばその行いに対する噂が好きな人の耳に入ることを覚悟しなければならない。迅はボーダーの中でもそれだけ有名人なのだから。
 けれど、迅には好きな人がいる。好きな人だからと、積極的に動けるような恋とか愛とか、時には献身だとか。そんな風に人生の主役を張れるような強烈な感情ではなかった。ただ好きだと思っている人がいる。そのことを、沢村は知らない。迅以外の誰も、そのことを知っているはずがない。今まで誰にも打ち明けたことはなかったし、これからもない。もしも自分が爺さんになるくらいまで無事生き延びて、その時まで付き合いを保ったままの人間がこのボーダーにいればもしかしたら、今際の際くらいに懐かしい思い出話として打ち明けることがあるかもしれないけれど。ただどちらにせよ、迅はこの気持ちが相手に届いて実を結ぶ類のものだとは思っていなかった。

「ね、沢村さん。さっき何見てたの」

 散らばった最後の資料を拾おうとしている沢村はとっくに迅に背を向けてしゃがんでいて、そして迅の言葉にわかりやすく身体を強張らせた。その反応に、迅は自分を嫌な奴だと自覚する。彼女が通路で立ち止まっていた理由を、迅はその肩越しに見て、余りの居た堪れなさにセクハラを働いたのだから。

「太刀川さん、今日こそは忍田さんに手合わせして貰うんだって張り切っててさ――」

 沢村はこちらを見ない。

「変わらないよねー、昔から」

 忍田の強さに惹かれて、ボーダー内個人ランキング1位まで上りつめても手のかかる子どものように師に稽古を強請る太刀川も。

「いい加減太刀川さんも弟子とってもいいくらいなのに――」
「迅くんも、見苦しいって思う?」
「…………」
「いつだって私が一番傍になんて、無理なのにね」

 忍田に人として惹かれて、戦闘員を引退して彼を補佐する役職に就きながら、強さというわかりやすい物差しで繋がった忍田と太刀川の二人を羨ましそうに見つめる沢村も。
 何て変わり映えしない人なんだろう。沢村自身が気付いている、見境のない憧憬は伝えもしない恋で以て彼女の首を絞めるだけなのに。
 それでも、25歳という大人の女性とは思えないほど頼りない声で迅に答えを求めてくる彼女に返す言葉はいつだって優しい嘘で固めてしまうと決まっている。

「――思わないよ。ちっとも、思わない」

 だっておれも大概だからね。大してついてもいないであろう埃を叩きながら、迅はようやく立ち上がる。そしてしゃがみ込んだままの沢村に手を伸ばす。彼女に不届きな真似をしたばかりのその手を、驚くほど迷いなく掴む。

「やんなっちゃうなあ」

 顔顰める沢村は、深い溜息と共に忍田と太刀川が話していた方を見た。そこにはもう誰も居らず、彼女はもう一度息を吐く。
 沢村が忍田本部長を好いていることは、ある程度付き合いが長ければ察してしまうものだ。けれど忍田とすぐ傍にありながら街の防衛に力を尽くそうとしている彼の邪魔にならないようにと気丈に気持ちを隠し通している沢村の姿に、面白半分で茶化すような真似をする者もいない。逆に、進展の為にお節介を焼いてやれるような者もいなかった。いくら暗躍が趣味の迅でも、こればっかりは手を出せない。

「早く好きって言っちゃえばいいのに」
「今は無理。仕事、立て込んでるのよ、わかるでしょ?」
「そりゃあ、ね」

 無責任に、提案してみるだけが限界だ。恋にはいつだって当事者だけがいればいい。迅は無関係な第三者だった。
 でも。

「沢村さんずっと頑張ってるんだからさ、ちょっとくらい幸せになっても罰は当たんないんじゃない?」
「頑張ってるって、何を?」
「――仕事?」
「そんなの、迅くんだって同じでしょ?」
「おれはぼんち揚げがあれば幸せだよ」
「安いし寂しいし枯れてるし。夢のあることを言ってよ、未成年」
「未成年でも実力派エリートなもので」
「――そう、そうね」
「笑うところだよ」
「笑えないわよ」

 幸せや罰という言葉がすらすらと自分の口から零れ出ることが迅には不思議で滑稽だった。仮にも未来を見ることができる自分が、好きな人と結ばれる幸運を、仕事に対する頑張りの対価として湧いて出た縁のように語ってしまうのは如何にも嘘くさい。沢村が幸せになればいいと思う。それは決して嘘ではないのに。
 迅は沢村が好きだ。恋とか愛とか、時には献身だとか。そんな風に呼ぶには、迅は沢村の気持ちに近付き過ぎて、自分の気持ちを遠ざけすぎたけれど。だから、せめて彼女が幸せであればいいのにと願う。彼女が望んだ相手の隣で。この願いは聊か自虐が過ぎて、絶対言葉にしないと決めている。格好つけているように思われるのも、未成年という子ども扱い同様に遠慮したかった。

「――私はもうちょっと浮いた話とは無縁でいるでしょうけど」
「えー」
「迅くんはさっさと好きな人を見つけてくっついちゃいなさいよ」
「簡単に言ってくれるよね」
「簡単でしょ。若いんだから」
「沢村さんさーー、ホントもう、あー……」

 25歳だって、まだまだ充分若いでしょうに。会話の流れにそぐわないから黙っておく。ただ、意地悪い言い方をすればおばさんくさいと思ってしまう。そんな、我が身の盛りが過ぎ去ったような言い方は。

「沢村さんは幸せになるよ、絶対」
「ありがと」
「おれが保証するよ」
「――ええ」

 ここでサイドエフェクトという根拠を求めないところ、迅が沢村を大人だと感じる近辺。実際、サイドエフェクトでは何も見えてはいないのだから、彼女の誠実さは――恋を律する辺りも含めてその人間性は概ね――正しい。
 だからというわけではないけれど、やはり沢村は幸せになるだろう。そう在るべき以外の末路を、迅は描きたくはなかった。幸せにするのは、恐らく自分ではないとしても、だ。
 未だにひりつく頬を緩ませて、迅は励ましのつもりで沢村の背を押した――つもりが思わず尻を撫でてしまったのは今回は本当にわざとではないので、手に抱えたファイルを振り上げるのは待ってほしい、という願いは生憎叶わなかった。それでも、今度は頭頂部を押さえながらも迅はこんな子どもじみたじゃれ合いを繰り返せる彼女との関係も悪くないと思っている。
 大袈裟に、幸せと呼んでみてもいいかなと思うくらいには。




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きみは幸せになるしかないんだよ
Title by『さよならの惑星』






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