※本誌55・56話ネタバレ含
※諸々捏造過多注意






「行っちゃうんですか」

 惜しむような響きが滲んでいたことに、栞は珍しいこともあるものだとメガネの奥で瞳を見開く。好奇心を押し出して、いつものようにぺらぺらと言葉で探りを入れると同時に答えをもぎ取ろうとするのはやめておいた。いじけている子どもを更にいじけさせるようなことはすまい。例えそれが僅か一歳しか差のない菊地原が相手だったとしても。もともと懐いた相手の前でしか傲慢な軽口も叩かない人間だったのだから――勿論、懐いていない相手の前では委縮して物が言えないという意味ではない――、いくら栞といえども一対一の状態で喋り倒せば菊地原は口を挟む隙を失ってしまうだろう。素直な言葉を吐き出すのに時間がかかる子というのが栞の菊地原への印象で、自分の内外を区別して外側の人間には圧倒的に受けの悪い毒をまき散らす。栞はそれを正直でよろしいと思っているけれど。風間と歌川も恐らくはそうだろう。わかりにくいけれど、菊地原は風間隊の二人に懐いている。栞にも、少なからず心を開いてくれていたのだろう。上着のパーカーの裾を摘まんで、引き留めてくれる程度には。


 栞に玉狛への異動話が持ちかけられたのは三週間前のことで、了承の返事を林藤支部長に伝えたのが一週間前。実際に異動するのは明後日だ。この間隔が短いのか長いのか、まだ学生の栞には判然としない。
 玉狛への異動を了承した決定的な要素は、やはり自身の好奇心に勝てなかったことだろう。玉狛支部が本部未承認の近界民技術を実験的に運用していることは噂で聞いていた。しかしその規格が本部のものとは違い過ぎるためにランク戦に参加していない。その為、本部では玉狛支部の隊員を見かけることは殆どない。その未知の技術をぜひこの目で見てみたい。それを使いこなして戦う隊員たちの姿を見てみたい。オペレーターである栞にスカウトの声が掛かるということは、当然玉狛の戦闘員たちのオペレーションを任せたいということなのだろう。直接話したことは殆どないが、最近A級に上がったばかりの烏丸京介にも玉狛異動の噂が立っている。彼を迎えるということは、新しくチームを形成するつもりなのかもしれない。そのチームのコンセプトやトリガーを間近で見ることができるかもしれないという好奇心に、栞はあっさりと負けたのだ。司令官の城戸が掲げる近界民根絶と、玉狛支部の主義が相容れないことなどどうでもよかった。栞はボーダーの人間として振る舞っているわけではない。所属の意識はあったとしても、あくまで自分の技術を駆使して、その効果の及ぶ範囲の観察といった情報支援を彼女が楽しんでいるという意識の方が圧倒的に幅を占めている。いとこの陽介には「栞はオタクだな」と言われてしまいそうだ。その陽介だって戦闘オタクなのだから、血は争えないということだろう。
 詰まる所、栞の評価は優秀だけどという歯切れの悪いものになる。更にいえばオペレーターにしては、という文が頭に着くのだろう。けれどそんな栞を風間は自分の掲げる目標を達成するための技術を持った人間として歓迎した。サイドエフェクトを持っているというだけで秀でているに違いないと決めつけるくせにその内容が豪華でなければ他人様の力であるにも関わらず落胆し陰口を叩く連中には目もくれず強化聴力を持つ菊地原を、彼が正隊員になる前から必要だとスカウトした。そうして引き合わされた栞と菊地原は、風間の要求に応えて隊員同士で彼の聴力を共有できるよう、菊地原に負担を掛けないよう調節しながらシステムを完成させた。作業中は事務的な会話しかした記憶がないのだが、栞は陽気でお喋りな性格で世話好きでもあったから、手のかかる末っ子を地で行く菊地原を放っておけずにあれこれ余計なことを話しかけていたのかもしれない。他愛ないこと過ぎて、記憶にはいまいち引っかかっていないだけで。

