鍋に張った水を火にかける。普段は玉狛のキッチンに立つのはレイジか、飲み物を用意してくれる栞と相場が決まっているのだが今調理に挑んでいるのは小南だった。修は不安と情けなさ、申し訳なさなど冷や汗をかくに不足ない感情に苛まれて自分の腹に視線を落とす。何も小南と二人きりで沈黙しているときに空腹を主張する音を鳴らさなくても。今頃、遊真や千佳は何をしているかなと想像してみても二人が駆けつけてくれるわけもない。修のポケットに大人しく忍び沈黙を貫いているレプリカに頼めばいいのだろうけれど、折角の休日に呼び出すなんて申し訳ない。しかも理由が二人きりで接したことがない小南とどう向き合えばいいかわからなくて気まずいからなんて誰に対しても失礼な話だ。
 レイジのものではない、恐らく栞が使用する為に置いておいたらしいエプロンの斜めにクロスした紐が小南の背中で捩れている。邪魔だからとひとつに結ばれた髪と晒されたうなじが新鮮だった。トリオン体のショートヘアーは記憶の中で鮮烈だったけれど戦闘力というわかりやすい彼女の価値に細部は溶けてしまった。元より真剣に外見的な部位を観察する趣味は修になかった。物珍しさでしか、修はきっと外見を褒められない。もっとも、それすら上手く口が回ればという仮定条件が必要だった。
 慣れない調理に小南が何度も冷蔵庫から火元の間を往復している。出汁を取るのに使う昆布ならもう取り出しているはずだから、もっと視線を落ち着けて探した方がいい。声を掛けようか逡巡して、初めに「黙って座ってなさい」と釘を刺されたことを思い出して口を噤む。けれどそれは、お腹を空かせているらしい修の為に小南が腕を奮ってやろうと立ち上がった途端、鬱陶しいまでに恐縮し寧ろ自分が何か作りますと言い出した修を黙らせる為の手段であって、だがそれはやはり余計な口を挟むなという前置きだったのかもしれなかった。思考の決着に決定打を欠いている内に、小南の作業は次に移っていた。昆布を鍋に放り込んで、一先ず沸騰するのを待っているらしい。しかし探している間に随分水を火にかけていたのではと思ったけれどそれは余計なお世話だと気が付いて、修は考えることをやめてぼんやりと彼女の動きを見つめることにする。修も普段滅多に料理をするタイプでもないからはっきりとは言えないけれど、小南も似たような頻度でしかキッチンに立たないのだろう。レイジや栞が作業するときと比べると物の位置の把握が出来ていないこととそもそも慣れていないからという理由からだろう動きがぎこちない。普段から騙されやすいけれども自分の意見を主張することもそれに準ずる態度もはきはきとしている小南しか見たことがない修には、頼りになる先輩の背中が少し小さく見えてしまう程に。

「――手伝いましょうか?」
「いらないわよ! 座ってて!」

 返事はわかっていたけれど、念の為主張しておく。お腹が空いているという修に、それなら味噌汁でも作ってあげるわと立ち上がった小南のこと、彼女は先輩である自分を割と気に入っている節がある。それは勿論、指導することになった遊真が彼女の気に入るくらいに優秀だったこともあるだろう。面倒を見ることになっていた相手が修だったらこうはいかなかったに違いない。とにかく、今では修と千佳を含めて小南桐絵の可愛い後輩に収まっている修に対して彼女は一から十まで先輩でありたいのだ。烏丸あたりは、そんな先輩然としていたい小南の足もとを掬うように些細な嘘でだまくらかして楽しんでいるようだけれど。生真面目な修にそんなことが出来る日は来ないだろう。
 家庭科で味噌汁を作った経験のある修はその記憶と小南の動きを重ねて黙って視線だけで追いかける。修の位置からは鍋の中の状態までは見えないけれど、小南が昆布を取り出して鰹節をどっさり放り込んでいる様子に行程は教科書に載っていたものと違わず順調なのだなと胸を撫で下ろした。何が不安で安堵したのだと自分でもよくわからないのだが、修はずっと何かあったら即座に駆けつけなくてはと小南本人に知られれば憤慨されそうな心持ちで見守っているのだ。あまりアテになりそうにない、修の勘が不安を訴えているから。



 やはり自分の勘は当てにならないなと修は息を吐く。彼の心配をよそに小南は不器用な手付きながらも――手に持っている道具を傾けるとつられて頭が傾いてしまったりしていた――数回にわたり鰹節をこして合わせだしを完成させると冷蔵庫から取り出したカット済みの油揚げを放り込み、お玉で味噌を掬って溶かし見紛うことなき味噌汁を完成させて修の前に叩きつけた。会心の出来に勢い余ったのだろう、しかしあまりの勢いに跳ねた味噌汁がお椀を受け取ろうとしていた修の手にかかった。

「熱っ」
「そうよ、熱いから気を付けなさいよ!」
「はあ、すいません……」

 気遣いか叱責か判然とし難い声で告げられて修はただ頷いた。ちょっとばかしタイミングが遅いのではないかと真っ当に言い返せる人間がこの場にはいなかった。お礼と味の感想はどちらが先だろう。悩んだけれど、肝心の一口目を口にしても熱さでよく味がわからなかった。それから、修の反応を窺う小南の視線が痛すぎるせいもある。
 味噌汁だけで腹が膨れるかといえば微妙かもしれないけれど、修はただ小南に感謝する。先輩と後輩の、それらしい振る舞いというものは未だに修には馴染まないまま気恥ずかしさを含んだまま与えられているものを受け取るだけ。師匠である烏丸には、この先近界民と戦うことを選択しなくなる日が来たとしても頭が上がらなくなるのではないかというほど世話になっている。修の成長が、烏丸の労力に対する対価に成り得るかといえばそれは微妙なところだ。そんなことを気にせずに世話になっておけばいいのだと師は弟子に説くけれども本当にそうなのか。律儀な修はいつまでも疑問を引きずって生きている。小南に対しても、初めてあった冬の休日の態度からでは二人きりで彼女が修の為に自分の手を煩わせる選択肢を嫌がりもせずにこなす日が来るなんて信じられなかった。互いに歩み寄ったと言っていいのかは定かではない。正確に表すなら、小南が修の方に歩み寄ってくれたのだ。修はきっと、他人に対する立場の取り方は何一つ変わっていないと自認しているから。

「ありがとうございます、お味噌汁、美味しいです」

 これだけの言葉で、小南がしどろもどろになって修の謝辞を突っぱねながらそれがただの照れ隠しだと見抜けてしまうくらいの距離。遊真や千佳よりもずっとわかりやすくて、この玉狛における強さという基準に於いてもまた彼女はきっと単純に素晴らしいのだ。戦いの歴史のスタート地点の分だけ、修には小南はまだまだずっと遠い人にも思える。定まりきらない二人きりの間合いに、しかし小南はどこまでも無防備に何も感じていないらしかった。
 だから修は、本当はちょっとしょっぱいのだという正直な味の感想を飲み込んだ。出汁を取ったのに、出汁入りの味噌使ったら意味がないよなあということは、いつか機会があればレイジ辺りに指摘して貰えればいいと思った。今はただ小南の優しさだけが空腹の胃に優しく染みていることが大切だということにしておこう。



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飾られない卓上
Title by『alkalism』







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