「別れた方が楽ですよねえ、色々と」

 出水の部屋で携帯に視線を落としながら、なんてことはなさげに佐鳥が言うものだから出水は驚いて読んでいた漫画のページを破いてしまった。借り物だったのに。これは弁償しなければならないだろう。溜息を吐くと、佐鳥はやっぱり出水の方を向こうとはしなかった。
 ――別れるって、なに。おれたちのこと?
 不機嫌な声を出すつもりだったのに、喋る準備をしていなかった喉は乾いていて声が出せなかった。或いは単純に、動揺していたからかもしれない。
 いつだって自分の周囲をうろついて二人を繋ぐ役目の過半数を担っている佐鳥の突き放すような物言いが、不意打ちで冷水を浴びせられたかの如く衝撃を持って出水の思考を止めてしまった。
 先輩としての優位性を保持従ったままの恋愛は、いかんも構ってやっていますという体を外側にアピールすることに終始しているように思う。実力が物をいう組織で出会ったからかもしれない。
 ――だっておれ、A級一位だもんよ。
 そんな言い訳を頭の中でぐるぐるとこねまわしている出水とは正反対に、佐鳥はぼんやりと携帯に視線を集中させている。敬語だったから、当然のように自分への言葉と判断した出水だけれど、実際は無意識に零れた言葉だったのかもしれない。だから、本音に近いし、佐鳥の思考を占領している事項であることに変わりはなくて、出水の状況は何も好転してくれない。聞かなかったふりをすれば乗り切れるこの場を最優先すれば、いつか佐鳥からトドメの一撃を貰うのだろう。それは情けなくて、嫌すぎる。

「――佐鳥」

 呼ぶ声はいつもよりずっと小さかった。出水を見つめてくる佐鳥の表情も、次の言葉に対する期待も警戒もないぽけっとした表情だった。

「別れた方が楽ってなに?」

 声が震えないように必死に踏ん張って、最低限の言葉しか発せなかった。不機嫌も、怒りも乗せられなかった。勝手に怯えが乗り込まなかったことだけを今はただ褒めてやる。
 出水の問いに、佐鳥はやっぱり無意識だったのかゆっくりと、きっちり三回瞬きをしてから「あー」と呻き、俯いて、また顔を上げてから「そんなこと言いました?」と尋ね返してきた。やっとの思いで聞いたのだから、質問を質問で返すのはやめて貰いたい。こんな話はしたくないという出水の気持ちなんてまるで察せないというように――そもそも恋人と別れ話に繋がりかねない不穏な話題を膨らませようと考える人間なんていないはずなのに――、見事に鈍感な表情を浮かべていた。
 不快だと――怯む気持ちは抱えたままだったけれど、現在の意思表示として――眉を吊り上げた出水に、佐鳥は彼の答えを理解し、どう説明して良いものかと頭を掻いた。どうやらこの人は、自分の言葉を真剣に取り合ってくれるつもりでいるようだから。

「先輩のこと嫌いになったからとか、気持ちの問題じゃなくて」
「世間体が悪いってか? 今更?」
「悪いことは悪いんだけど、それは男同士だからとかやっぱりそういうことじゃないんですよ」
「ああ?」
「オレと、佐鳥といると誰だって体裁悪くなるのかなって、思ったから、ちょっと可能性の話をしただけです」
「だから――!」

 何の可能性の話をしているんだと声を荒げようとして、やめた。出来なかった。佐鳥が急に泣き出したから。へらりと口元に笑みを象りながら、しかし眉は情けなく下がっていて、瞳からはぼろぼろと涙がこぼれてくる。指で触れて、佐鳥も驚いて瞳を見開くけれど、それは溢れる涙の量を増やしただけだった。
 泣きたい気持ちでいたのは寧ろこっちの方だろうと、出水は呆気に取られて「どうした」とか「大丈夫か」とか、掛ける言葉はいくらでもあるはずなのに。けれどこれ以上佐鳥の自己完結の中から弾きだされたらたまらないという意地だけで、出水はようやく腕を伸ばしてその頭を撫でた。いつもなら、ワックスで整えているのが乱れるからと嫌がりながらも満更でもない表情を見せてくる佐鳥が、今日はただ泣いているだけだった。

