ここ最近寝つきが良くない。気怠い体に鞭打つと称するよりは、習慣を放り出すことに思い至らない日常への配慮のなさが滲んでいた。三輪の日常は、大抵そうやって流れている。真冬の、外の寒さを想像してマフラーを巻くわけじゃない。三輪の世界が暗がりに覆われる以前、彼にそう習慣付けた人がいるから、だから惰性で続けている。
 今年の冬が始まる前は、ニットの濃いグレーのマフラーを前の冬から引き続き使おうとクローゼットから引っ張り出してみたところ、その時三輪の部屋に上り込んでいた米屋に、随分色褪せているから新しいのを買うように言われた。三輪は気にならなかったけれど、米屋が言うのならばその通りなのだろうと、手にしていたマフラーをその場でゴミ箱に放り込んだ。買ってからどれだけ使用していたのかも思い出せないまま。新しいマフラーをどうしようか相談すると、どうせ暇なのだから今から買いに行こうと急かされた。
 暇だったのか。
 そう尋ねるよりも早く、米屋が玄関に向かってしまったので三輪は戸締りも疎かにその背中を追いかけた。取られて困るものも、殆ど無いような部屋だった。


 米屋と二人で出掛けて購入した新しいマフラーは、胡桃色を淡くしたような色で、同じニット素材のものを選んだけれど首の裏が時々チクチクした。こだわりのない三輪は、それこそ一番初めに目についた、目当てのものを売っていそうな店に適当に入って、適当に見繕って、(米屋が一緒にいる手前)ある程度悩んだふりをしてから、適当な物を買うつもりでいた。ショッピングモールに入るなり、建物の案内図を確認する米屋にそんな何軒も回るつもりもないのだと言い募れないまま(家を出るときも、三輪は米屋に何も言うことができなかった)、取りあえず――三輪はこの言葉があまり好きではなかった――メンズのフロアを周ってみようとエスカレーターに向かう米屋に、三輪はやはり階段の方が空いているだろうとは言い出せなかった。何階建てかもわからない――ただ高いという印象だけ、三門市で暮らしている最中積み重ねた無意識が覚えていた――建物を、階段で移動する人間の方が稀だということくらいわかっている。三輪だって、階段よりエスカレーターの方が楽だということくらいわかっている。
 掴まれている訳でもないのに、最後まで米屋に引きずられるようにして三輪は買い物を終えた。楽しそうにしていたのも、マフラーを選んだのも、レジにその米屋の気に召したマフラーを持って行ったのも米屋だった。代金は勿論三輪が払ったけれど。
 楽しいか?
 聞けなかったけれど、ずっと思っていた。買い物は必要最低限の習性だから、楽しくある必要はない。三輪はそう思うけれど、米屋はどうなのだろう。
 違うだろうな、きっと。
 そう、思った。


 寝つきが良くないとか、朝食を食べていないとか。そんなことは口に出して誰かに報告する必要のないことだ。結果は自分の身体だけに反映されることなのだから。それで行き倒れて迷惑をかけてしまっては人としてダメなこともわかっている。だから、自分の足で踏ん張って立っているのだ。誰にも迷惑はかけていない。それが三輪の言い分だ。
 待ち合わせ場所に、米屋は6分遅刻してやって来た。5分以内だったら何も言わずに流せそうなところを、また微妙な遅刻だった。笑いながら近付いて来る米屋を見ていると、自分が遅れていることも気付いていなさそうに見えたので、指摘するのをやめた。事細かく言葉を重ねることが、自分を狭量な人間に見せているような気がするから。そうして、米屋の前で三輪の口数はどんどん減っていく。
 そもそもボーダー本部へ向かうのに、待ち合わせをする必要もないのだが、米屋から一緒に行こうと誘われれば基本的に三輪は頷く。米屋といると自分の中で何かが損なわれていくような気がする。これはたぶん、被害妄想だ。

