世界はどこまでも広く、寛容である――とは生憎、空閑遊真は思わない。
 世界とはその人の暮らす社会という輪のことか、それとも大地、空、海といった自然のことか。どちらにせよ、世界にとっての一個人の価値などたかが知れている。代わりはいないと語っても穴埋めはできる。特に遊真は、これまでの人生を省みてそう思う。虚しいと寂寞に囚われるよりも先に、生きている現在点さえ明らかならば立ち止まっても仕方がないと知っていた。だから、広大なことを考えても無意味なのだ。生きていることがそもそも虚しいのだと、わかっていたとしても。
 割り切ることは冷静であることとイコールではなく、日常の中で行き着いた答えは非常時に容易くひっくり返る。弱い自分は強くなって変えればいい。弱さを嘆いて停滞していては何も変わらない。しかし重要なのは現時点での実力であり、身の丈にあった行動を選択するべきだ。少なくとも遊真はそう思う。でなければ過ちが生まれる。たとえば、本当に強い人を――生き抜くに不足ない実力を持っていた人を、自分の弱さに絡め取って引きずり落とし死なせてしまうような取り返しのつかない過ちが。
 遊真が父である有吾と死に別れて、彼の命に覆われるように生きおおせて、平坦に起伏を見せない感情のまま薄暗い世界を眺めている間にも四年という月日が流れていた。長短の基準を遊真は持たなかったが、楽しくも悲しくもない日々は体感を加速させることはなかった。減速していたのかと言われれば、そもそも外側に期待することをやめていた遊真には加速を願う想い自体がまず存在しない。無気力な生き方で、しかし父親から残された身体を失うこともできず。返上できるものならば即刻返上してしまいたかった。それだけが遊真の生きる細い希望だった。そんな遊真の内側の変遷など誰一人興味を示すことなく、世界は凡庸とまわり続け遊真が身を置く環境もめぐる。辿り着いた場所で出会ったのは、遊真のか細い希望を体現する現実ではなく、かつての自分の様に、或いはそれよりもずっと弱い、同い年の少年だった。
 自分がやるべきだと思っていることを実践する。ときに身の丈に合わない願いすら背負って彼は行く。他人の虚偽を見抜く力を得てから視界に入れざるを得なかった人の心の薄らかな表面。それとは全く違う、揺らがない心に柄にもなく安堵したのかもしれない。何せ彼は、頼まれてもいない遊真の世話を焼かずにはいられないのかと疑うほど善人だった。本人に告げれば、そんな良いものじゃないと否定するだろう。だが善人を良いものと捉えられる世界で生きているということ、そこに蔑視を挟み込まないこと。それ自体がきっと善良である証に違いない。だから手伝ってやろうと思った。遊真の砕けた望みの欠片を同情で拾い上げて馬鹿なおべっかを言うことなく、事実を知って、生きる理由を失ってやることがないのなら手伝ってくれと彼は言った。図々しいと怒ることも、許されたのかもしれない。けれどそんなことができない自分だから、頼ってくれたのかもしれない。付けいったのではない。向かい合ってくれた。それが遊真には嬉しかった。信じるに値する人間を、遊真はあの夜に確信を持って見つけ出した。

「――空閑?」

 長くもない、しかし目まぐるしく楽しかったと過ぎた日々を振り返っていた遊真の意識を、背後からかかった修の声がやんわりと呼び戻した。随分と聞き慣れた声の気がする。きっと、あちらでは認識する他人が少なすぎた。見抜かれているとも知らないで、父親の遺志とやらを勝手に捏造して自分を操ろうとした愚鈍な大人たち。そんな人間のことなど、遊真はいちいち覚えようとはしなくなっていたから。
 玉狛支部の屋上で、遊真は石塀に腰掛けている。フェンスのない屋上を囲う塀は乗り越えられないよう、高さがない分余裕で腰掛けられるほどの幅がある。特訓の休憩中、外の空気を求めて遊真はよく屋上に上がる。石塀に腰を下ろす遊真の姿は、下から見知らぬ人が見つければさぞ危なっかしく映るだろう。尤も、遊真がうっかり、万が一にも落下したとしても死ぬことはないので心配する必要はない。それは修も知っている筈で、けれどそれでも彼の口を衝いて出る言葉を、未来視のサイドエフェクトを持つでもなく遊真は知っている。

「危ないぞ、そんなところに座っていたら」
「――ほらな?」
「……ん?」
「いや、なんでもない」

 姿は隠しているが、遊真から離れることのないレプリカに話し掛ける。前置きのない呼びかけにも、レプリカは無言を貫きながらも全て察してくれていることだろう。緩む口元に含まれる感情の色を、レプリカはきっと喜ばしくも親心にも似た気持ちで見守っている。
 修から咎められても、遊真は動かない。ぶらぶらと足を振って、大丈夫だと訴える。修はわざと危ないことをしていると受け取るかもしれない。そうしたら彼は、怒らない。心配をしたまま、立ち去りもしない。大股で歩み寄り、もう一度危ないぞと忠告する。そこまで言うのなら、降りてやらないこともない。遊真の想像は、寸分違わず正解の軌跡をたどる。手を伸ばせば触れる距離まで、修は眉を顰めたまま立っていた。

「…危ないぞ」
「うん」
「小南先輩が……」
「呼んでた?」
「いや、そうじゃなくて――」
「ん?」
「でも、そうだな。うん、呼んでた。小南先輩、空閑の分のお菓子食べないで残してくれてるぞ」
「ほう?」
「空閑の分だって、言わないけど」

 歯切れの悪さは、嘘を吐いたからじゃない。間違っていない確信はあるけれど、勝手に思いを代弁しては嫌がられるだろうかと思案しているからだ。そして遊真は、この目の前の少年の生真面目さを受け止める。
 石塀から勢いよく飛んで降りた。少しだけ修との距離が開いて、見上げる視線の位置も遠くなる。屋上へ出る入り口に近い遊真がじっと立ち尽くしていることを、修を待っているのだと理解した当人は何も言わずに室内に戻ろうと歩き出す。修が遊真を追い越す瞬間、遊真も歩き出す。短い距離だ。拘って並ぶ必要はないけれど、今はどうしてかぴったり隣を歩いていたかった。
 ――修に会えてよかった。
 そんな、別れ際にしか言えないような気恥ずかしい台詞の代わりに。



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焦がれたての心は
Title by『ハルシアン』






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