「出水先輩、石を投げられるような恋人どう思います?」

 涙はどうしようもないから、せめて鼻を啜って。それから佐鳥の語り出した言葉に、出水はやはり頭が追い付かないのだ。今日の佐鳥の言葉が、彼らしくなくてどう相手していいか分からない。出水の名前を呼ぶだけでいいのに。他は黙ってくれて構わないのに。そんな言葉を挟み込む雰囲気でないことくらい、流石に承知しているけれど。

「オレ嵐山隊好きだし、広報部隊って役職に何の不満もないんですよね」
「――知ってる」
「だから、今回みたいに街が壊れるような侵攻があってから格好の標的になっても多少は仕方ないと思うんですよ」
「標的って――」
「ボーダーは何やってたんだって言われたら、必死に戦ってましたよとしか言えないじゃないですか」
「は? お前そんなこと言われてんの? 何で?」
「ボーダーだって、わかりやすいからでしょ」

 そんなことを言っているのではないと、出水は漸く声を荒げた。思ったよりもずっと低い声で、佐鳥は困ったように出水を見ている。出水は佐鳥をどんな目で見ているのか、自分では見当もつかなかった。
 佐鳥に怒っても仕方がないことで、けれど諦めたように自分に降り掛かってくる言葉に――少なすぎる言葉では完全に理解することのできない、出水からすれば理不尽極まりない他人の言葉、或いは行動を――どうして抗おうとしないのだろう。言い返すことはきっとこちらを不利にするのだろう。元は同じ市民で、戦うことを選ばなかった一般人がよくほざく。そんな暴言を、出水は初めて胸中に描いた。楽しいだけで、センスだけで、正義感の欠片もなく戦っている自分が抱くには都合の良すぎる正論だとしてもだ。

「最近そういうの多いから、オレと一緒にいると出水先輩も嫌な思いするかもしれないですよ」
「だから別れた方が楽ってか?」
「そうですね。少なくともオレは――」

 罪悪感とか、遠ざけておけるしと乾いた笑いで、佐鳥は頭に乗っている出水の手をそっと降ろさせた。その小さな後退が、また出水を傷付けたけれど、こんなことで凹んでいる場合でないことは明らかだった。
 出水の知らない場所で、出水の知らない人間が、出水の大事な佐鳥に干渉して自分たちの関係の邪魔になっているなんて迷惑極まりない。佐鳥の選択肢には、出水と離れてもそれはそれで仕方がないという妥協点があるということ自体恐怖になることを初めて知った。それは今まで必死になって佐鳥に懇願するまでもなく傍に置いておける(勿論、お互いの好意が失われない限りは)という自惚れをあっさりと壊してしまった。佐鳥ではなく、悪意だけの他人が。

「ずっと一緒にいるぞ」

 無責任さなら、負けなかった。

「ずっと、お前が勝手な非難とか受け続けても、おれがA級一位じゃなくなってお前に勝ってるもん一つもなくなるくらい惨めに感じても」

 その時がこなければどうなるかなんてわからないと知っていても。

「ずっと一緒にいるぞ」

 今こう言い切れないで、どうして今一緒にいることを望めるだろう。

「――出水先輩、格好いいっすね」

 今日初めて見た佐鳥の笑顔は、情けないくらい不細工に涙に濡れていた。さっきから止まる気配のない涙に、けれどもう悲嘆の色がないことに、出水は安堵する。
 ぼろぼろと零れ続ける涙を拭う為に、出水はもう一度佐鳥に手を伸ばす。今度はどかされないだろう。それだけを期待して、触れた。




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60万打企画/暁様リクエスト

すべての嘆きを従えて
Title by『春告げチーリン』






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