「アタシ、玉狛に異動になりましたー!」

 敬語だったから、風間に最初に伝えたはずだ。その場に歌川も菊地原もいた。栞が自分の口から玉狛への異動を告げたのは、風間隊といとこの陽介だ。今までは学校が終わってから一緒に本部まで来ていたがそれもできなくなるので、言わないわけにはいかなかった。
 風間は栞の異動が決定する前から可能性として林藤に聞いていたのだろう。驚きはしなかった。隊としてのコンセプトが完成してしまえば、風間隊に於いて栞の技術が活かされる場は減ってしまうことは気付いていたので、寧ろ近界民の技術者を抱えている玉狛の方が自由に動けるだろうと手短に激励した。歌川も、驚いてはいたが栞がオペレーターと一言で括ってしまっていいのかと首を傾げるほどの技術者であることを知っていたので、今回の異動が彼女の優秀さからくるものだと理解してくれた。ただ菊地原だけは、玉狛への悪口を二言、三言吐いただけで栞への別れの言葉だとか、激励だとかは一切口にしなかった。栞も大袈裟に別れを演出する気はなかったし、「きくっちーはこういう子!」と笑っていた。異動と言っても、仲の悪い派閥同士と言えどもそれは結局同じボーダーの中でしかなくて、春から高校も同じなのだから悲しむほどのものでもない。卒業式に別々の高校に進む友人同士の方がまだ湿っぽく分かれるべきだとすら思ったほどだ。

「本当に、行っちゃうんですか」

 だから驚いた。玉狛への異動を前に、本部で栞が使用していたPCデスク周辺に持ち込んでいた荷物を整理しているとひとりでやってきた菊地原が「行っちゃうんですか」などと尋ねてきたことには。喜ぶべきか、面倒だと思うべきか。それよりも栞は、そういえばこの子は一応敬語が使える子だったとぼんやり考える。

「行くよ〜。だってもう決まっちゃったもん」
「……やっぱりいやって言えばいいじゃないですか。会社じゃないんだし、強制力なんかないでしょ」
「そうだよ。だから自分から行くって答えを出したんだよ」
「……玉狛に行きたいんですか?」
「楽しそうだとは思ってるよ!」

 とことん己の欲求に嘘を吐かない栞の明瞭な言葉に、菊地原は傷付くよりも呆れているのだろう。けれど上着の裾を摘まむ手は離れない。
 ぶうぶうと唇を尖らせながら床を蹴る。言外に察してくれという態度を隠さない。栞は苦笑しながら彼の頭を撫でてやった。殆ど身長差はないけれど、暫く会わない間に追い抜かれてあっという間に引き離されてしまうのだろうか。長身の菊地原の姿を想像しようとして、苦笑がただのにやけ顔に変わってしまうのが自分でもわかる。

「背の高いきくっちーは可愛くないねえ」
「――は?」

 意味がわからないと胡乱気に見つめてくる菊地原を、栞は「きくっちーは今のままが一番可愛い」と繰り返し頭を撫で続ける。菊地原が運んできた湿っぽさは、栞の朗々とした笑い声が打ち消す。惜しむほどの別れではないのだと、別れと呼べるほどのものでもないのだと。距離や時間が開くことを菊地原に説いても意味はないのだ。栞が玉狛支部に異動するということは、菊地原の今まで通りを変えてしまう、それは間違いない事実だった。彼はそれを嫌がっている。

「まあ、その内きくっちーも玉狛に遊びにおいでよ」

 栞の誘い文句に、菊地原は思いきり顔をしかめた。「インドアめ」と頭を撫でるのを止めて頬を引っ張ってやる。「そんなに風間隊が好きかね」と茶化す声に返事は期待しない。素直じゃない子。可愛い子。懐けばとってもわかりやすい子。この距離を、本部と玉狛の距離が引き離す日が来るのだろうか。だとしても、そのときはまた自分から話しかけてやればいいだけだ。
 風間に声を掛けられて、己のサイドエフェクトを役に立たないと目を逸らした菊地原を栞はよく覚えている。その菊地原が、A級認定を受けた祝いの食事の席で僅かに嬉しそうにしていた姿も。思い出が溢れれば、暫くはこの我儘な菊地原の姿とあまり動かない表情の中でわかりやすく動いている感情の色を見つけてやれなくなってしまうことが、栞も物寂しくなってきてしまう。
 それも所詮お互いに今だけの感傷だとわかっているから、栞は自分の上着の裾を離さない菊地原を絶対に抱き締めてやったりはしないのだ。甘やかすには、彼はもうとっくに一人前のはずなのだから。




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わたしよりかなしい顔をするのはどうして
Title by『3gramme.』





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