「秀次なんかさ、具合悪いの?」

 目敏い。けれど首を振る。体調は悪くない。良くないが、悪くもないのだ、決して。マフラーで口元を隠す。隣に並び「寒いよなー」と零す声はどこまでも呑気で震えてもいない。コートも着ないで、それでいて平然と寒いと唱える言葉は社交辞令に似ていた。三輪も、自分が寒いと思っているかよくわからなかった。

「そのマフラーこの間買った奴だよな。温かい?」
「マフラーだからな」
「そういう意味じゃねえんだよな〜」
「ちくちくするんだ」
「マジで? 洗えば?」
「何回も洗うと縮むんじゃないか? 材質的に」
「そんな急速には縮まないだろ」

 会話の最中に吐き出す息はどちらも白い。三輪の言葉に、米屋は愉快だと笑い、彼がちくちくすると言った首を触る為に手を伸ばしてきた。避けなかったけれど、反射的にぞわりと背筋が粟立って、相手に気付かれなければ良いと願いながらできるだけ優しくその手を掴んで引き離した。三輪が普段興じることのない、同級生の戯れみたいに思えるよう、精一杯の演技力で。

「縮んでもまた買えばいいじゃん」

 さっさと手を引っ込めた米屋が何てことはないと言い放った言葉に三輪は眉を顰めた。
 一冬の間に何回も同じ物を買うのは無駄だろう。
 常識的な反論だ。思いついたことに三輪は満足する。米屋の言い分だって間違ってはいないけれど、自分の生活の中でその発想はいささか活動的過ぎるのだろう。毎日学校に行って、ボーダーに籍を置いて、A級まで上りつめて、近界民を殺している自分の生活が活動的でないとは思わないけれど、姉を喪った怒りや憎しみ、悲しみといった感情に結びつかない場所での行動は惰性で済ませてしまえる。だからそう、非社交的なのだ。
 適切な言葉に辿り着いたと、納得している三輪に米屋は何を考えているのやらとその横顔を窺ってくる。

「秀次さ、考えること口に出さないと。オレ、わかんねえからな」
「――俺は、社交的じゃないなと思っただけだ」
「そんだけ?」
「ああ、そんだけ、だ」
「ふうん、でも秀次困ってねえんだろ?」
「ああ」
「それって、困るよなあ」
「そうか?」

 困っていないと言ったばかりじゃないか。
 また、続くべき言葉は音になることなく三輪の内側に溶けていく。言わなければわからないと米屋は言った。言わなければ、わからないでいてくれるのか。それならば、三輪は口を噤むことが人と付き合う上で正しい選択肢だと思う。打ち明けることは、押し付けることだ。誰にだって過ぎてきたこと、思ってきたこと、目指しているものがあって、それは個人の自由でなければならない。打ち明けられた瞬間、他人の言葉はまるで共有と共感を求めるように三輪の中に入りこもうとしてくる。それが嫌で仕方がなかった。
 寝つきがよくない。明かされた他人の過去と、付随して三輪の前を通り過ぎて行った嫌悪の対象について、どれだけ考えようと無駄なことなのに。そうして三輪が生真面目に悩んでいることを、彼は誰にも打ち明けない。隣を歩く米屋にも。勝手に察してくれているだろうけれど、それに関しても自分からは触れない。個人の勝手だ。何もかも。
 習慣で巻き続けるマフラーに、これだけは米屋が選んでくれたものという価値を追加するのも。だからできるだけ大事にしようと思うことも三輪の勝手に任されている。米屋が知る必要のないこと。

「――寒いな」

 会話の間合いを取り戻そうと、考えなしに発した一言は少し前の自分の発言を忘れてしまったのか「そうか?」という米屋の言葉に打ち消された。
 そのちぐはぐさが面白くて、三輪は無意識に口元に緩い笑みを浮かべていた。
 この距離は、気持ちいい。隣にいてくれれば、それだけが一番だった。
 他に必要なものは特に思いつかない。例えば、マフラーとか、大事にしようと思ったばかりのものすらも。
 失くせばまた、買いに行けばいいのだろう。たぶん、米屋に引きずられるようにして。



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クローゼット・ボーイ
Title by『3gramme.』






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